ドリーム小説
学 園 幻 想 曲 2
3年7組本日最後の授業は国語の、しかも現代文。
午後の暖かな日差し差し込む、眠気を呼び起こす時間帯には一番きつい授業である。
7組の国語を担当するは島田カンベエ。
彼の授業で寝ようものなら容赦なく、竹刀代わりの丸めた教科書が後頭部に振り降ろされる。
本鈴の5分前に職員室を出て教室に向かうカンベエだったが、彼の姿はいまだ7組にはなかった。
彼がどこで何をしているかというと。
「島田先生、これ受け取ってくださーい!」
「あ、私もー!」
7組へ向かう途中の廊下で女子たちからチョコを渡され、進行を妨げられていた。
カンベエが何か言う暇もなく、彼女らは彼の腕の中にチョコを重ねていく。
余談だが、カンベエは高等部でシチロージに次いで人気を得ている教師なのだ。
勿論彼にはというれっきとした恋人がいるため、他の女子生徒たちを本気で相手することはない。
女子一人ひとりに好意的な甘いマスクを振りまくシチロージとは対照的な硬派なのである。
「それはあれでげすか。あたしが軟派だと言いたいんで?」
いえそんなことは・・・・。
「目が泳いでますぜ?」
・・・・・。
「シチロージ、こんなところで何をしておる」
「いえ、ちょいと散歩に」
「今、何者かと話しておらんかったか?」
「独り言です。どうぞお気になさらず、カンベエ様は授業の方頑張って下さい」
笑顔でシュタッと片手を挙げ、3年の階に何をしに来たのかわからないシチロージは去っていく。
彼の背を見送りながら、積み上げられた贈り物を彼に預ければよかったとカンベエは後悔した。
女生徒からのプレゼントを持ったまま授業に向かうのはいささか体裁が悪いが、今から職員室に戻る時間もない。
仕方なく7組の教室に入れば、案の定男子たちから「島田先生、もてるー!」だの「カンベエさん、かっこいー!」だのと冷やかしの洗礼を受けた。
「馬鹿なことを言っておらんで。日直、早く号令をかけんか」
若い少年たちを苦笑して諌め、教卓の上に荷物を載せる。
本日最後の授業もいたって通常通りに行われた。
6限の国語ということもあり、やはり眠そうな生徒がちらほら見られた。
今日は2月14日、教科書の音読を指名された出席番号14番の男子が「ついてねー・・・」と愚痴を零す。
カンベエは片手に開いた教科書を持ち、教室を机間巡視した。
カンベエがゆっくりとした足取りで教室の後ろを窓側に向かって歩いてくるの。
は彼の気配が近付いてくることに僅かな緊張を覚えていた。
キュウゾウの後ろを通ってヘイハチの後ろを通りすぎたところでカンベエの歩みが殊更遅くなる。
無意識に自分の右側に顔を向けてしまい、思い切りカンベエと目が合ってしまった。
そこで反射的に顔を背けてしまったのがまずかった。
教科書を見ながらも、真横からカンベエの怪訝な視線を感じる。
「・・・・・」
「・・・・・っ」
の心中は穏やかではない。
無視するような行動をとってしまった自分への後悔とカンベエへの罪悪感が生まれる。
視界の隅でカンベエが歩き出したのをとらえてはホッとする。
だがまたすぐにカンベエの足がピタリと止まり、は身をすくませた。
おそるおそる見れば、カンベエの手が教科書を丸めている。
そしてそれはの隣の席の者の頭へと振り降ろされた。
軽い打撃音とともに「いだっ!!」というヘイハチの悲鳴が静かな教室に響く。
「ヘイハチ」
「な、なんでしょうか・・?」
「なんでしょうか、ではない。お主、菓子を食っておったな」
「げ・・」
どうしてばれたのかと目で訴えるヘイハチを、「口の横にチョコレートがついておるわ、馬鹿者が」とカンベエは諌める。
指摘されて慌てて袖で口元をこするヘイハチにクラス中からどっと笑いが巻き起こった。
「まったく・・・」と呆れながら教壇まで戻っていくカンベエの後姿をは目で追う。
クラスが笑い明るくなるのに反比例しては重たい気持ちになっていった。
カンベエと、教室の前と後ろ。
また彼の視線を受けているような気がして、は教科書を上げて顔を隠して哀しげに眉を寄せた。
