夜が明ける。
眠っていた太陽が地平線からわずかに顔を出し始めた。
だが空はいまだ濃紺、夜の気配を十二分に残している。
生き物たちが活動を始めるまでにはまだもう少し時間がある、そんな薄暗い早朝のこと。
白ひげ海賊団のクルーのほとんどが酔いつぶれて寝ている中、赤髪海賊団のクルーたちは出港準備のためにせわしなくモビーとレッド・フォース号を行き来していた。
二日酔いでフラフラのクルーの尻を叩きながら指揮を執るのは船長ではなく副船長のベン・ベックマンだ。
全幅の信頼を寄せる彼にすべてを任せ、シャンクスは見送りに立つと別れの挨拶を交わしていた。
「楽しい夜だった。白ひげにもよろしく伝えておいてくれ」
「はい。こちらこそお酒ご馳走様でした」
潰れて起きてこない仲間たちに代わってがひとりでシャンクスの見送りをしていた。
昨夜の主役であった彼女もそれなりの量を飲んでいたが、今潰れることなくこうして起きて立っていられるのには理由があった。
(朝陽が眩しい……。目、痛い……)
薄らと隈の浮いた目の下を指の腹でそっと擦る。
ほとんど一睡もできなかった、寝不足の彼女の目に朝の光は少々きつすぎた。
今彼女がここに立っていられる理由、それはなんてことはない、ただ単に眠れず夜通し起きていたからだ。
自然と出てしまうあくびを両手で隠すを見て「眠そうだな」とシャンクスは笑う。
「失礼しました」
「あれか。もしかしなくても昨夜はマルコに寝かせてもらえなかったのか」
「……シャンクスさんってそういう冗談言う方だったんですね、意外です。あと残念ながらハズレです」
昨夜は深夜未明まで酒宴に参加し、そのあとは自室に戻った。
けれどベッドに横になってもうまく寝付けず、しかたなく部屋を出て、それからはずっと空いている見張り台から夜の海を眺めていたのだ。
いろいろと考えることがあって眠れずにいたのだが、昨夜溜め込んだ眠気が今になって一気に彼女に襲いかかってきた。
(お見送りしたらちょっと寝よう……、さすがにこれじゃ動けない)
ぼうっとする頭を緩く振って、見送りが済むまでは閉じてくれるなと瞼に喝を入れる。
必死に眠気と戦うの姿に、彼女が眠れなかった理由が容易に見当つくシャンクスは気付かれないように肩で息をつき「やれやれ」と呆れ気味の笑みを口元に浮かべた。
レッド・フォース号の出港準備が済んだらしい、「お頭ー!」と船長を呼ぶ声が届く。
シャンクスは「世話になった。じゃ、またな」と別れの挨拶を口にすると外套を翻してに背を向けた。
だが3歩も進まないうちに彼は振り返り真剣な目でを見つめると、彼女の心を揺さぶる一言を口にした。
「なぁ、」
*
酒が自分の理性を溶かすことはよくわかっていた。
頭の片隅ではいけないことだと理解していながら、けれどシャンクスの方へと傾く体を彼女はとめることができなかった。
燃えるような赤い髪、くっきりと残る3本の傷跡、その下で細められた目が静かに笑っている。
ゆっくりと2人の距離は縮まっていく。
吐息がかかる距離まで近付き、酒に濡れた唇が重なりそうになった、そのときだった。
「悪いな」
「……?」
シャンクスの声には閉じかけていた両目をぱちりと開ける。
ここまできてまさかのおあずけ。
視界がぼやけるほど近い距離にいる彼はなぜか悪戯っぽい顔で笑っていた。
「シャンクスさん……?」
「俺から誘っておいて恥をかかせるような真似をしてすまない。だが、今はここにしておくのはやめておこう」
「え? ぁ……」
シャンクスの指がの唇をするりと撫でる。
それから代わりだというように彼は彼女の頬に触れるだけの軽いキスをした。
小さなリップ音を立てて彼の顔はすぐに離れていった。
どうして唇じゃないのか、とどこか物足りないような顔をするにシャンクスは片眉を落としてクスリと笑う。
「またそんな顔をして。旦那に叱られても知らないぞ」
「……? 旦那って」
「白ひげから聞いた。、お前マルコの女なんだろう?」
「あ……」
