非常にまずい場面を図書館でヘイハチに見られてしまってから、実に3日が経っていた。
「・・・・来ない」
彼女は大学の学食の窓際に座り、テーブルに肘をついて携帯をいじっていた。
メールフォルダに新着メッセージはない。
M e n u e t t 2
待てど暮らせど、ヘイハチからのメールは来ない。
「はい、わかりましたって言ったじゃんかよ・・・」
唇を尖らせ、不満を漏らす。
催促をしたのは自分だが、それでも了解したのだからメールを送ってくるのが筋ではないか。
少しだけ苛立つも、だが彼女はすぐに思い直す。
ヘイハチの心を戸惑わせるようなことをしたのは自分だ。
「・・・怒ってるのかね・・・林田」
不慮の事とはいえ、自分の彼女が他の男とキスしている場面を見て何とも思わない彼氏はいなかろう。
あのとききちんと弁解しなかったから、ヘイハチは誤解しているのかもしれない。
それとも、自分が他の男とキスしているのを見て、本当に何とも思っていないのだろうか。
「うわ・・・・それは寂しすぎる」
思わず本音がぽろりとこぼれる。
何の反応もない携帯をため息混じりにパクンと閉じた。
そんな彼女の耳に、たった今考えていた彼の声が入ってきたのはまさにそのときだった。
「えぇっ、林田君って神無学園なの!?」
「すっごい頭良いじゃん!」
「そんなに驚くほどのものじゃないですよ。神無にもピンからキリまでいますから」
自分は下のほうです、と恐縮する彼は、苦笑いしながら照れたように後頭部をさすっている。
へらりと笑うそれは、林田ヘイハチその人だった。
彼女とはずいぶん離れた席で、3人の女の子たちと向かい合って昼食をとっている。
やけに楽しそうな彼を見て、おさまっていた苛立ちが彼女の中で俄かに上昇し始める。
「・・・なんだそれ」
不満たらたらの細い目で遠くのヘイハチを見つめていたが、ふいっと前に向き直った。
自分のせいでヘイハチを怒らせたかもしれない、不安にさせたかもしれないと心配していたのに。
女の子たちに囲まれて話をしている彼はとても楽しそうで、彼女のことなど何にも心配していないみたいだ。
彼女一人がやきもきしていたようで無性に腹が立つ。
「林田の、ばか・・・」
小さな声で不平をつぶやき、彼女はがたりと席を立った。
最後にもう一度だけ首をめぐらせてヘイハチを見れば、彼はまだ女の子たちと話をしていた。
彼女は渋い顔できびすを返し、学食を出た。
講義を聴いていても、ときどきふっと集中力が切れてしまう。
鞄の中の携帯が無性に気になってしかたがない。
昨日に引き続き、今日も学食で目に留まったヘイハチと女の子たちのことが気になってしかたがない。
講義終了のベルが鳴って、彼女はため息をついてノートを閉じた。
「ずいぶんと色っぽい溜め息を吐くな」
「うわ、びっくりしたっ!!」
「・・・驚きすぎだ。俺は化け物か」
いきなり後ろから声をかけられ、彼女は座ったまま勢いよく背後を振り返った。
講堂の構造上、後ろに行くにつれて徐々に段差が上がっていく。
少し高い後ろの席を見上げれば、長い黒髪の男が片手で頬杖ついて彼女を見下ろしていた。
彼の机の上にノートが広がっているのを見ると、どうやらずっと後ろの席にいたらしい。
全然気がつかなかった。
「いたのかよ!」
「俺の存在は完全無視されていたわけだな・・・」
「いたんなら何か一言ぐらい声かければいいだろが」
「かけようかと思ったが、お前授業中に声かけても集中していて気付かんだろ。それに」
片手を頬杖ついたまま、ヒョーゴはむすっと唇をへの字に曲げた。
「もう絶対声かけてくんな、とビンタ付きで啖呵をきったのはどこのどいつだったか」
「・・・・ここの私だよ」
数日前の悪い夢が彼女の頭に蘇ってくる。
いきなりキスをされ、ヒョーゴの頬を引っぱたいて怒りに任せてそう言ったのは彼女自身だ。
「あんたも取ってたんだ、この講義」
「まぁな」
「ラッキ。じゃ、休んだときノートよろしく」
「お前・・・人の顔を思い切りひっぱたいておいてよくそんな頼みができるな」
並の神経の持ち主じゃない、とヒョーゴは引きつった笑みを浮かべる。
そんな彼に、彼女は目の据わった実に非難がましい黒い笑みで応えた。
「それぐらい当然だろ。あんたのせいでね、私らの仲は最悪になってるんだから」
「私ら?」
「私と!林田だよ!」
「そうか。それはいい」
「何がいいもんか、この眼鏡馬鹿!」
お前のせいだぞ、と彼女は顔をくしゃくしゃにしてヒョーゴにあたる。
ヒョーゴは彼女の怒りも難なく交わし、「美人が台無しだぞ」と飄々と応える。
「早く移動せんと次の講義に間に合わんぞ」
「その台詞、そっくりあんたに返すよ」
「俺は次、空きコマだ」
「あっそ・・・あっっっそ!」
