彼女はいつでもどこでも人気者だった。
高校時代は学園のヒロインで、毎日のように靴箱や机の中にラブレターが入っていた。
たまの日曜日に一緒に外に出かければ、ヘイハチが少し離れている隙に通りすがりの男にナンパされていた。
おもしろいぐらいもててしまう、それは彼女の意思とは無関係とはわかっていても。
そんな状況を目にし、ヘイハチは何度となく虚しくなったものだ。
それでも彼女はいつも、多くの男からの誘いを断ってヘイハチに笑顔を向けてくれていた。
今、ヘイハチは大学の図書館の奥まった場所にいる。
探し求めていた厚い本を3冊ほど棚から抜き取れば、ぽっかりとできた空洞のずっと向こうに彼女の姿が見えた。
彼女の前には、長い黒髪に色眼鏡をかけた男が立っている。
遠すぎて何を話しているのかはわからない。
彼女はうんざりした顔をしていて、そんな彼女の態度に黒髪の彼が苛立ち混じりの顔をしている。
次の瞬間、本棚の空洞から覗き見していたヘイハチの細い目が見開かれた。
ヘイハチの視線の先にいる2人の姿が重なった。
正確には、黒髪の神経質そうな男が無理矢理彼女の顔を引き寄せて唇を奪ったのだが。
ヘイハチの視線が凍りつく。
見てはいけないものを見てしまったような気がして、心臓が気味悪いほど速く脈打つ。
突然、パンッと乾いた音がして、彼女が男の頬を張ったのがわかった。
彼女が手の甲でごしごしと唇をこすれば、男は蒼紅を引いた唇をにやりと上げて笑う。
優雅にきびすを返して去っていく男に、彼女が「馬鹿ヒョーゴ!あほ!」と悪態をつくのが聞こえた。
ヘイハチはそれを本棚の空洞からただじっと見つめていた。
辞書が抜け落ちてできた四角い穴から覗くそれは、通俗なソープオペラのようで何だか非現実的。
その安っぽいドラマを演じる女が自分の恋人であることにヘイハチは言葉をなくして呆然とする。
ただただぼぉっとしていれば、不意に「林田・・・」と名前を呼ばれて我に返った。
いつの間にか彼女がこちらを向いていて、2人は空洞ごしに視線を交わす。
「あー・・・・えぇと」
「見てたんだね・・・今の」
いきなり核心をつく質問を投げられ、上手い答えが出てこない。
はいばっちり見てました、とも言えず。
気づけばヘイハチは、眉を落として自嘲気味に笑っていた。
どうして他の男とキスなどするのかと怒るわけでもなく。
曖昧な笑みで答えれば彼女をより一層傷つけることを承知で、ヘイハチはへらりと笑ってしまった。
あぁ・・・・あぁ、恋とはなんと苦しいものよ。
M e n u e t t 1
そんな事件があってから、2日後の昼。
現在、12時10分。
学食にヘイハチ一人。
行儀悪くテーブルに頬杖ついて、ラーメンのどんぶりに突っ込んだレンゲをカチャカチャといじっていた。
ヘイハチと彼女の仲は、2日前からギクシャクしたままだ。
やっぱりあのときちゃんと彼女に問いただして話を聞くべきだった。
ヘイハチは今更ながらに後悔する。
『林田・・・』
『すみません・・・その。覗こうとしていたわけじゃなくて、ですね・・』
気まずい笑みを浮かべて弁解のような言葉を吐けば、場の空気がより一層かたいものになってしまった。
さて、どちらから話を切り出せばよいものか。
そんなことを2人して考えていれば、タイミングが良いのか悪いのか、授業終了のチャイムが鳴り響いた。
『林田、あのさ』
『すみません委員長。次、E棟で講義なんで』
『あ・・・そっか。そっか、遠いもんな・・・。うん、わかったよ』
わかった、という割には彼女の顔は全然すっきりしていない。
今すぐにでもヘイハチと話がしたくて仕方がないという顔をしている。
『じゃぁさ、後でメールくれないかな?』
