ドリーム小説
学 園 幻 想 曲 3
道場内の壁時計に目を走らせれば、2本の針が6時ちょうどを指していた。
「よし。5分休憩にする」
カンベエが指示を出すのと同時に汗だくのキクチヨとカツシロウがその場にぐにゃりと崩れ落ちた。
早々に面と手ぬぐいを取り去って、キクチヨは大の字に寝っころがる。
「キクチヨ、なんだその格好は。しゃきっとせんか」
「だーっ!!このスパルタ教師、訴えてやらぁ!」
「鍛練がたらんな」
ふっと鼻で笑われても、起き上がる気力もないキクチヨは苦々しげに「ちくしょー・・っ」と吐き捨てるだけだ。
ヘイハチは首にかけたタオルで汗を拭き、キクチヨの顔を真上から見下ろして笑った。
「キクチヨ。練習はまだまだこれからですよ」
「俺はおめぇやキュウの字と違って普通の人間なんだよ!」
「あらら。八つ当たりとは酷いですねぇ。そんなことじゃ、コマチさんをお嫁さんになんて貰えませんよ?」
「な・・なに言ってやがるっ!!」
コマチの名が出るや、キクチヨは勢いよく体を起こし赤い顔でヘイハチを睨みつけた。
笑ってからかうヘイハチに「うるせーぞ!」と汗びっしょりの手ぬぐいを投げつけるも、ヘイハチはそれをひょいっと交わす。
「避けんな!」
「嫌ですよ、男の汗まみれの手ぬぐいなんて」
「ぐぅ・・・このやろー!」
へばっていたくせに、キクチヨは勢いよく立ち上がってヘイハチを追いかけ始めた。
「なんだ、まだまだ元気じゃないですか」とヘイハチは余裕で逃げ回る。
休憩終了1分前で戻ってきたカンベエは、騒がしい生徒2人を目に留めて頭をかきながら嘆息した。
「お主ら、まだまだ力が有り余っておるようだな」
「いえいえ、そんな〜」
「待ちやがれ、ヘイの字っ!!」
「キクチヨ、ヘイハチ。武道場周り、10周を命じる」
「「え゛っ!?」」
走り回っていた2人がピタリと止まり、揃ってカンベエを凝視する。
カンベエは飄々とした顔で「15分で戻ってこい」と追い討ちをかける。
休憩が終わって戻ってきた部員たちが「ファイトです、先輩方!」などとからかいはやしたてる。
「な・・・なんで私まで」
「鬼教師!絶対10分で戻ってきてやらぁ!」
「ほぉ、では期待して待っているとしようか。さっさと帰ってこんとお主ら試合をする時間がなくなるぞ」
楽しそうなカンベエにヘイハチは観念し、キクチヨは何か叫びながら慌てて出ていった。
2人が去って静かになった道場内に、部員たちが再び整列する。
カンベエは団体の選手同士での試合をするよう指示を出し、残りの部員に後ろで見取り稽古や審判をするように命じた。
選手陣は早々に面を付け始める。
道場内には白いラインで作られた正方形のコートが3つある。
一番右のコートでは3年生の選手2人が、一番左のコートではカツシロウと2年生の選手が準備をしている。
そして真ん中のコートには、この剣道部の手練2人の重厚な空気が立ち込めていた。
「すまぬな、キュウゾウ。これが終わったらあがらせてもらうぞ」
「承知。早々にあがらせてやる」
「言いおるな。わしも手加減せんぞ」
2人はにやりと笑い合い、互いの準備にわかれた。
主将キュウゾウの相手は生半可な部員では務まらない。
もっぱらカンベエかゴロベエが彼の練習相手となっている。
2人の一戦は剣道の枠を超えており、旧き武士の真剣勝負にすら見えるほど。
周りで見学する部員たちも息を飲む。
臨戦の準備を整えた2人がコートの両側に立って向かい合い、面金越しに鋭い視線を交し合う。
両者、左手に携えた竹刀を握る手に自然と力がこもった。
♪
男2人が竹刀をぶつけ合い真剣勝負をしていた頃、は何をしていたかというと。
「うわぁ、行っちゃったよぉ・・っ」
神田駅で東京行きの電車に乗り遅れて、階段を駆け上がってきた弾む息に肩を上下していた。
彼女もある意味戦っているといえば戦っている。