やけに余裕綽々のヒョーゴに、彼女はやや乱暴にノートと筆記用具を鞄にしまう。
イラつく彼女を見下ろしながら、ヒョーゴはにやりと笑んだ。
「急がんと」
「わかってる、もう!」
「次、ここは工学部の授業だぞ」
ヒョーゴが告げたまさにその次の瞬間、部屋の隅の開いたドアから工学部の学生たちが入ってきた。
きゃっきゃと楽しそうに笑う数人の女の子たち。
その中の一人が、「林田君、ここ空いてるよ」と言うのが彼女の耳に届く。
「一緒に座ろうよ。あ、他のとこのがいい?」
「いえ、ここでも十分聴こえますよ」
かぶっていた帽子を取って蜜柑色の髪を掻く。
聞こえてきた柔らかい声に、思わず彼女は立ち上がってしまった。
突然立ち上がった人物にヘイハチも目を留め、彼女の方に顔を向けてきた。
2人の視線が、実に数日ぶりに交差する。
彼女も驚いたが、ヒョーゴと一緒に居る彼女を見るヘイハチの目も驚きを表していた。
しばらくの間、遠く離れながらも2人はじっと互いの顔を見詰め合っていた。
互いの心を読むように。
張り詰める緊張の糸を、先に切ったのはヘイハチの方だった。
ヘイハチの顔が、怒りとも悲しみとも蔑みとも取れる微妙なものに変わる。
それからヘイハチはふっと彼女から視線をそらした。
「あ・・・林田」
「あぁ。完璧に誤解されたんじゃないか」
場の空気をわかっていて、飄々と言ってのけるヒョーゴを勢いよく振り返ってキッと睨み上げた。
ヒョーゴの言うとおり、この状況では完璧にヘイハチは誤解しただろう。
これではまるで、彼女とヒョーゴが仲良く近い席で授業を受けていたみたいだ。
「誰のせいだよ・・・誰の」
「さぁな。とっとと移動しないお前が悪いんだろ」
「あんたね・・・次が工学部の講義だってわかってたんなら、もっと早く教えろよ!」
「だれがそんな人助けするか。お前らを別れさせる恰好の機会を」
「この卑怯もん」
「言ってろ。ほらいいのか。こうして俺と仲良く言い合っていれば、ますますあの男が誤解するぞ」
頬杖ついてにやりと笑うヒョーゴを一睨みし、彼女は鞄を引っつかんで勢いよく席を立った。
ぴしぴしと痛い空気に身を包んで去っていく彼女をヒョーゴは目だけで追う。
彼女が教室を出て行ってから、ヒョーゴは今度は視線を前の方に座るヘイハチに向けた。
後方の席と前方の席ではずいぶん段差がある。
上段から見下ろす形のヒョーゴは、いつの間にやら自分にじっと視線を向けていたヘイハチに気づく。
けっして睨むわけでもなく、感情の読めない細い目でヒョーゴを見ている。
蒼紅をひいた唇の片端をにっと持ち上げて笑えば、ヘイハチはふっと前を向き直ってしまった。
「俺にガンくれるか。いい度胸だ」
林田ヘイハチ。
へらへらしているようで、底が知れない。
彼女が選んだだけのことはありそうだ。
ただし、まだまだ未開花のようだが。
ヒョーゴは楽しげに喉を鳴らして笑い、ゆっくりと席を立った。
また、あの2人は一緒にいた。
工学部の授業が始まってから、ヘイハチは何度目かの小さなため息をついた。
もうキャンパス内で何度も彼女と彼が一緒にいるのを見かけた。
あの黒髪の男の人は彼女と同じ文学部の2年生で、ヒョーゴさんというらしい。
いつも昼を一緒にする女の子たちが情報通で教えてくれたことだ。
ヒョーゴもまた昨年度の学力特待生で、彼女と同じ優遇を受けているとのこと。
「天才同士、気が合うのかもね」
「・・・そうですね」
そのときは曖昧な笑みで答えを返したが、ヘイハチは無性に寂しくなる自分を感じていた。
手に持ったペンをプラプラと揺らし、教授が黒板に書く汚い字を何となく板書していく。
今日の授業はこれで終わり。
終わったら―――いつもなら、彼女と図書館で待ち合わせて街にぶらつきに行くのだが。
今の状況で、そんな気分にはなれない。
それに今日は臨時のバイトでマサムネの機械修復事務所に行かなければならない。
そのことをメールで彼女に。
不意にヘイハチの脳裏に、先ほどの2人の姿がちらついた。
「言う必要・・・ないですね」
「どうかした?林田君」
「いえ・・・なんでもありませんよ」
へらりとした笑みを隣の女の子に向けて、ヘイハチは黒板に目を戻した。
オレンジ色の携帯は、もうずっと鞄の底で眠ったまま。
あ〜〜〜、ヒョーゴ書いててすっごい楽しい。
ヒョーゴの報われない恋が好きです(酷)。
ヘイハチしっかりして!
大学マメ知識
「空きコマ」=授業が入ってない時間のこと
「2年生」=大学は2回生なんですかね?私の大学では2年生でした
「教室」=大学の講堂って扇形になってて、後ろに行くほど高くなってます。
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