『あ、はい・・わかりました。今日はバイトがあるんで夜になりますけど』
『いいよ。・・・・・待ってるからさ』
『はい・・・・。それではまた』
彼女は笑顔でヘイハチを見送ってくれたけど、それが無理をして作った笑みであることはよくわかる。
まるで彼女から逃げるようにして図書館を出てきてしまった。
E棟に着いても、ヘイハチは心ここにあらずな顔で講義を受けた。
そしてその日、ヘイハチは彼女にメールを送らなかった。
それがその日一番のヘイハチの失敗。
何かを言おうとしていた彼女の言葉を遮り、ヘイハチは自分から逃げてきてしまった。
あのとききちんと彼女の話を聞いていれば。
今こんな釈然としない気持ちで一人で昼飯なんか食うこともなかったであろうに。
「あー・・・・馬鹿にも程がありますねぇ」
ラーメンを食べるでもなく、レンゲをいじる。
彼女のことが気になってしょうがない。
突然彼女の唇を奪った黒髪の彼のことが―――ヒョーゴと彼女は呼んでいた―――気になってしょうがない。
こういう時は不運が重なるもので、ヘイハチの好きなご飯つきの定食は完売していた。
ラーメンでは力が出ない、と溜め息を吐く。
「はーやしーだ君」
不意に後ろからトントンと肩を叩かれ、ヘイハチはゆっくりと後ろを振り返った。
そこには笑顔の可愛い女の子が3人。
どれも工学部の授業で何度か見たことのある女子たちだ。
「何でしょう?」
「ここ、空いてる?」
「・・?えぇ、空いていると思いますよ」
「やった。ね、林田君。お昼一緒に食べていい?」
「へ・・?あ・・はぁ」
歯切れの悪い返事を返せば、女子3人は気にした風もなくはしゃぎながらヘイハチの周りの席についた。
各々手作りの弁当やサンドイッチをバッグから取り出し、お昼を食べ始める。
ヘイハチは状況がいまいちつかめず、やけに楽しそうな3人に囲まれて何となく座っていた。
そのうちヘイハチに最初に声をかけてきた女の子が、彼に声をかけてきた。
「林田君。いつもお昼一緒にいるあの人は?今日は一緒に食べないの?」
「え?・・・あぁ」
「あー、あたし知ってる。委員長って呼ばれてる人でしょ?」
「だれ、委員長って?」
「ほら、あの人だよ。文学部の髪の長い、すっごい美人の!」
すっごい美人と言い切る女の子たちの言葉に、ヘイハチはきっと彼女のことで合っていると確信する。
3人はヘイハチにお構いなしに彼女のことを話し出す。
ヘイハチは聞いていないようなふりをして、彼女たちの話に耳をそばだてた。
「あたし、こないだテッサイ先生の研究室行ったときさ、たまたま机の上に置いてあった彼女のレポート見ちゃったんだ」
「テッサイ先生って、文学史概論でしょ?わたし取ってない。面白い?」
「んー、私はあんまり。だってテッサイ先生の授業ってすっごい難しいんだもん。
あ、でさ。すごかったんだ、その彼女の評価がなんとね・・・Sだよ、S!」
怪談を語るように告げる女子に、2人の女の子は驚きに目を丸くする。
それとなく聞いていたヘイハチも、思わず女の子たちの方にほうけた顔を向けてしまった。
「信じらんない!だってSってAの上だよ?そんなの取れる人いるんだ・・」
「でもさ、彼女あれなんでしょ?学力特待生」
「そうそう。後期試験、トップで合格したって噂だよ」
「うちらとは頭の中身が違うんだろうなぁ。ねぇ、林田君」
「へ?」
突然話を振られて、ヘイハチは今まさに口に運ぼうとしていたなるとをボチャンとどんぶりの中に落としてしまった。
「林田君、学部違うのによく彼女と一緒にいるよね。知り合い?」
「えぇ、まぁ。高校の同級生ですから」
「えー、そうなんだぁ。彼女ってやっぱり高校の頃から有名人だった?」
「あぁ・・・そうですねぇ」
瞳を輝かせて質問してくる女子たちに、ヘイハチは曖昧な笑顔を浮かべて答える。