の山手線の旅は渋谷を出発して新宿まで行き、各駅を点々としながら内回りで神田まで来ていた。
これで山手線の半分以上を制覇したことになる。
だが神田でも彼女が探すものは手に戻らず、もしかしたら渋谷まで戻ってしまうのではないかと危惧し始めていた。
「山手線・・・一周しちゃったらどうしよう」
そんな称号はいらない、と溜め息をつく。
何度も乗り降りした疲労が顔に見え始めていた。
だがそうも言っていられない。
ホームの時計を見れば、時刻はちょうど6時半。
カンベエは10時まで学校にいると聞いたが、そんなに遅い時間に行ったらかえって迷惑になる。
それを差し引いても、早く見つけて早く届けたい、早くカンベエに渡したい想いでいっぱいだった。
神田の隣は山手線の主要地点、東京駅だ。
日本一の発着本数を誇る東京駅なら荷物が見つかる可能性も大だ。
早く次の電車が来ないかとはやる気持ちでいれば、鞄の中で携帯が振動しているのに気付き、慌てて取り出した。
カチッと音を立てて携帯を開けば、見知らぬ番号からの電話には不審がる。
恐る恐るボタンを押して「もしもし?」と相手に告げれば、聞こえてきたのは渋谷駅のマサムネの声だった。
『おう、お嬢さん。よかった繋がったか』
「マサムネさん・・ですか?え・・あの、どうされたんですか?」
『リキチから連絡貰ってよ。お探しの中身の情報が回ってきたんで、うちの駅でも探してみたんだよ』
思わぬヘルプに、は改めて心の中でリキチに感謝の言葉を唱えた。
期待に胸膨らませてマサムネに問う。
「あの・・白い箱のことですか?」
『おう、それだよそれ。赤いリボンが結んであるやつでいいんだよな?』
「そうですっ。あ、もしかして・・っ?」
『おぉ。探したらあったぜい。中身だけ届いていたんだぁな』
灯台下暗しだなお嬢さん、とマサムネの笑い声が携帯の向こうから聞こえてくる。
なんと皮肉な運命、探していたものがまさかスタート地点にあろうとは。
は脱力してその場に座り込みたいのを、ホームの鉄骨に頭をもたれさせて耐えた。
すぐに行きます、と焦り口調でマサムネに告げ、パチリと携帯を折った。
の顔に満面の笑みが咲く。
溜まっていた疲労もどこへやら、渋谷へトンボ帰りするのも苦に感じられない。
早く荷物を迎えに行ってあげたい、カンベエに届けたい、そればかりが頭に満ちる。
神田からなら山手線を使うより、中央線で行って途中で乗り換えた方が早い。
スキップしたい気分で階段を降りようとして、手に持った携帯が再び振動し始めては再度開いた。
着信には【ユキノさん】の文字―――がバイトする料亭の女将さんだ。
「もしもし、ユキノさんですか?」
『ちゃん、お願い!助けて頂戴!』
「えっ・・・ど、どうされたんですか!?」
第一声ですがるようなユキノの声を聞き、は何かあったのかと不安になる。
だが次にユキノが告げた言葉は、を違う種類の不安に陥れた。
『バイトの子がね、急に来られなくなってしまってね。それも2人もっ。それで今、てんてこ舞いなのよ!』
「あの・・・ユキノさん、もしかして」
『ちゃん、お願いっ。9時まででいいから来られないかしらっ?』
「・・・・・」
携帯を耳に当てたまま、は泣きそうな顔で皮肉すぎる己の運命を笑った。
「特別手当も出すからっ」と優遇してくれるユキノの気持ちは嬉しいし、何より世話してくれるユキノの手助けをしたいのだが。
バイト先、料亭蛍屋は銀座にあるのだ。
9時にバイトをあがって渋谷まで行って荷物を受け取って学校まで行ったら、果たして10時に間に合うだろうか。
は頭の中に路線図を広げ思考する。
「・・・走れば間に合う、かなぁ」
『やっぱり今日は無理かしら・・っ?』
「いえ・・・私、行きます!7時頃にはそちらに行けると思います」
が了承してくれたことにユキノは何度も礼を言って携帯は切れた。
今度こそ携帯を折って鞄に入れ、はどっと溜め息を吐いた。