そして授業後、チャイムが鳴ったと同時にカンベエは予想通りクラスの女子に囲まれた。
女子に押されながらも微苦笑を浮かべてチョコを受け取るカンベエの姿は、わかっていたことだが見ていてあまり嬉しいものではない。
カンベエと女子たちから顔を背けても耳に彼らの声は入ってくる。
「島田先生、私も!受け取ってくださーい」
「あぁ、すまんな。・・・・・」
遠く教室の端と端で遠く離れていながら何となくカンベエの視線を感じてはいた。
もちろんそれは催促するようなものではなく、を想う思慮深い眼差し。
それでもが彼に何も渡せないことには変わりなく、どうしても目を合わせることはできなかった。
カンベエに群がる女の子たちの声を耳にしながら、は急ぎ足で掃除場所へ行くべく教室を後にした。
掃除の後、教室で帰りのHRを終えて生徒たちは放課後の行動に移り始める。
やはり今日は特別な日らしく、お目当ての相手のクラスのHRが終わるのを待っている女子も結構いる。
そのまま帰る者、教室に残っておしゃべりする者、そして部活に行く者と様々だ。
いつもよりもだいぶ賑わいのある教室で、は一人だけ慌てたように帰りの準備をしていた。
「さん、何かお急ぎのご用事でも?」
「うんっ。・・・あ、そうだ!」
鞄の留め具をパチリとはめて、はヘイハチを見上げた。
「ヘイハチ君、あの・・・剣道部って何時ごろまで部活しているの?」
「うちですか?そうですねぇ、だいたい8時でしょうか」
「そっか。じゃぁ、あの・・・島田先生もそれくらいまでいるの?」
顧問の名前を出したときだけはふっと目をそらしたが、ヘイハチには気付かれなかったようだ。
しばし考える顔をしていたヘイハチは、何かを思いついたようにキュウゾウに声をかけた。
鞄を脇に抱えてポケットに両手を突っ込み、今まさに部活に行こうとしていた彼を呼び止める。
顧問であるカンベエのスケジュールは、主将であるキュウゾウの方がより把握している。
思った通りキュウゾウは、「最近は7時で部活をあがって遅くまで職員室で仕事をしていると言っていた」と明確な回答を投げてきた。
「遅くって・・どれくらいだろう」
「10時頃までいると言っていたが」
「そ、そんなに遅くまで・・?」
最近のカンベエがそんな遅くまで仕事をしていたなんて全く知らなかった。
携帯のメールでもそんなことは言っていなかった。
自分がバレンタインに浮かれていた間、彼は仕事に追われていたのかと思うと呑気な自分が少しだけ恥ずかしかった。
「ヘイハチ。先に行く」
「私も行きますよ、キュウゾウ殿。それではさん、また明日」
「うん、どうもありがとう。2人とも部活がんばってね」
の言葉にヘイハチはにこりと笑い、キュウゾウはまた片手を挙げて行ってしまった。
さぁ自分も出陣だ、とは気合いを入れて鞄を肩にかけ、教室を飛び出した。
♪
神無学園の職員室は2階に位置する。
職員室の真下が生徒の昇降口となっており、窓からは校門へ向かう生徒たちの姿がよく見える。
コーヒーの入ったカップを手に窓辺に立ち、カンベエとシチロージは下校する生徒たちを眺めていた。
ほとんどの生徒がゆったりとした足取りで歩く中、一人だけスカートを翻して校門まで全速力で駆けていく女生徒がいた。
慌てていたせいか、途中で一回こけそうになった危うい彼女にシチロージはふっと笑みを浮かべる。
「あれ、ちゃんですよね」
「そうだな」
「いい走りっぷりですねぇ。何を急いでいるのやら」
「さて、な」
おや、とシチロージはカンベエの相槌に違和感を覚えた。
カンベエの受け答えにどこか適当感が混じっているのに耳聡く気付く。
「何かあったんでげすか?」と勿論とのことを問えば、カンベエはわざとらしく肩をすくめてみせた。
「6限は7組で授業だったのですよね?」
「あぁ」
じゃぁから愛の贈り物を受け取ったのか、と期待するシチロージにカンベエはわざとらしく苦笑する。
「何も貰えずじまいでな。年甲斐もなく拗ねておるだけよ」
「おやおや。それはまた子どもじみたことをおっしゃる」
視線を交わして失笑し、シチロージはちらりとカンベエの机の上を見た。
