ドリーム小説
「密偵・・・、ですかい?」
軍議で問題にあげられたことを、カンベエは執務室でシチロージにも伝えた。
黒革のソファーに腰掛けて仕込み槍の手入れをしていたシチロージは、眉をひそめて何かを考えるように口元に指を運んだ。
「そりゃまた物騒な。相手は西の奴らで?」
「いや。どうやら、北の者らしい」
「んげ。北でげすか・・・」
シチロージはあからさまに嫌な顔をしてみせる。
「北」と聞いて、いい顔をする軍人は滅多にいない。
それぐらい北軍の悪名は世に轟いていた。
『冷酷、残忍、非情』
幼子、老人、女であろうと容赦なくなぶり殺し、時には仲間でさえも戦いの邪魔になろうものなら刃を向ける人間たち。
北には、より強い戦士の遺伝子を残すために、一族と一族の間で殺し合いをさせる風習さえあるという。
凍てついた氷の国で育った彼らの心は冷たく、溶けることがないとすら言われている。
そして、殺人に取り憑かれた北の人間の精神状態は異常なもので、たとえ捕虜として捕らえて拷問しようともそれすら効かないという。
「狂っている・・・」と、むしろ拷問にかけた者の方が表情を引きつらせて言う。
「北ねぇ・・・。なんだってこんな時期に、こんなところに」
「真意はわからぬ。だが、城下で多数の目撃情報が出ておるそうだ」
「はぁ・・、面倒くせぇ。で、敵の数は」
「一人だ」
「はぁ?ひとり?!」
シチロージは右眉を下げ、左眉を上げ、珍妙な表情をカンベエに向けた。
訳が分からない。
密偵とはいえ、通常は少数部隊で隠密に動き回るもの。
この南軍の艦(ふね)がドカンと腰を据えるこの街に、鼠がたった一人でうろちょろと、一体何をしているというのか。
「密偵ではなく、迷子の間違いでは・・?」
「はは、迷子か。そうであれば、我等も楽なのだがな」
「迷子センターに一報入れときやしょうかね」
「そうだな。して、迷い子を捕まえた後は、お主どうするつもりだ。懇切丁寧に、北の家に送り届けてやるつもりか」
カンベエは肩を揺らして笑いながら、机上の書類に目を通していく。
シチロージはソファーに腰掛けたまま、視線をカンベエから手元の仕込み槍へと移した。
軽く振ると、先端から鋭い仕込み刃が飛び出す仕組みだ。
部屋の灯りにぎらぎらと輝く銀の刃を眺め、シチロージは不敵に笑む。
「えぇ、送り届けましょ。優しい優しいシチさんが、ね」
細身の刃が鏡の役目を果たし、己の顔が映り込んだ。
戦いに飢える者の眼。
刃は、血を吸いたいと乞うていた。
「ただし、腕一本か、足一本か。何にしろ、五体満足でのご帰還は諦めていただきやすがね」
シチロージは、唇を左右に引いて強気に笑う。
それは戦いを望む者の笑みだった。
「頼もしいな」
カンベエはシチロージに向けていた視線を書類へと戻す。
血気盛んな副官は、面白い獲物を見つけて、いつ狩りに出られるかとうずうずしていた。
カンベエは苦笑し、小さく息を吐いて書類に判を押した。
敵が強ければ強いほど、侍としての血が騒ぐ。
強敵は、己の腕をもって殲滅する。
それが、軍人として侍としてあるべき姿。
シチロージの不敵な笑みは、正しかった。
今この場に相応しくなきは、カンベエの戦意のない緩い笑み。
『常在戦場であるべき心は、今のわしの中にはない』
シチロージは思い出していた。
半月の夜の、カンベエの言葉を反芻する。
書類に目を通し判を押すカンベエの横顔を、気付かれないようにそっと見守る。
『お主の目から見て、わしがもういよいよ駄目だと思ったら、』
そんなこと、あってほしくないと願いながら。
カンベエの纏う空気が日に日に穏やかさを増していくことに、気付かぬ振りをすることなどできず。
シチロージはカンベエから目をそらし、刃に映る己の不満げな顔からも目を背け。
何が正しいのか、自分に何ができるかのか、答えが見つからぬまま、若き副官は憤りのやり場もなく、今は苛つく心を戦意に変えるしかなかった。