彼女が有名だったかなんて、そんなのは愚問だ。
彼女はいつだって光り輝いていたのだから。
彼女ばかりが周りの反応には無関心で、その飄々とした態度がますます人気を上げていたものだ。
彼女は皆の、そしてヘイハチの中心だった。
幸運にも、女子3人はヘイハチと彼女の関係を深く突っ込むことなく昼食を終えて席を立っていった。
「じゃぁねー、林田君。よかったら明日も一緒に食べようね。って、次の授業も一緒か」
また後でね、と明るい笑顔で手を振りながら彼女らは学食を後にしていった。
嵐が去った後のテーブルに残されたのは、林田ヘイハチと冷たく伸びきったラーメンだけ。
ヘイハチは溜め息をついて鞄を肩から斜めにかけ、冷たいラーメンの器を取って席を立った。
「明日も一緒に・・・ですか」
彼女たちの申し出は嬉しい。
だがそれは、明日もまだ彼女と仲直りしていないということになる。
それは嫌だなと思いながらも、携帯を開いてメールを打つ気にもなれない自分にヘイハチは辟易するのだった。
次の日の午前中、1限が終わった直後のことだった。
ヘイハチは、久しぶりにキャンパス内で彼女の姿を見かけた。
気を引き締めて、「委員長」と声をかけようとして、だが思わず躊躇したのは。
彼女が黒髪の男―――ヒョーゴと一緒に歩いていたからだ。
けっして恋人のように腕を組んで楽しそうに連れ立っていたわけではない。
彼女が前をすたすたと歩き、その後ろをヒョーゴが追いかけているというものだ。
それでも、彼女がひどく嫌そうにしているようにも見えなかった。
ヒョーゴが後ろから何かを言えば、彼女は首をわずかにめぐらせて「ばぁか」と意地悪な笑みを向けたりしている。
2人はまるで昔からの知り合いみたいで、兄弟のような幼馴染のような雰囲気を醸し出していた。
なんだか。
「・・・近づけませんねぇ・・」
それがヘイハチの感想。
自分よりずっと似合いのカップルのような気さえして、切なくなった。
思わず意地の悪い心が囁く。
くたびれたジーンズのポケットに手を突っ込み、オレンジ色の携帯をギュッと握り締めた。
今このタイミングで彼女に電話をしたら、彼女はどんな顔をするだろう。
別の男と仲良く歩きながらでも、平然とヘイハチからの電話に出るのだろうか。
今、どこにいます?
一人ですか?
そんな電話をしたら、彼女はなんと答えるのだろう。
ヘイハチに嘘をついて、一人だよと答えるのだろうか。
すぐに来て欲しいです。
素直にそう言えば、ヒョーゴのことを放り出してヘイハチのところへ来てくれるだろうか。
「はは・・・。何を子どもじみたことを」
自嘲気味に笑って、ヘイハチはポケットの携帯をそのままに手を引き抜いた。
彼女と彼に背を向けて、早足で次の講義に向かう。
心がさざめいて仕方がない。
仲良さげな2人の姿に、どうにも胸がむかむかして仕方がない。
自分ばかりがのけ者のような気がする。
自分の知らないところでキスをして(それは事故だとわかっていても)。
自分の知らないところで楽しそうに笑って(それがどんなにくだらないおしゃべりだとしても)。
沸々と沸き上がる、彼女への小さな苛立ち。
その日の昼、ヘイハチはまた昨日の女子たちに声をかけられ、一緒にご飯を食べた。
昨日よりはヘイハチも少しは会話に加わった。
ヘイハチの顔には、ずっと乾いた笑いが張り付いていた。
大学に進んだヘイハチと委員長。
ちょっと以前のものを改訂しました。
ここでライバル登場。蒼い紅のあの人です。
『曹長シリーズ』でもそうでしたが、やぱし彼の愛情表現はすごいんだろうなぁ。
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