そこには色とりどりのたくさんの箱が置かれているのに、あの中にからのものはないのか。
「まぁ、でもちゃんのことですから。これから何かあるやも」
「どうかな。全速力で帰ってしまったが」
まるで避けられているようにすら感じる、とカンベエは少しだけ哀しそうな目をする。
カップの中のコーヒーを見つめるカンベエの目には彼女が映っているとシチロージは思った。
本当にのことになるとカンベエは自分が見えなくなる、とカンベエに見えないように小さく笑った。
「さて。馳走になったな」
「部活でげすか?」
「あぁ。大会も近いのでな」
空になったカップをシチロージに渡し、カンベエは肩に手を置いて一つ音を鳴らした。
いってらっしゃいませ、というシチロージの言葉を背に受けて、カンベエは職員室を後にした。
剣道場に向かいながら、カンベエは授業中ののことを考えていた。
勿論カンベエはチョコが貰えないくらいで拗ねるほど幼稚ではない。
彼が気になるのは、がまるで自分を避けるようにしていたことの方だ。
心が正直すぎては隠し事ができない性格であることはよくわかっていた。
何か自分に知られたくないことがあるのだろう。
カンベエの記憶の中に、ここ数週間の落ち着かない様子のの姿があった。
2人でいるときやメールなどでいろんなことをカンベエに質問しては、「何かあるのか」と尋ねれば慌てて作った笑顔で誤魔化そうとしていた。
しばらく忙しい日が続いていて、今朝シチロージに言われるまで今日が何の日か忘れていたが、これで挙動不審だったに合点がいく。
惚れた女が自分を驚かそうと企む姿は、何とも可愛くて仕方がない。
かと思えば、今日のの不可解な様子は何だったのか。
彼女の心は、簡単に読めそうで時にとても難解だ。
はたと前を見ればいつの間に着いたのか、そこはもうすでに職員用男性更衣室の目の前だった。
己が盲目的に一人の女のことに思い悩んでいたことに気付かされる。
まるで余裕のない自分、彼女に溺れている自分に喝を入れながらも、己の顔が緩んでいることが嫌だと思えない男がそこにいた。
♪
「おっちゃまー!!」
「誰がおっちゃまだ、誰が!俺はそんな年じゃねぇって何度言ったらわかるんだ、おめぇは!」
小さなコマチに胴着の袴に抱きつかれ、キクチヨは軽く慌てていた。
周りにいる剣道部員たちに見守られながら、キクチヨは「はーなーれーろっ!」とコマチを引き摺り歩いていた。
またいつもの夫婦漫才が始まった、と皆が笑う。
中等部のコマチが高等部の剣道部に、正確にはキクチヨに会いに来るのはもう日常茶飯事だった。
コマチも初めはマネージャーである姉のキララを迎えに来ていたのだが、一目でキクチヨを気に入ってしまってからはほぼ毎日のように来ては彼にじゃれついていた。
「こんなところで何してんだ、おめぇはっ。とっとと中坊の校舎に戻りやがれ!」
「おら、おっちゃまに用があって来たです。ちょっと待っててくれです」
「なんでぇ、一体」
キクチヨの足から一旦離れ、コマチは鞄をごそごそとあさる。
そして取り出したラッピング済みの小さな箱を笑顔でキクチヨに差し出した。
がっしりとした体つきのキクチヨに渡すべく、コマチは爪先だって箱を頭上に上げる。
「おっちゃま、受け取ってくださいです!」
「なんだ、そりゃ」
「今日はバレンタインデーですよ?チョコ以外の何だと思うですか」
「お・・・俺にか?」
「はいです!」
無理に背伸びをするコマチに目線を合わせてやろうとキクチヨはヤンキー座りでしゃがみこむ。
コマチと箱とを交互に見ていたが、ゆっくり手を伸ばして半ば感動しながらそれを受け取った。
でかい手の中に収まってしまう小さな箱を、キクチヨは感情を押し殺したような顔で凝視していた。
「おっちゃま・・・」
「・・・おう」
「おっちゃま・・・あんまり嬉しくなかったですか」
コマチは眉をハの字に曲げて顔を曇らせる。
喜んでもらえなかったのかと声も残念そうだ。
だが突然キクチヨは立ち上がってコマチの頭をがしがしと撫で回した。
「いぃや・・・・嬉しいぞ・・・・」