―拾捌―
その姿を視界に入れた瞬間、身体が凍り付いて一歩も動けなくなった。
「久しいな。花魁」
朱塗りの階段の下からじぃっとを見上げ、にぃっと蛇のように笑う男がいた。
―――次は手を抜かんぞ。よぉく身体を清めておくんだな
忘れかけていた恐怖が、の中に戻ってくる。
それは、敗北のような勝利だった。
相手は、手を抜かれて勝利した客、名はシュウサイ。
自ら手を抜いて敗北したくせに、ぬけぬけとの唇を奪っていった、狡猾な男。
忘れない。
忘れるわけがない。
は欄干に手をつき、明るいとは言い難い表情でシュウサイを見下ろした。
曲がりなりにも客ではあるから、目をそらすのも失礼で、は男の視線にじっと耐えた。
だが、の怯える気持ちなど全てお見通しで、シュウサイは口元の笑みをより禍々しくさせる。
そして、にたりと笑い、
「シグレはいるか」
シュウサイはではなく、天神であるシグレを指名した。
また自分が指名され、今度こそ全力で相手されるのではと恐怖に怯えていたは、安堵しどっと汗を噴き出させる。
その間にも、シュウサイはとんとんと軽い足取りで階段を昇ってきた。
徐々に、彼との距離が縮まっていく。
「あの・・・」
「そんなに怯えるな」
「・・・・」
「お前の相手は、いずれじっくりとな」
にぃ、と男は赤く細い舌をちらつかせて笑う。
はいよいよ堪らず、シュウサイから顔を背けた。
自分を畏れるの様子をおもしろがって見ていれば、奥座敷からシグレが姿を現した。
「おや、旦那。随分とご無沙汰でありんしたな」
「シグレ。久々の再会に、またお前も随分と刺々しいな」
シグレは妖しく小首を傾げ、客であるシュウサイを巧みに皮肉る。
シグレの冷たい応対が気に入っているシュウサイは、慣れた手つきでシグレの腰を抱く。
男に抱き寄せられ、シグレは口元を甘く緩ませ、そして階段の欄干に手をつくに斜に視線を投げた。
余裕の笑みを向けられ、はふっと顔を背ける。
「旦那。今日のこの日まで、一体どちらにおわしんした。あれきり全く姿をお見かけしませんで、終ぞ、どこぞの戦地で息絶えたのかと」
「笑えん冗談だな。残念ながら、俺はこの通り五体満足で生きていたよ」
シュウサイはシグレの腰に手を回し、ぴたりと身体を寄せ合って部屋へと足を進める。
二人がの横を通る瞬間、はあからさまに視線をそらし、シグレは誇りと自信に満ちた表情で真っ直ぐに前だけを見つめ。
そして、シュウサイは細い眼で太夫の少女の苦渋に満ちた表情を捕らえていた。
二人がすれ違っていき、はほっと肩で息をついた。
だが、安住はそう易々とは訪れはしなかった。
すれ違った瞬間、シュウサイはほぉと関心を寄せられたように笑みを濃くした。
「しばらく見んうちに。花魁、随分と雰囲気が変わったものだな」
「え・・・、」
背後から声をかけられ、の両肩がびくりと震える。
そして反射的に後ろを振り返ってしまった。
意識してそらしていたシュウサイの目と、真正面からかち合ってしまった。
身体が、萎縮する。
まるで金縛りにあったかのように動かなくなる。
「面白い。といったな、確か」
「・・・あ、・・はい。あの、」
「終ぞ、誰かに抱かれでもしたか。それとも、どこぞの男に懸想でもしているのか」
「え・・、」
「やけに、女の匂いがするな。花魁」
シュウサイは鼻で笑い、興味深げにに語りかける。
横にいるシグレばかりが面白くなさそうな顔で二人のやり取りを聞いていた。
シュウサイの言葉は、穢れを知らないにとっては恥辱にも似たものだった。
抱かれたのかだの、女の匂いがするだの。
どうのこうのと言われ、周りにいる客たちも反応しての方をちらちらと見て通っていくのが堪らなく恥ずかしい。
そんなの気持ちを知ってか知らずか、・・・いやきっと分かっていてだろう。
