ドリーム小説
何よりも怖いのは、迷い彷徨う己の心だった。
カンベエの足枷にはなりたくない。
だから彼に別れを告げようとは決意した。
だが頭ではわかっていても、心が迷い反発するから身体が動いてくれない。
「花魁。島田様がおいでにありんす」
小さな禿(かむろ)がカンベエの訪問を告げに部屋までやってくる。
は障子を閉めたまま、静かに一言一言絞り出すように返事を返す。
「今日は具合が良くないから、・・・・一日伏せっているとお伝えして頂戴」
「あーいー」
すぐにばれてしまうような陳腐な嘘しかつけない自分を愚かに思う。
禿は軽く返事をしての伝言をカンベエに伝えに行った。
ぱたぱたと軽い足音が階段を降りていくのが聞こえる。
は文机と向き合ったまま動かなかった。
本当は細く障子を開けて、帰っていくカンベエの後ろ姿だけでも見送りたい。
けれどカンベエはきっと自分の視線に気付き、こちらを振り返る。
目など合ったら、きっと彼は嘘だと見破りここへやってくる。
だから、は彼の影が色街の大門をくぐり終えるまで部屋に引き籠もるしかなかった。
「花魁。島田様が帰りんしたよ」
「・・・うん」
起きあがれるようなったイブキが、そっと障子の外からに声をかける。
事情を知るイブキの声は、心底を心配していた。
「花魁」
「なぁに?」
「・・・泣かないでくれなんし」
「泣いてないよ・・・。大丈夫」
障子越しにイブキの影がぺこりと頭を下げて去っていった。
はそれを見て、くすりと薄く微笑む。
の双眸に涙はなかった。
つらくて、哀しくて、切なくて、愛しくて。
涙を流すための想いはたくさんありはしたが、だがそれ以上に今のを強くいさせる想いが別にあった。
それは、覚悟。
「しっかりしなきゃ・・・」
彼と相対するときに強い覚悟がなければ、きっとすぐに泣いてしまうから。
迷う心のまま彼と会えば、きっと彼への愛しさと傍にいたいという甘えに負けてしまうから。
だから、はその覚悟を固めるために、こうして故意にカンベエと会わないようにしていた。
だが、こんなことは長くは続かない。
早く彼に別れを告げねば、彼を更なる深みへと引きずり込んでしまう。
それでも、今のに足りぬのはあと一押し、彼女の背を押す一押しだった。
ただ一つの決心を胸に秘め、は両目を閉じて深く息を吸い込んだ。
がいる部屋の障子に影が差す。
腕組みをして欄干にもたれる一人の男。
後ろで結った細い髪が風に揺れている。
一部始終を眺めていた男は、聡い頭で事の大体を把握してしまった。
男は蛇のような妖しい笑みを口元に浮かべる。
「随分と面白くなってきたものだ」
くくっと喉を鳴らして男は笑う。
人が苦しむ姿は蜜のように甘く、男の残忍さを高めていく。
―弐拾壱―
「手を貸そうか、花魁」
それは何度目かのカンベエの訪問を断った後のことだった。
突然声をかけられ、は廊下の途中、驚き後ろを振り返った。
ともにいたイブキも同じように後ろを振り返り、そしてその者の姿を見て分かりやすいくらい眉を寄せた。
「シュウサイ様・・・」
「おぉ。よく俺の名を覚えていたものだな」
シュウサイはに近づき、彼女の耳元にまで口を近づけた。
怖くて逃げだそうにも、の身体は動かない。
「やはり初めての接吻の相手は忘れられぬものか」
「ご、・・ご冗談はお止めを・・っ」
は身を竦ませ、ようやく彼から逃げ出した。
にやにやと笑うシュウサイからは顔を背け、イブキが代わりに怒りの眼差しをぶつけた。
「旦那様。花魁は、ここ百花楼の看板にござりんす。お手を出すは、」
「これ、そう怒るな。今日はな、良い案を持ちかけてやろうと思ってな」
「イブキちゃん。大丈夫だから。・・・良い案、とは何のことでございますか」
は十二分に警戒しながらシュウサイに問いかけた。
シュウサイは、にやりと蛇のように笑みを深める。
「困っているのであろう。あの侍とのことで」
「何のことで」
「あの褐色肌の侍。あやつに、別れを告げたいのであろう」
の双眸が驚きに見開かれる。
一体どこで聞いていたというのか。
改めて目の前の男を空恐ろしく感じた。
何も言えないでいるを、シュウサイは可笑しそうに眺めた。
「シュウサイ様、・・・一体どこでそのことを」
「なに、単なる地獄耳よ。それよりもだ。ただ一言、『はい、さようなら。もうここへは来ないでくれなんし』と言えばよいだけのことであろうに、何を難儀しておる」
「容易くお言いにならないくださいませ。そのように容易に、・・・」
「簡単には別れられぬ仲になってしまったか。お前ら、身体を繋げた仲か」
「・・・何を、突然・・・っ」
「違うたか。肌も重ねておらんのに、よくぞそこまでの深い繋がりができるの」
「・・・・」
「まぁ、確かに体よりも心の繋がりの方が断ち切るのは厄介だがな」
二人の何を知っているというのか。
シュウサイのいけしゃぁしゃぁとした言い方には腹の底が沸々と煮えたぎるのを感じた。
と同時に、火が出そうなくらい恥ずかしいという思いもあった。
一つも言い返すことができず、―――いや言い返していたとしてもきっと勝ち目はないが、は大人しく眉をひそめて耐えていた。
「手を貸してやろうか」
「手を、・・?」
「あぁ。奴と決別できればよいのであろう」
「・・・何か妙案があると」