「おっちゃま?」
「俺は・・・・・俺は嬉しいぞっ、コマチ坊!!」
キクチヨの硬い顔は一転し、まるで天下を獲った覇者のような笑顔でコマチの頭を撫でる。
曇っていたコマチの顔にパッと花が咲いた。
「おぉ!本当ですかっ?」
「おうよ!俺様は今、最高に嬉しいぜ!今ならカンベエとキュウの字にだって負けねぇ気がする」
「それは無理です、おっちゃま」
「うるせぇ、勝てるったら勝てる!!」
でかい口を横に広げてにっと笑い、見上げてくるコマチを軽々と抱き上げ肩に乗せた。
中学1年の割に体の小さいコマチは容易にキクチヨの肩に収まる。
「おぉ、高いです!」と感動するコマチを乗せて、キクチヨは道場内を走り回った。
「ありがとよぉ、コマチ坊!!」
「おっちゃまが喜んでくれてよかったです。おっちゃま!」
「おう、なんでぇ!」
「いつおらのこと嫁に貰ってくれるですかっ?」
「おう!・・・・な、なにっ?!」
走っていたキクチヨの足が急停止して自分の肩に乗せたコマチを見上げる。
周りで笑っていた部員もキララも目を丸くして2人を見た。
無邪気な笑顔で問うコマチに、キクチヨの顔がじわじわと赤くなっていく。
「な、何言いやがる突然・・っ!」
「おっちゃま、おらと約束してくれたです。おらのこと嫁に貰ってくれるって。そんで、おらがおっちゃまのこと婿に貰うって」
「ぐ・・・・た、確かにしたかもしれねぇが」
したのか、と皆が心の中でツッコミをいれた。
唸り声を発して渋るキクチヨは、だがその声に嫌悪は含まれていない。
ただ純粋に照れているだけらしい。
「いつですか?あしたですか?」
「あ、明日は無理だろう。第一おめぇ、まだ13じゃねぇか」
「じゃ、いくつならいいですか?」
「いくつってそりゃ・・・確か男が18で女は16から・・・・って、何言わせやがるっ!」
「おっちゃま、何で顔赤いですか?」
「日焼けだ日焼けっ。だぁー、もう姉ちゃん!こいつ連れ出してくれ!」
流石のキクチヨも観念してキララにヘルプを求めた。
キクチヨの肩から下ろされたコマチはキララに促されて道場の入り口へ向かっていく。
後ろ髪引かれる想いでコマチは何度もキクチヨを振り返る。
「おっちゃまー!じゃ、おらが16になったらいいですかー?」
「がぁー、もうわかったからとっとと帰りやがれ!!・・てめぇカツの字、何笑ってやがる!」
「えぇっ・・な、何ゆえ私だけがっ!?」
憐れ、偶然目が合ったカツシロウがキクチヨの照れ隠しの標的になる。
顔を真っ赤にして両手に竹刀を持ったキクチヨに追い回され、カツシロウも本気で逃げ回る。
そんな彼らに笑みを向けながら、ヘイハチはキュウゾウと並んで正座し、防具の肩紐を結んでいた。
「いやはや、キクチヨもコマチさんにかかっては一溜まりもありませんねぇ」
「・・・今日びの女は、強い」
静かに告げるキュウゾウの声には妙な深さがあった。
今日一日で女の底の恐ろしさを知ったらしい。
しゅっと肩紐を結び終えたところでちょうどよく道場の木戸が開き、濃紺の胴着姿のカンベエが入ってきた。
カンベエの姿をとらえ、キュウゾウはすぐさま「集まれ!」と道場内に号を飛ばす。
キュウゾウを左端に数多の部員が横列に並び立った。
前列に上下濃紺の胴着と防具をつけた男子部員、後列に上下白の胴着と防具姿の女子部員。
左手に各々の竹刀を携え、カンベエの命で静かに正座する。
静かな道場内にキュウゾウが礼の号を出し、顧問も部員も皆が両手を床について座礼する。
カンベエは全員が揃っていることを確認し、本日の練習メニューを告げていった。
大体はいつも通りだ。
一通りの説明の後、カンベエは大会が近いことを示唆し、部員の気合いを高めさせた。
「以上だ。団体メンバーはすぐに面をつけて、わしと片山先生相手に・・・・あぁ」
道場内には副顧問のゴロベエの姿は見当たらない。
そういえば彼は今日出張であったことをすっかり忘れていた。
顎を撫でて思案するカンベエの目がキュウゾウに向く。
「キュウゾウ。指導役を頼まれてくれるか」
「承知」
