ドリーム小説
午後の執務室に、穏やかな風が吹き入る。
風の悪戯で飛んでしまった数枚の書類。
窓辺に落ちたそれらを拾いに、カンベエは座りっぱなしの重い腰を上げた。
書類を拾い上げ、ふと開かれた窓から街を見下ろす。
カンベエの目は、自然と色とりどりの尾根が群がる集落に向かっていた。
あの屋根のどこか一つに、秘色(ひそく)の遊女がいる。
そんなことを無意識に思い、カンベエは小さな溜め息を漏らした。
―捌―
「・・・・・」
窓の外を眺めては、やおら溜め息を漏らす上官を見て、シチロージは微妙な顔つきをする。
カンベエは気付いているのだろうか。
窓の外、街の一角を見つめる焦琥珀の瞳の。
ほぉと溜め息を漏らす口元の。
その男とは思えぬ艶かしさに。
否、気付いているはずがないとシチロージはわかっていた。
先頃、シチロージとカンベエは連れ立って鋼牙渓の名高い遊郭に赴いた。
シチロージは好みの遊女と一時を楽しみ、カンベエは不思議な成り行きで太夫と時間を共にした。
各々がそれぞれに楽しき一時を過ごし、心身を癒した一日だった。
さぁ、また慌しく気の張り詰めた日常に戻ることになる。
そのはずだった。
「なんですかねぇ、その・・・カンベエ様」
「ん?」
シチロージは頬杖をついて苦笑する。
呼ばれて振り向けば、カンベエはいつもと同じ軍士の顔をしていた。
だが隠してもわかる。
カンベエと付き合いの長いシチロージだからこそ気付けた。
百花楼に行って以来、カンベエの様子が僅かに変わったことに。
一見してみれば、カンベエの仕事振りは変わらず、舞い込んでくる雑務を迅速にこなしていた。
素晴らしい集中力で仕事をこなしていく姿は、以前と何ら変わりない。
だが仕事の合間に時折、カンベエは以前にはなかった姿を垣間見せていた。
それは例えば、筆を持ったまましばしの間ぼぉっとしていたり。
書類に目を通しているかと思えば、紙を捲るわけでもなくずっと同じ行を読んでいたり。
先程のように、窓から街を眺めては艶やかな溜め息を漏らしたり。
勿論それらは仕事の合間、ふとカンベエの集中力が途切れた一瞬の出来事。
故に仕事にはほとんど支障をきたしていなかった。
だが常に側に控えるシチロージは、カンベエの微少な変化が気になって仕方なかった。
「どうかしたか、シチロージ」
「いえ。どうかしたのはカンベエ様の方だと思いますが」
「わしが?」
何とも性質の悪いことに、カンベエは自身の行動の変化に気付いていなかった。
シチロージは頬杖に苦笑してカンベエを見やる。
「ここのところのカンベエ様は、何と申しますか・・・」
「なんだ、気味が悪い。はっきり申せ」
「では・・はっきり言わせていただきますがね」
シチロージは一度言葉を切り、頬杖を解いた。
小粋に首を傾け、カンベエを見上げる。
「まるで、誰かに懸想しているように見えますよ」
「・・・また何を申すかと思えば」
そう言ってカンベエは呆れたように溜め息を吐く。
カンベエは拾い上げた書類を紙束の上に戻し、椅子に座り直した。
「シチロージ。わしの年を忘れたか?よもやこの年でそのような戯れに興じるはずがあるまい」
「いやぁ、恋慕事に年など関係ないとあたしは思いますがねぇ」
「それはお主がまだ若い証拠よ」
自分はもう枯れている、とカンベエは自嘲気味に笑う。
枯れていると言う割には、随分色っぽい溜め息を吐くものだとは、シチロージは言わずに胸に閉まっておいた。
そこで会話は途切れた。
二人は再び仕事に戻る。
相変わらず二人には雑務処理が舞い込んできていたため、休む暇などほとんどないに等しい。
また疲れが溜まったら、百花楼に行きたいなどと考えながらシチロージは筆を動かしていた。
不意に、シチロージは視線を上げる。
カンベエもまたてきぱきと仕事をこなしていた。
だが、シチロージは気付く。
カンベエが一枚書類を終わらせる度に、その目をちらりと机の上に置かれた小さな包みに向けているのに。
昨日からカンベエの机の端にその存在を置く茶色の包みがあった。
中身を聞けば、カンベエは金平糖だという。
そんな可愛らしいものをカンベエが買ってきたことにシチロージは驚いたが、訳を聞けば、それは人に贈るものだという。
勘のいいシチロージはそれだけで八割方理解した。
そういえば先頃カンベエが相手した太夫の話の中に、そんなものが出ていた。
勝負に勝てば褥を共にし、負ければ金平糖を捧げる。
つまり、カンベエはあの太夫に将棋で負けたのだろう。
そのことにもシチロージは驚いたが、それ以上に意外だったのはカンベエがまた百花楼を訪れる気でいるということだった。
あれほど遊郭に行くことに乗り気ではなかったのに。
一体、どういう変化か。
カンベエはまた一枚書類を終わらせ、ちらりと包みに目を向けた。
そんな無意識の些細な行動―――癖とも呼べるものですら規則的にこなすカンベエ。
なんと律儀なこと、とシチロージは噴き出しそうになるのを堪えて顔を伏せる。
いきなり顔を伏せて肩を揺らす部下に、カンベエは怪訝な顔をする。
「シチロージ?何を笑っておる。手が止まっているぞ」
「・・・誰のせいですか、誰の」