楽しげに話すシャンクスに対し、問われたの返事はややは歯切れが悪い。
マルコとの関係を指摘されて照れているのかと思いきや、回答をはぐらかすように彼から視線をそらす彼女の態度にどうやらそうではなさそうだとシャンクスはすぐに察する。
だが深くは問わず、しばらく様子を見ようと彼は会話を続ける。
「いいのか? こんな暗がりで旦那以外の男と仲良くなんかしていて」
「まぁ……ばれたら怒られますね。またお説教されそうです」
「ほう。前科ありか」
「お恥ずかしながら。不貞の女だと軽蔑してくださって結構ですよ」
そういうふうに罵られることにはもう慣れている、とは眉尻を落とし呆れた顔で自分を嗤う。
シャンクスから返ってきたのは「いや、嫌いじゃない」という意外な言葉とにやりとした笑みだった。
「それはつまり、俺にもまだチャンスはあると思っていいということだろう」
「……? 何を言って」
「さっき言ったとおりだ。思わず欲しくなる。お前は海賊が持ちうるあらゆる欲を刺激する、不思議な女だ」
「……そんなこと言われたの、初めてです」
「そうか。ならばよく覚えておくといい。、お前は今後も出会う男にしきりに手を差し伸べられることだろう。自分とともに来い、と腕を掴んでくる者は多いはずだ」
「それは、今のあなたみたいに……?」
はいまだ自分の手首を掴んだままのシャンクスの手に視線を向ける。
けして強いわけではないけれど、だが振りほどくには少々力を要する。
(逃げたいのなら自分の意思で振りほどいてみろ、っていうことですか……)
それは優柔不断なが最も不得手とするところ。
誰かに手を引かれ流されるがままに生きてきた彼女にとって、自分の意思で決めろと選択肢を投げられることはある種侮蔑の言葉をぶつけられることよりも苦手とするところだった。
「あの……これってもしかしなくても勧誘ですか?」
「何を今更。もしかしなくてもそうだが」
「はぁ……」
冗談抜きの真剣な顔できっぱりと言われてしまい、は笑うこともできない。
「お誘いいただけたことは嬉しいのですが、私つい最近ここに落ち着いたばかりで。そんなにころころと鞍替えは」
「わかっている。何も今すぐにとは言わない。だが、俺は諦めないさ。お前も、そしてマルコのことも」
「……? どういう意味ですか」
意図がわからず問えば、シャンクスは隠すことなくに話して聞かせた。
実は彼女だけでなくマルコのことも、それももうずっと前から何度もうちに来ないかと誘っているのだと。
「忠義心の強い男だ。何度誘っても一向になびいてはくれないが、俺もなかなかに諦めの悪い男なんでな」
彼の不死鳥の力は是が非でも手に入れたい代物だとシャンクスは宝を狙う海賊の眼差しで笑う。
赤髪の大頭はが思う以上に貪欲だった。
が欲しい、その海軍で鍛え上げられた力を、海の女神の幸運を我が物にしたい。
マルコが欲しい、その類い稀なる能力を、白ひげの右腕として動く才のすべてを手に入れたい。
欲が尽きない、なんて海賊らしい男なのだろうと彼を評価しながら、同時にはやっぱり誰かに似ていると既視感を覚えていた。
「欲に忠実で、勝手で、陽気で豪快」
「ん?」
「シャンクスさんって子どもみたいな人ですね。手配書の写真の雰囲気と全然違う」
「ははは! 年は食っても心は生涯若くありたいんでね。それに欲に忠実なのは海賊なら皆同じだろう」
欲しいものは何であろうと、時にはどんな手を使ってでも手に入れ、自分の宝箱におさめる。
「それが海賊ってもんだろう」と、赤い髪の向こう側で細めた瞳を爛々と輝かせて彼は笑う。
そして掴んだままのの手首を再び強く引くと、男は彼女の顎に指をかけクッと上を向かせてキスするような体勢をとらせた。
鼻先が触れあいそうなほど近くまで顔を寄せられ、の胸がどきりと音を立てる。
「俺はずっと待っている。お前もマルコも、望めばいつだって俺の船に歓迎する」
「……」
「ここを離れたくなったら、そのときはいつでも言ってくれ。すぐに迎えに来る」
「……、ん……」