「よし。団体選手はわしら2人を相手に掛かり稽古だ。各々気を引き締めて練習にかかれ」
気合の入った部員たちの返事が道場内に響き渡る。
ほとんどの部員が外に走りに行く中、キュウゾウやヘイハチ、キクチヨ、カツシロウをはじめとする数名は面を取りに行った。
動き出す部員たちの中からカンベエはキュウゾウを呼び寄せる。
「キュウゾウ。重ね重ねすまんが、わしは7時であがらねばならぬ。後のこと任されてくれるか」
「承る。今日も10時まで仕事か?」
「あぁ、そうだが。それがどうかしたか」
時間のことを聞いて、思い出したようにキュウゾウは告げた。
自分のクラスのがカンベエの帰る時間を気にしていたことを。
の名に、カンベエの目が僅かな変化を見せたことにキュウゾウは目聡く気付く。
キュウゾウの目が「何かあるのか」と関心の色を示していた。
「さて、な。課題の出し忘れか何かか」
「がか?」
「あぁ・・・・」
「ふぅん・・」
真面目なが課題を出し忘れるなど信じられないと彼の目が言っている。
はぐらかしたつもりが余計に怪しまれてしまった。
つくづく勘の良い奴だ、とカンベエは居心地悪そうに目をそらす。
「余計なことを詮索しておらんで、さっさと面をつけんか」
「承知」
まるで何を察したような不敵な笑みを残してキュウゾウは背を向けた。
カンベエは嘆息して座し、防具を付け始める。
頭の中ではキュウゾウに言われたことが巡っていた。
が己の帰宅時間を気にしていた、とはどういうことか。
気にしていたという割に彼女は全速力で帰ってしまったが。
まさか夜の10時などという時間に学校に来るわけでもあるまい。
には携帯の番号もメールアドレスも教えてあるのだから、何かあればそれで済ませられるはず。
「さて、な・・・」
顎をさすりながらもとりあえず今は部活に専念するべく、カンベエは頭を切り替えて肩紐をきつく結んだ。
♪
カンベエ指導の掛かり稽古は容赦がない。
竹刀を甘く握っていようものなら、渾身の力で竹刀を吹き飛ばされる。
気合い十分に飛び込んでくるカツシロウの竹刀を床に叩き落とし、がら空きの彼の脳天にカンベエが鮮やかな面を食らわせる。
「握りが甘い!打ち込む際にしっかりしぼれと言っておろう。次、ヘイハチ来い!」
道場内に竹刀のぶつかり合う軽快な音とカンベエの鋭く重い号が飛びかう。
青春の汗を飛び散らせてカンベエが生徒たちとぶつかり合っていたその頃。
カンベエの脳裏をちらつかせていたは何をしていたかというと。
「待ってくださーい、乗ります乗りますっ!」
渋谷駅の山手線ホームで駆け込み乗車していた。
ギリギリで乗り込んだ瞬間、の背後でゆっくりとドアが閉じていった。
肩で息を整えていれば、動き出した車内に『駆け込み乗車は大変危険ですので』のアナウンスが流れ始める。
まさに自分のことだ、とは周りの視線を感じて恥ずかしさに俯いた。
だが下を向いている場合じゃない、と勢いよく顔を上げる。
車内のドアの上に設置された液晶モニターを見つめた。
目的地は3つ先の新宿駅、所要時間7分。
急いでいるときに限って長く感じるのが時間というもので、たった7分が異常に長く感じる。
タタンタタンと揺れる車内の窓から外を眺め、原宿、代々木と乗り降りする人々を見送っていく。
新宿のビル街が徐々に見え始め、金属音を立てながら電車が慣性でゆっくりと止まっていく。
軽快な電子音を立てて扉が開いた瞬間、はするりと抜け出て人ごみをかいくぐり、階段を駆け下りた。
向かう先は、新宿駅【お忘れ物承り所】。
見えてきたそこには、渋谷駅で言われた通りの穏やかな笑顔の若い男性駅員がいた。
学校から全速力で走って渋谷駅に着いたは、すぐさま顔見知りの駅員に声をかけた。
赤い鼻の小柄な老年の駅員―――はマサムネさんと呼んでいる。
大事故でも起こったような慌てた顔で駆け込んできたに、マサムネは人の良い職人顔で「おう。どうしたい、お嬢さん」と飄々とオフィスから出てきてくれた。
は弾む息を整え自分を落ち着かせ、事の次第を彼に告げて助けを求めた。
さて、時間を少しさかのぼろう。
時刻は朝の8時10分。