笑いたいのを抑えてシチロージは苦笑する。
一人楽しげなシチロージに、カンベエは口をへの字に曲げて「訳がわからぬ」と零すのだった。
穏やかな風が吹いている。
春風に、の秘色の髪がふわりと揺れた。
百花楼の二階。
廊下の手すりに頭をもたれさせ、は遠くを眺めていた。
ここから遥か遠くに位置する、巨大な船を見ていた。
いつだったか、の相手をした軍人にあれは何かと問うたとき、男は「あれは御庭番戦艦(おにわばんせんかん)だ」と言った。
戦において天守閣戦艦を守る小型戦艦。
普段はああして街に足を降ろし、軍の拠点となるのだと言っていた。
は、その大きな船を眺めていた。
あの船のどこかに、焦琥珀色の軍師がいる。
は目を閉じ、先頃相手をした軍師のことを思い出していた。
はカンベエとの勝負に勝った。
それは圧倒的な勝利だった。
だが勝負しながら、は悟った。
この軍師は強い、と。
今まで相手してきた男たちとは格が違う、カンベエは群を抜いている、と。
だからは本気で勝負した。
普段は出さない力の半分以上を出して勝負に挑んだ。
その結果があれだ。
それともう一つ、が感じたこと。
「楽しかったな・・・」
小さな口をゆっくりと動かしては呟く。
その囁き声を耳にする者はいなかった。
楽しかった、とはそう感じていた。
客と勝負をしていてそう感じたのは、カンベエが初めてだった。
負けを許されない状況で将棋を楽しめるわけがなく、はずっと笑顔の裏で気を張り詰めて勝負事をしていた。
客の男の中には、勝負の合間に軽い戯れを求めてくる者もあって、気を抜くことなどできなかった。
それがカンベエと対峙したとき。
習慣的に張り詰めている神経が、ぱんっと音を立てて消えていくのがわかった。
カンベエの前で、何も纏わない自然な己でいられる自分がいた。
将棋も、談笑も、カンベエと関わった時間の全てが楽しかった。
カンベエは落ち着いた大人の男で、誇り高い侍だった。
一人の人間として、しかりと存在していた。
カンベエの纏う空気が、心地よいとは思った。
カンベエとシチロージを玄関で見送った後、は感じたことのない虚無感に襲われた。
心のどこか一つが、欠けてしまったような感覚。
二人を見送って、ほぉと溜め息をついたに、楼主は告げたのだ。
「なんだい、。意味ありげな溜め息ついて」
「え?」
楼主の言葉の意味がわからず、は目を丸くした。
そんなを、楼主は幼い子供に向けるような穏やかな目で見つめた。
「いや、だがしかしわかるよ。男の目から見ても、素敵なお侍様だったからね」
「島田様・・ですか?」
の問いに、楼主は「他に誰がいるんだい」と答える。
楼主はカンベエと二、三言葉を交わした程度だったが、それでも人と接する商売柄か、人を見る目は利いている。
カンベエがを救ってくれたこともあり、楼主はカンベエが気に入ったようだ。
「お前が心を寄せるだけのことはある」
「え・・?」
不意の楼主の言葉に、は今度こそ目をきょとんとさせた。
京紫の綺麗な目が、楼主を怪訝そうに見つめる。
の様子に、楼主は「おや?」と首をかしげた。
「なんだ、違うのかい?」
「あの・・旦那様?」
「私は、お前たちの好いた惚れたまではとめないよ」
そう言われてはようやく楼主の意を理解した。
途端、は苦笑を浮かべる。
「ご冗談はお止め下さい。島田様とお会いするのは、今日が二度目・・・いえ、ほとんど初対面なんですよ?」
「時間なんて関係ないものさ。あの方も、まんざらではなさそうだったしね」
「まさか。島田様は私のような子供など相手になどされません」
「それはお前が決めることじゃぁないだろう?」
楼主はそう言って、何だか意地悪げに笑った。
はそれ以上言う言葉もなく、「さて、と」と仕事に戻っていく楼主の背を見送った。
は一人、玄関に立ち尽くし。
ふいと、カンベエを見送った暖簾(のれん)に目を向けた。
穏やかな風が、百花楼の紅い暖簾をはたはたと揺らしていた。
「まさか、ねぇ」
「まさか、ねぇ」
あの時と同じ台詞を漏らし、は再び遠くの船を眺める。
あの船は、鋼牙渓で一番高い建物だ。
あそこからなら、鋼牙渓が一望できるはず。
あの船のどこかから、彼はここを見ているのだろうか。
そんなことをふと考えている自分に気付き、は自嘲気味に笑う。
後ろを通る禿(かむろ)や下働きの者たちが、そんなを不思議そうに見て過ぎていく。
「楽しかっただけだよ・・・そんなこと、あるわけない」
欄干(らんかん)に頭を乗せ、は一人呟く。
穏やかな風が、の髪を揺すって去っていった。
男は、窓から街を眺めて溜め息をつく。
少女は、欄干から船を眺めて吐息を漏らす。
懸想などしていない。
そんなことあるはずがない。
そう言って遠くを眺めて溜め息を漏らせば。
それの心は、もう手遅れだと誰かが言っていたよ。
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<補足>
■御庭番戦艦(おにわばんせんかん)■
城の警護を司る戦艦。天守閣戦艦に比べたら、かなり小さい
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