マサムネからの嬉しい連絡で忘れかけていた疲労が一気に戻ってくる。
どうして今日に限ってこうも邪魔が入るのか。
まるで自分とカンベエを引き離そうとしているように思える。
だが、ここで落ち込んでいる場合ではない。
少しでも運気が好転するようにがんばらねば。
「よし、もう一頑張り!」
今日何度目かの気合を入れ直し、は元気よくホームの階段を駆け下りた。
♪
本日のキュウゾウとの試合は、残念ながらキュウゾウに軍配が上がってしまった。
まだまだカンベエの方が勝ち星は多いが、それもキュウゾウがじわじわとそれを追いかけてきている。
彼に完全に負かされるのも時間の問題か。
だが強き者に時代を受け継がれるならそれもまた良しだ。
部活の後のことはキュウゾウに任せ、カンベエは胴着から着替えて再び職員室の席で書類処理に勤しんでいた。
卓上の時計は7時15分を指しており、窓の外はすでに真っ暗である。
職員室に残る教師の姿もまばらである。
どうやらシチロージも帰ってしまったようだ。
カンベエは紙の山から一部ずつ取っては目を通し、隣に処理済の山を作っていく。
ただひたすらそれの繰り返し。
少しずつ山が崩れていくと、不意にカンベエの目に書類の山に隠れてしまっていた色とりどりの箱たちが留まった。
いろんなクラスの女子から貰ったそれは、シチロージには及ばないまでも結構な量がある。
あまり菓子を好まないカンベエゆえに、これらを消化するのに結構な日数がかかりそうである。
夕食もとらずの書類作業でちょうど小腹もすいてきたところだ。
どれか一ついただこうかとカンベエは箱に手を伸ばした。
「・・・・・」
だがその手はどの箱を取ることもなく、書類の手前にあるコーヒーカップに伸びた。
女子たちから貰ったプレゼントも嬉しいが、カンベエが想う女からのものはそこにはない。
残念だと思いながらも、カンベエは部活のときのキュウゾウの言葉が引っかかっていた。
絶対とは言えないが、まだ2月14日が終わっていないのだからありえないとも言えない。
がこれから来るかもしれないという低い可能性に、カンベエは僅かに期待してもいた。
いい歳をして何を女のイベントに踊らされているのかと、カップを口から放して自嘲気味に笑む。
だがそれでもカンベエは信じているのだ。
自分が確かに彼女を愛していることを。
そして自惚れだと言われようとも、彼女もまた自分をそう想ってくれていることを。
「溺れておるな・・・」
机に肘立てて顎を乗せ、薄く笑って本音を零す。
机の端に置かれた黒い携帯をじっと見つめる。
今がどこで何をしているのかはわからないが、とりあえず日付が変わるまでは待ってみようと決め、カンベエは再び目を書類に戻した。
♪
バイト先の更衣室の時計に目を向ける。
コチコチと音を立てる時計は9時5分を指していた。
秒針に促されるようには慌てて服を着替えた。
普段は大して苦に感じないのだが、こういうときは料亭の制服が着物であることを恨みたくなる。
脱いだ着物と帯を綺麗にたたんでロッカーにしまい、ユキノに一言告げては銀座駅を目指して走った。
一日の疲労が如実に現れ、体が重くて仕方がない。
乗り込んだ電車はそれなりに空いていたが、座ったら寝てしまいそうではドアに寄りかかるようにして立っていた。
銀座から渋谷までは地下鉄銀座線で乗り換えなしの一本道だ。
予想通り9時半前に渋谷に到着できたは、ふらふらしながらも階段を駆け下りてマサムネのところへ向かった。
に気付いたマサムネに手招きで呼ばれ、忘れ物などが置かれている場所へ通された。
「長旅だったようだねぇ、お嬢さん」
「はい・・・。ちょっと疲れました」
実質、山手線を一周してしまったは疲れた笑顔をマサムネに向ける。
マサムネは笑って慰めの言葉をかけ、「はじめにきちんと中身まで聞いときゃよかったな」と自分の非礼を詫びる。
は慌ててマサムネのせいではないと否定した。