本日のの受難は、全ては朝に始まった。
朝の通勤ラッシュの時間帯に電車に乗るはいつものようにドアから離れた所に立って吊り革につかまっていた。
鞄は手で持ち、もう一つの荷物―――有名チョコレート店の紙袋は邪魔にならないよう上の荷物棚に置いた。
外側はよく見かける紙袋だが、中身はが自分で作った菓子だ。
今日のために何日も前から準備して、昨夜遅くまで起きて作ったもの。
電車に揺られながら、カンベエにいつ渡そうかなどと顔を緩めて考えていた。
それは自分が降りる駅に到着したことにも気付かないほどの真剣さで。
『ドアが開きます。ご注意ください』のアナウンスの後、ゆっくり音を立ててドアが開いて人が雪崩のように降り始め、はっと気付いたも急いで降りようとして。
だが紙袋のことを思い出して棚に手を伸ばそうとしたのだが。
「え・・・わっ!!」
降りる乗客の波に押されてホームへと流され、入れ替わりで大量の人々が乗車していく車内へは最早戻れなくなっていた。
「うそ・・っ!」と顔を青ざめさせるの前で、パンクしそうなほど詰め込まれた電車の扉が閉じていく。
の、本日最も重要な荷物を載せた電車が滑り出していくのを彼女は呆然と見つめていた。
こうして本日の悲劇は彼女に降り注いだのである。
手ぶらで学校に着いてからもずっと気分は沈んだままで、それは周りがバレンタインに夢中になればなるほど自分だけが取り残されたように感じた。
屋上でお昼を食べながらもう諦めようかと思っていた頃だった、キュウゾウがを立ち上がらせてくれたのは。
折角カンベエのためにがんばった自分を諦めたくない。
まだ今日は終わっていないのだから、今からでも取り戻せるはず。
ヘイハチとキュウゾウに聞けば、カンベエは今日は遅くまで学校に残っているとのこと。
タイムリミットは夜の10時、それまでに取り戻してみせる。
は1分も無駄にしたくないと全速力で渋谷駅へ駆け込んだのだった。
事情を聞いたマサムネは「・・・そいつぁ難儀だなぁ」と顔を渋らせていた。
とりあえずの荷物がここ渋谷駅にないことを先に告げ、そして電車は一度終点に着いた時点で車内の荷物を全て回収することを説明した。
今、の荷物がどこにあるのかはすぐにはわからない。
「だめでしょうか・・・見つかりませんか?」
「んーやぁ、このマサムネさんの辞書に不可能の文字はねぇ。ちょっと待ってなよ、今調べてやる」
「ありがとうございます、お願いしますっ」
マサムネはカタカタと慣れた手つきでパソコンを打ち出す。
そして2分もしないうちに何かがプリントアウトされた紙を手にのところに戻ってきた。
マサムネの顔が先程よりも渋くなっているのを見ての胸の中で不安が大きくなる。
「み・・見つかりませんでしたか?」
「いやぁ、あったのはあったんだけどよぉ。今日に限ってどこの駅にも似たような荷物がたーくさん届いててなぁ」
判別がつかないとマサムネは言う。
流石はバレンタインデーだ。
自分の他にも似たようなことをする人がいるのだなぁとは思わず苦笑してしまった。
しかし事はそう簡単には解決してくれなさそうである。
マサムネは、まず一番荷物が多く届いている新宿駅へ行くといいと教えてくれた。
「リキチっていう良い駅員がいるからよ。そいつに連絡しておいてやるさ。訪ねるといい」
「はい、ありがとうございます、マサムネさんっ」
「なぁに、いいってことよ。・・・おっと、電車が来ちまったぜい?」
「あっ、待ってくださーい、乗ります乗りますっ!」
「おいおい、駆け込み乗車はだめだってお嬢さん」
マサムネが呑気な口調で言うのをも聞かず、は慌てて乗り込んだ電車で行ってしまった。
電車がゆっくりと動き出すのを見送って「いいねぇ、若いってぇのは」と笑いながらマサムネは電話を取って新宿駅へ繋ぐ。
コール2回で繋がった向こうに、「リキチを呼んでくれや」と告げた。
「マサムネさんから連絡を受けてます。どうぞこちらへ」
マサムネに紹介されたリキチという駅員は、どこか田舎を思わせるあったかい笑顔でを案内してくれた。
言葉の端々に時折地方の訛りが見られるのがかえって彼の穏やかさを引き立てている。