「簡単だ。あの手の男に諦めさせるには、お主が別の男に乗り換えたと告げるだけでよい」
シュウサイは欄干に背中を預け、楼の階下をちらりと見下ろした。
がやがやと賑わう客の中にいくつかの軍服を見つけ、にやりとほくそ笑んだ。
「そんなことで、・・・あの方と決別できると」
「別に男ができたと告げて、その仲を裂こうなどと野暮なことはすまい、あの男は」
「・・・・」
「俺とお前が肩寄せ合う姿を見せつけてやればよい。ただそれだけのことよ」
シュウサイは再びに横目を投げて寄越した。
は怪しく思いながらも、だがシュウサイの言葉を流す素振りは見せなかった。
傍で聞いていたイブキがの袖を引く。
「花魁、そんな話に乗る必要ないでありんすよ!」
「ほぉ。可愛げのない引っ込み女郎だな。ま、俺は厚意で言ってやっているだけよ。この話に乗るか否かは、花魁お前が決めればよい」
シュウサイは欄干から体を起こし、ゆったりとした余裕のある動きでたちに背を向けた。
シュウサイはゆっくりゆっくりとした足取りで二人から離れていく。
それはそう、が自分を引き留めることをわかっているかのように。
そして、
「・・・・・・お待ちくださいませ」
「花魁・・!」
あっさりと罠にかかった獲物に、シュウサイはゆらりと振り向いて笑みを向ける。
食べ応えのある甘い肉を前に、毒蛇は頬が裂けるほどにんまりと笑ってみせた。
何度百花楼に足を運ぼうと、に会えぬ日々が続いていた。
いつ行っても―――とは言え、軍務に忙しく頻繁に行けるわけではないが、は体を壊しているか、外に出ていて楼にいないかで会うことが叶わなかった。
だが、あるときふと感じた。
「花魁は今おりんせん」と禿(かむろ)が告げに来て、楼に背を向けようとして、―――彼女の気配を感じたのだ。
カンベエの見えないところにいるだけで、は楼内にいる。
だが、カンベエに会ってくれようとはしない。
その理由もわからず、聞きたくとも本人に会わせてもくれず。
無理矢理押し入って彼女を捜すのも野暮で低俗で、カンベエはいつも諦めて背を向けるしかなかった。
話したいことがたくさんあった。
先日の奇襲で、鋼牙渓を守りきれなかったこと。
傷ついた人々の中に百花楼の者もいると後で報告を受けて、早くに会いに行きたいと思った。
軍内で己の存在が疎ましがられており、艦内に留まるのが窮屈でもあった。
おかしな白昼夢を見ることも増え、己の精神力に自信を持てなくもなっていた。
彼女に会えば、彼女の笑顔を見れば、煤けた己の心も癒されると思った。
自分は、あの秘色の若い遊女に甘えている。
自覚はあったが、それを抑えようとする自我は無惨なほど衰弱していた。
カンベエは百花楼から少し離れた店の前に立ち止まり、百花楼の二階の障子に目を向けた。
あの障子がすっと開いて、秘色(ひそく)の長い髪の女が笑顔で手を振る幻想を見る。
会いたい、と願った。
「お武家様。お暇でありんすか。うちに寄っていっておくれなんし」
立ち止まったそこは別の遊郭の店先で、麗しい遊女がカンベエの手を引く。
だがカンベエはその手をやんわりとどけた。
遊女は、ちぇっと残念そうにしてまた別の男に声をかける。
カンベエの周りに今し方の女の香水がまとわりついていた。
良い香りだと思う。
だが、カンベエが求める香りではない。
(殿・・・)
カンベエは再び百花楼の二階に目を向けた。
何の変わりもない。
彼が想う遊女が顔を出す気配はない。
カンベエは肩で息をつき、楼に背を向けて大門をくぐり抜けた。
その三日後だった。
南軍の戦艦のカンベエの執務室に、一通の文が届いたのは。
「送り主は」
「鋼牙渓は百花楼、という者からにございます」
飛脚はカンベエに文を渡すと、忙しそうに執務室を後にしていった。
カンベエは渡された手紙を裏返し、送り主を確認する。
確かにの筆跡で、彼女の名が書かれていた。
カンベエはにわかには信じられず、しばらく文の表裏を眺めた。
だが疑ってかかっても仕方がないと、カンベエは封を切って中の文を広げて目を通した。
書いてあったのは、逢瀬の約束。
美しい文字の一つ一つに目を通すと、カンベエはゆっくりと文を畳んで執務机の隅に置いた。
「お久しゅう御座います、・・・島田様」
暗い夜の闇を照らす、明るい光に迎えられ、カンベエは一歩楼内に足を踏みいれる。
玄関先、朱塗りの階段の下で待っていたのは、秘色の遊女だった。
「久しいな、殿」
無骨な軍人とは思えぬくらい穏やかな笑みをに向ける。
懐かしい。
まるで何年も離れていたかのようだった。
と視線を合わせ、カンベエはふっと力を緩ませて微笑む。
それだけでの心は揺れ、―――――哀しみに軋みをあげた。
彼の笑顔を見るのは、これが最後となるかもしれない。
そう思うだけで涙がこぼれそうになった。
それなのに、彼は、
「会いたかった」
短くそう告げて、彼女の頬に手を伸ばす。
褐色の親指がするりと頬をなぞり、秘色の髪を揺らしていった。
熱い眼差しに、己の全てを飲み込まれそうになる。
なぜ、こんなにも優しく触れるのだろう。
己の全てを委ねてしまいそうになる。
決心が揺らぐ。
それに必死に耐え、は無理矢理笑って彼を導いた。
最後の逢瀬を、残酷なものへと変える部屋へと。
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