「もとはと言えば忘れ物なんかした私が悪いんですっ。ご連絡までいただいて、本当にありがとうございます」
「いいってことよ。それより、お嬢さんがお探しのものであればいいけどよ」
2人が話している間に別の駅員が荷物を運んできた。
どちらも確かに赤いリボンがかけられた白い箱である。
2つはとても似ていたが、箱の大きさやリボンの赤い色にも若干の違いがあった。
は目の前に置かれた2つの箱をじっと見つめている。
「お嬢さんの忘れ物かい?」と問いかけるマサムネに、はゆっくりと顔を向けて微笑んだ。
卓上のデジタル時計の画面が音を立てずに21:35に変わる。
は鞄から静かに携帯を取り出した。
♪
山になっていた会計報告書が全て片付いたのは、ちょうど腕時計の短針が9時35分を指したときだった。
カンベエはデスクチェアに体をもたれさせ、思い切り腕を上げて背伸びをする。
職員室にはカンベエしか残っておらず、電気もカンベエの机上のスタンドしかついていない。
誰もいない夜の校舎は閑散としていた。
静かな室内で椅子を軋ませて立ち上がり、とりあえずコーヒーを淹れようと思い立ったところで机の上を携帯が振動しながら這い出した。
二つ折の携帯を開けば、ディスプレイには彼女の名前。
それだけで疲れていた心が少しだけ癒される。
ボタンを押して向こうの相手に「どうした」と短く問いかけた。
『先生、すみませんこんな時間に・・・あの』
「何かあったのか?」
聞こえてくるの声にはあまり元気がなかった。
彼女の返事を待っていれば、『今、まだ学校にいらっしゃいますか?』と控えめな声が聞こえてきた。
数十秒後、短い会話を交わしてカンベエは携帯を閉じた。
は今渋谷駅にいて、今からここに来ると言う。
もう遅いから迎えに行くと告げれば、はひどく落ち着いた声でそれを断り、自分が行くと言った。
カンベエは携帯を机の上に置いて、何か考えるときの癖で顎に手を添えた。
は普段から落ち着いた女の子だが、今の電話の声の落ち着きはそれとは少し感じが違った。
何かを悟ったような、受け入れたような静かさが電話越しに漂っていた。
彼女に何かあったのだろうか。
10分後、暗い夜の校内を上履きが走る音がカンベエの耳に聞こえてきた。
それは徐々に職員室に近付いてきて、ドアの前でぴたりと止まった。
扉の向こうで深呼吸しているのが感じられる。
小さなノック音が2つして、控えめに扉が開いて「失礼します・・・」と待っていた女生徒が入ってきた。
「島田先生・・・?」
名を呼ばれて、カンベエはデスクチェアのキャスターを後ろに滑らせて机の陰から姿を現して見せる。
軽く笑いかければ、後ろ手に扉を閉めたがぎこちなく笑い返してきた。
職員室の電気はカンベエのデスク上のスタンドしかついていなかった。
椅子に座って軽く手を上げてくるカンベエに、はどことなく重い足取りで近付く。
カンベエと少し間を空けて足を止め、椅子に座ったままのカンベエを見下ろした。
女生徒の遅すぎる時間の訪問に、カンベエは呆れ顔で苦笑している。
「どうした、こんな時間に」
「あの・・・ごめんなさい、遅くに。先生、お仕事は」
「あぁ。ちょうど終わったところだ」
「そうですか・・・。お疲れ様です」
労わりの言葉をかけて笑いかけようとしても、彼女の笑みはどうしてもぎこちないものになってしまう。
その差異にカンベエが気付かないわけがなく、それでも穏やかな顔でから口を開くのを待っていた。
カンベエの目を見つめ返すことができず、は俯き加減に視線を彷徨わせる。
カンベエの足元、机、書類の束と目を動かし、不意にその目が机の上の箱の山に留まった。
色とりどりのラッピングをされた贈り物たち。
以外の女の子たちがカンベエにあげたもの。
見つめているだけで哀しくなる、それなのに・・・目をそらせない。
数秒経ってふっと顔をそらせば、カンベエと目が合ってしまった。
カンベエは苦笑している。