の顎に手をかけたまま、シャンクスは親指の腹で彼女の下唇をゆっくりと撫でた。
先程おあずけを食らった場所をわざと甘い手つきで撫でつけられ、は夢うつつな気分にさせられる。
彼女の意思とは関係なくじわじわと上がり始める体温。
少しずつ紅潮する頬と耳を目にし、快楽に従順な彼女の態度にシャンクスは楽しげに口角を上げる。
そして遠くに聞こえていた酒宴の喧騒がいよいよもって彼女の耳に入らなくなり始めたときだ。
「それ以上そいつに触れたら俺は親父に咎められるのも覚悟の上でお前ぇを殺すぜ、赤髪」
それは唐突に、ぬるい空気をぴきりと凍りつかせる声が2人の頭上から降ってきた。
は脊髄反射で声がした上方に顔を向ける。
その反動で彼女の唇からシャンクスの指は離れ、意図せずマルコの望むよう形にはなったが彼の眉間の皺はそう簡単には伸びはしない。
「マルコさん……」
「よぉ、マルコ。随分高いところにいるじゃないか」
「いつまで経っても戻ってこねぇと思って探しに来てみりゃ、こんな人気のねぇところで……。2人でよろしくやってたってわけかい」
とシャンクスのちょうど真上にあるヤード、マルコはそこに腰掛け2人を見下ろしていた。
光源のせいで顔に影がかかっていてわかりにくいが、彼がこれ以上なく怒り、呆れているのは漏れる覇気で容易に察せられる。
(……っ、まずい)
これは非常によろしくない事態だ、との中で赤信号が点滅する。
マルコがいつからそこにいたのかはわからないが、少なくとも男に唇を撫でられても抵抗せずされるがままになっていたことはばれている。
弁解のしようがない、とが仕置きを覚悟したところで助け船を出してくれたのはシャンクスだった。
「誤解するな、マルコ。俺が彼女を酒に誘って、少し付き合ってもらっていたんだ」
「シャンクスさん……」
「どうだ、お前も降りてきて一緒に飲まないか」
「はっ。馬鹿言ってんじゃねぇよい、人の女にべたべた触っておいて。とっとと失せやがれ」
刺々しい口調でシャンクスに向かってそう吐き捨てると、マルコはひょいっと身軽な所作でヤードから飛び降りてきた。
そしていまだの手首を掴んだままの彼の手から彼女を奪い取ると、積み荷から立ち上がらせた彼女を男から隠すように自分の背に回した。
「あの……、マルコさん」
「何もされてねぇかよい、あいつに」
「え? あ……、はい。別に何も」
「本当か?」
「……」
マルコは首をわずかに後ろに向けてに問う。
その目にはもう怒りはなく、あるのはただただ不安と心配の色。
マルコにそんな顔をさせてしまっていることが申し訳なく、は目を伏せて彼から視線をそらす。
彼女のその態度がマルコを余計に不安にさせることなど露知らず。
そんな2人の様子をしげしげと観察していたシャンクスは何を思ったのか口元にうっすらと笑みを浮かべていた。
「そう剣呑になるなよ、マルコ。本当に何もなかった」
「おいおい、嘘つくんじゃねぇ。何もなくはねぇだろい。誰の許しを得てこいつをてめぇの船に勧誘してんだ」
「なんだ、聞いていたのか」
「いい加減諦めろ、赤髪。俺ももお前の船に乗る気なんざ微塵もねぇよい」
「そうだな。お前には何度声をかけてもいつも振られている。だが、彼女を誘ったのは今日が初めてだ。俺は諦めが悪いんでな。これからも機会があれば彼女に声をかけ続ける」
「……何が言いてぇんだよい」
「この先、彼女の気持ちがどう変わるかなんてわからないだろう? そういうことだ」
不機嫌と拒否の意を全面に押し出すマルコに対し、シャンクスは余裕の笑みを向ける。
まるでこの先の心が自分の方へ傾くことを予見しているかのように。
マルコはギリッと奥歯を噛み、そうはならないと豪語する。
「こいつは……、はここを生き場所に選んだ。今モビーから海の女神を奪い取るようなことをしてみろ。この海に何が起こるか、てめぇにわかるのかよい」
「ふむ。それはさすがに俺にも見当がつかないな」
「わからねぇんなら軽々しく滅多なことをするんじゃねぇ!」