リキチの案内で通された【お忘れ物承り所】には、たくさんの荷物が並んでいた。
ありとあらゆるものが並べられている。
携帯や財布、傘やバッグならわかるが、『うまいコシヒカリ!!2kg』の米袋があるのを見たときはも驚いた。
米なんてこの東京のど真ん中で一体誰が落としたのだろう。
まさかあの米好きのクラスメートでは、などとあらぬことを考えてしまった。
それはさておき自分の荷物はないかと探してみれば。
「う・・わぁ・・」
「あ〜そのぉ・・・お客様がお探しの白い紙袋なんですけども」
ずらりと並んだ10を超える白い紙袋に、リキチも苦笑していた。
まだ調べ始めて最初の駅だというのに、この量はないのではないか。
だが逆に数が多ければその中に探すものがある可能性も高くなる、とは無理矢理ポジティブ思考に持っていく。
とりあえず並んだ紙袋の中を支障をきたさない範囲で見せてもらった。
一つひとつ、丁寧に取り扱っていく。
調べ始めて数分後、「お探しのものはありましたか?」とリキチに問われ、は落ち込んだ顔を向けた。
「ありませんでしたか・・」
「はい・・・」
これだけの量がありながら、と落ち込むにリキチは優しい笑みを向ける。
「大丈夫ですよ。他の駅にあるかもしれませんし」
「そう、ですよね」
「あのぉ・・・もしご支障なげれば。中身の詳細もお伝えして探してもらいますか?」
「え・・・そんなことができるんですか?」
驚くに、「できますよ」と笑顔を向けてリキチはパソコンに向かった。
に袋の中身を聞き、それをパソコンに入力して各駅に発信する。
しばらくすれば情報が送られてくるだろうと言われ、は礼を言ってそこで待たせてもらった。
落ち着きなさげに、壁に掛かった時計をちらちらと何度も見る。
しばらくして送られてきた情報を見ていたリキチは、眉をしかめて画面に顔を近づけた。
「おかしいですねぇ・・・」
「あの・・・」
「白い紙袋で、中身は赤のリボンが結んである白い箱でよろしいんですよね?」
「はい、そうです」
「えぇとですね。同じ色の紙袋は数駅にも届いているそうなんですが」
が伝えた外装の中身が入った袋はどこにも届いていない、とリキチは言う。
そんな不思議なことがあるのかとは驚き、そして徐々に絶望が押し寄せてきた。
「もしかしたら中身だけ落ちてしまったのかもしれませんね。今度はそっちで検索してみますか」
の哀しげな表情を慰めるように、リキチは笑みを絶やすことなく次の希望を調べてくれた。
どこまでも親切なリキチと、彼を紹介してくれたマサムネには感謝の念でいっぱいだった。
数分後、リキチはに一枚の紙を手渡した。
そこには白い紙袋が届いている駅名と、が探す中身と似たようなものが留め置かれている駅名が全て書かれていた。
「申し訳ないです。これ以上はお客様の目で直接確かめてもらうしかなくて・・・」
「いえ、そんなっ。こんなにまでしていただいて・・・本当にありがとうございました!」
申し訳なさそうに笑うリキチに、は渡された紙を大事そうに胸に抱いて深々と頭を下げた。
「いいんですよ」と両手を振るリキチにもう一度礼を言って、は新宿駅を後にした。
「お気をつけて」と手を振るリキチにも手を振りかえし、再び山手線ホームへと向かった。
長いエスカレーターの右側を駆け上がりながら腕時計を見れば、時刻は5時半。
まだ時間はある、と気合いを入れなおしては再び電車に乗った。
次の目的地は、3つ先の池袋。
まぁるい緑の山手線、フル活用でございます。
間違っているところが多々ありますが、どうか御容赦くださいませ。
今は車内で落し物をしても以前よりスムーズに見つかるシステムになったそうですよ〜。
もういっちょ。
剣道部の方、多々に捏造で申し訳ありませんです。お、お許しを!
『掛かり稽古』とは、下級者が上級者に連続的にかかっていく稽古です。
ここでは島田ティーチャーと主将のキュウゾウ君が指導役。
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