が何を見て何を思っていたか、彼はしっかりとわかっているのだろう。
幼い心を読まれた恥ずかしさと言い知れぬ哀しさには顔を歪めた。
「どうした、」
「・・あの・・」
「ひどい顔だな。可愛らしくないぞ」
「も、もともとです・・っ」
意地になって叫んだ言葉を、カンベエはさらりと交わして笑ってみせた。
彼は大人なのだ、カンベエの前では大人になりたいと虚勢を張っても通用しないのだ。
の幼い嘘も、背伸びも、何もかも。
カンベエはを見つめたまま笑っていた。
まるで懺悔しに来た迷い人の話を静かに聴く神父みたいな穏やかな笑顔で。
優しく微笑まれればされるほど、自分の失敗が嫌で嫌で、心が痛くなる。
「先生・・・ごめん、なさい・・」
「何を謝る」
「あ・・あの・・っ」
どこまでも優しいカンベエを見ていると、じわりと視界が滲んできた。
左手で鞄を持ち、右手の甲を目に押し当てては唇を引き結んだ。
最後の駅、渋谷で味わった悲しみと寂しさが波のように彼女の胸に押し寄せてくる。
結局が捜し求めた大事な荷物は、彼女の手元には戻ってはこなかった。
渋谷駅に届いた2つの白い箱は、どちらものものではなかった。
あんなに走り回って、必死になって探したのに。
のありったけの想いを詰め込んだ贈り物はカンベエに渡せないまま終わってしまった。
それでも、それでもはカンベエに届けたかった。
せめて想いだけでも届けたかった。
だから惨めなのを承知で、カンベエに呆れられるのを承知で彼に会いに来た。
そんなに、カンベエは変わらぬ笑みを向けてくれる。
それだけで胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
カンベエはの話を黙って聞いてくれて、そして穏やかに笑ってくれた。
コップいっぱいになった水が溢れるみたいに、自然と涙が彼女の白い頬を伝った。
「ごめんなさい・・・っ」
「何ゆえ謝る。お主は何も悪いことなどしておらぬだろう」
「ごめんなさい・・っ。先生・・・私、悔しいですっ」
「・・」
「悔しいですっ。他の子が先生にあげたのに、私が・・私が先生に渡せ、なくて・・・っ」
「もうよい。」
カンベエは泣きじゃくる子どもをあやすようにふっと微笑み、全て納得して受け入れた声でを呼んだ。
彼女の手から鞄を引き取ってデスクに置き、空いた手を取って自分の方へと引き寄せた。
それでもは俯いて片目を押さえてしゃくりあげる。
「先生」と「ごめんなさい」を彼女は泣きながら繰り返す。
そんなが、愛しくて仕方がなかった。
どんな小さなことでも、自分のことでこんなにも真剣になって泣いてくれる彼女が愛しくて仕方がない。
「」
「・・・ごめ、なさい・・っ」
「もうよいのだ。・・・」
久々に校内で名前を呼ばれ、は隠れていない方の瞳を驚き見開く。
ゆっくりと椅子から立ち上がるカンベエに手を引かれ、たたらを踏んだ。
カンベエの大きな手が後頭部に回り、そっと彼の胸に招き入れられた。
彼のシャツに頬を寄せ、強く優しく抱きしめられた。
「・・先生・・」
「お主がそこまでしてくれただけで、わしは十分に嬉しい」
まだ少ししゃくりあげるの背を、カンベエはあやすように小さく叩いた。
疲れただろう、と。
よく頑張ったな、と。
カンベエのその短い言葉に心が癒された。
走り回って箱を追いかけた数時間が無駄ではなかったと言われた気がして、体の力が抜けていった。
カンベエの優しさに心がほぐされる。
緩んだ瞳からまた涙が零れて、カンベエのシャツの胸元を濡らした。
「あ・・ご、ごめんなさい・・」
「ん?」
「服が汚れて」
「あぁ。構わぬよ」
少し体を離して目元をこすろうとしていたの手をカンベエが遮った。
「こするな。明日、腫れてしまうぞ」
「でも・・。あ、鞄にハンカチが」
「少しじっとしておれ」
問い返す暇もなくカンベエの顔が近付いてきて、濡れた目元をぺろりと舐められた。