「わかったわかった。悪かった。そう牙を剥くな。……それより、マルコ。ひとつ訊きたいんだが」
「マイペースも程々にしとけよい。なんなんだ、てめぇは……」
「知っているだろう、俺の性格は。もう諦めろ。それより、ここにがいるということはだ、それはつまりこの船に彼女にとって命にも代えがたい愛しい者が乗っている、と。そういうことでいいんだよな」
「あ? ……なに言ってやがる、突然」
「そういうことだろう? そうでなければこの海はすでに穏やかさを保ってはいないはずだ」
「……」
(何が言いてぇんだ、こいつは……)
シャンクスが何を意図してそんなことを訊いてきたのか、真意が推し量れない。
ただ目の前にいる男は腐っても四皇の一角を担う大海賊だ。
油断ならない、とマルコは正面に立つ彼を睨むように眉をひそめる。
だが不意に彼は自分の背に隠したが身じろぎ、もっとシャンクスから身を隠そうとしていることに気付く。
「?」
「……、……」
声をかけても何も答えはしない。
ただただシャンクスを敬遠するような態度をとる姿に、やはり何かあったのではと勘繰ってしまう。
(ほう……、なるほどな)
マルコと。
2人の様子を窺っていた男だけがひとり、面白いものを見つけたとでもいうような隠せない笑みを口元に浮かべていた。
マルコに「なに笑ってやがる」と指摘され、シャンクスは「何でもないさ」と隻腕の手をひらひらと振って誤魔化す。
タイミングが良いのか悪いのか、遠くから大頭を呼ぶ部下の声が聞こえてきた。
シャンクスはひょうたんと2枚の杯を拾い上げ、2人に背を向ける。
「おい、赤髪!」
「仲間に呼ばれてしまったんでな、俺は先に失礼する。と酒を飲むこともできたし俺の用は済んだ」
「てめぇ……、本当に勝手な奴だな」
「あぁ、そうだ。」
「……? はい」
「今度はうちの船に飲みに来い。いつでも歓迎する」
「はぁ……、えっと……ありがとうございます?」
「誰が行かせるかってんだよい!!」
返事に窮するの代わりにマルコが額に青筋を立て、行儀悪く親指を下に向けて誘いの返事をする。
怒り心頭するマルコの怒声を背に受けながら、シャンクスは陽気に肩を揺らしながらその場を後にしていった。
夜風に揺れる外套は妙に楽しげだ。
自由奔放な男に振り回され、マルコは「ったく」と悪態をつき、はどこかホッとした顔で肩を息をつく。
今の2人には去りゆく男の背中しか見えていない。
だから気付きようもなかった。
陽気に肩を揺らす男の口元に、欲しい獲物を見つけた欲深い海賊の笑みが浮かんでいたことに。
sequel 13 : 欲しいものを奪い合うのが海賊だろう
「なぁ、」
振り返った男は真剣な目で彼女を見つめ、そして告げる。
まるで「これは試練だ。耐えてみろ」とでも言うかのように厳かに告げたその言葉は、まさに昨夜がマルコの背に隠れて告げられることを逃げ続けた問いそのものだった。
「お前は本当にマルコのことを愛しているのか?」
「……、……──」
朝陽が濃紺の空を照らし徐々にその色を明るいものへと変えていく。
新たな日が始まる、その晴れ晴れとした光の中。
ついに逃げ道を閉ざされてしまったの顔はまるで湖面に張った薄い氷のように静かに繊細に固まっていった。
それを見つめる赤い髪の鬼の口元には、あぁ思った通りだとでも言うように、傍目にはわからないほど小さな笑みが浮かぶ。
そのことに気付ける余裕は、今のには到底なかった。
←
□
→
実は手を出していませんでしたの回。
お頭がヒールみたいでなんかすみません。
でもお頭が試練を与えてくれないと彼女は自分の本当の気持ちに、愛に気付けないので、申し訳ないがお頭頑張って!
※ヤード……船に垂直に立っている太い柱が「マスト」、マストに横向きに何本も設置されている帆を張るための柱が「ヤード」です。
画像付きの詳細は7月27日のブログをご参照ください。
2018/07/27 加筆修正
SEO
掲示板
[PR]
爆速!無料ブログ
無料ホームページ開設
無料ライブ放送