舌の生暖かい感触に、の頬がぼわりと紅潮する。
固まるを見てカンベエは得意げに笑み、今度は反対の目に口付けた。
わざわざちゅっと音を残して離れていくのがカンベエらしい意地悪だ。
カンベエは「ふむ」ともっともらしく笑う。
「塩辛いバレンタインだな」
「ご、ご自分でなさったくせに・・・っ」
ぷくりと頬を膨らませて抗議すれば、カンベエに頬を指で突っつかれてからかわれた。
「素直にならんか」と笑われそっぽを向けば、隙だらけの頬に唇を押し付けられてはまた赤くなる。
一方でに不意打ちのキスをしたカンベエは、彼女に近付いて感じ取った何かに意外そうに口をすぼめた。
「せんせ・・っ」
「お主、香水をつけておるのか?」
「え・・・?」
怒ってやろうと思ったのに、突然そんなことを聞かれては目を丸くする。
香水なんてつけたこともなければ、持ってもない。
カンベエは何の匂いを嗅ぎ取ったのだろう。
しばらく考えていたが、「あっ」と合点がいったようには呟く。
「リップ・・かもしれません」
そう言ってはスカートのポケットから白いリップクリームを取り出した。
細長い筒の外側にはアイスクリームの絵が描かれ、「バニラ」と書かれている。
蓋を取ってカンベエに差し出せば、彼はそれを受け取って眺め納得したようだった。
「甘い匂いがするな」
「たぶん、それのことだと思いますよ」
「あぁ。この匂いだ」
カンベエはしばらく手に持ったリップの筒を眺めていたが、不意にその視線がに移って何だか楽しげに笑った。
何か企んでいる、との直感が言う。
恐る恐るカンベエを上目で見上げていれば、ついっと顎に手をかけられて上を向かせられた。
「な、何ですか・・っ?」
「じっとして、少し・・口を開けよ」
「え・・?」
その小さな呟きで薄く開かれたの唇に、細い筒を手にしたカンベエの指が降りてきた。
よく手入れされた柔らかで艶やかな彼女の唇に、彼の手で色のない化粧が施される。
リップを塗られるその僅かな時間がひどくこそばゆくて、キスされるよりずっと恥ずかしくて。
塗っている間も塗り終えてからもじっとカンベエに目を見つめられ、胸が焦げるような想いでいた。
彼が片手で器用にリップの蓋を閉めた音が聞こえて。
彼の顔がまたゆっくりと降りてきて、色のない紅をひいたばかりのそこにゆっくりと唇を重ね合わせた。
薄い花びらを唇に咥えるような、優しい口付け。
今度は甘いな、と。
数センチだけ離したカンベエの唇が息をするように告げる。
「菓子もよいが、わしはこちらの方が好みだ」
「先生・・・・お約束、ですよ。それ」
「そうか。・・・・あぁ、そうだ」
何かを思い出したようにカンベエに、は首を傾げる。
だがそれも彼がまた企み顔になったのを見て、は思わず後退った。
カンベエの両手が彼女の腰に回り、を引き戻す。
白いシャツの胸に手をついて逃げようとするの耳に、彼は口を近づけた。
―――週末、家に泊まりに来い。
予想外の彼の申し出には驚きと喜びといろいろ混ざった顔を跳ね上げてカンベエを見上げる。
こちらを向いたっ、と罠にかかった彼女の唇にカンベエの不意打ちのキスが襲いかかって。
静かな夜の職員室に、可愛らしい小さな悲鳴が漏れたのを聞く者は、彼女の愛しい人以外にはいなかった。
机の上で、黒い携帯のディスプレイがパッと22:00に表示を変えた。
がんばった彼女へのご褒美。
シンデレラの魔法は10時を越えて、もう少しだけ続きそう。
バレンタイン夢、別名山手線ラブストーリー。
再アップです。(使い回しとも言う)
いろいろ調べに調べて書きました。勉強になりました。楽しかったです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
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