シュウサイの饒舌が止まることはなかった。
「幼い花魁も、ついに女の芽が開花し始めたか。しかしその幼さに反して、随分ときつい香りを放つな」
「あの、・・・からかいはお止めください、お武家様」
は、男は恐れながらも控えめに言葉を返した。
早くこの場から離れたい。
どこかへ行ってしまいたい。
無礼を承知で退散しようか、そう考えていたの足は。
だが、次にシュウサイが放った言葉に、その場に凍りつくこととなった。
「これは意外であったな。花はやはり開いてみねばわからぬもの。清廉潔白の大人しい見た目に反して、男を虜にして駄目にする、典型的な毒婦の気質があったか。これはこれは、お見それしたぞ、花魁」
「え・・・、」
何を言われたのか、はじめはよく理解できなかった。
決して褒められているわけではない、ということはわかった。
シュウサイが、面白いものを見る目でを見つめていた。
シュウサイの精神は、決して正常とは言えない。
彼の関心を引いているということは、自分が正常とはかけ離れているということ。
「毒気が強いな。それも上物の、甘い毒だ。じわじわと染みこんで、ゆっくりと駄目にしていく」
「駄目に・・・?それは、・・一体どういうことで御座いますか」
良い言われようではなかった。
流石のも、後ろで拳を握り、勇気を振り絞り問いかける。
シュウサイは、彼女のそんな姿すら面白くて仕方がなかった。
―――聡い花魁。
シュウサイは、慇懃にをそう呼んで、にぃと笑った。
「生真面目な武人であればあるほど、お前のような聡い女に溺れ、腑抜けていくのだろうよ」
―――そんな男が身近にいないか。
そう、シュウサイは笑って問いかけた。
は羞恥を超え、衝撃を受ける。
何故だろう。
どこかで見ていたのだろうか。
シュウサイが言っていることのほとんどがあたっている。
『お前のような女に溺れ、腑抜けていく』
は欄干の上にのせた手をぎゅっと握りしめると、唇を引き結んで顔を上げた。
遠ざかっていくシグレとシュウサイの背中に、震えそうな声を抑えて毅然と問いかけた。
「もしも、・・・もしも貴方様が仰られたようなことが、・・・。斯様なことがあったときには、私はどうすればよいのですか」
まさかのの問いかけに、二人は振り返る。
シグレは、まさか大人しいが返答するなど思ってもみず、あからさまに嫌な顔をした。
「。お客様に失礼にいぃす。それ以上の無駄なお喋りはわっちが、」
「構わんさ」
静かに憤るシグレを、隣の男がゆるりと抑えた。
「旦那、」
「可哀想に。花魁は迷うておるではないか」
「ふん・・・。は、単に女郎としての経験が浅いだけでいぃす」
「可愛い妹女郎に、人生の歩み方を教えてやるのも、姉女郎の務めだろう」
にぃっと笑うシュウサイに、シグレは客でありながらも彼に横睨みを利かせる。
シュウサイはそれを流し、それから遠くのに、彼女が求める答えを投げて寄越した。
「なぁ、花魁よ」
「・・・はい、」
「お前が、誠に生粋の誇り高き花魁であるならば、だ。刀なぞ持てなくなるくらい骨の髄まで男を腑抜けにさせてやるのが、最大にして最高の名誉じゃぁないのか」
「それは、・・・・つまり、」
の喉をごくりと生唾が堕ちる。
白く細い首筋を、緊張の汗が流れ落ちていった。
「お侍様から、・・・刀を奪えと申すのですか」
は真剣な眼差しをシュウサイに向ける。
だがシュウサイは、はっきりとした答えはくれない。
飄々と首を揺らして答えを曖昧にする。
「そんなこと、私には如何なことがあろうともできませぬ」
「そうか。ならば、残された道はもう一つしかないな」
「え・・・、」
シュウサイのその言葉は、追いつめられたにとって一種の救いのように聞こえた。
苦しみから抜け出す、もう一つの道。
そして、想い慕う彼を救う、もう一つの道。
だが、救いだと思えたのは束の間の夢の出来事で、現実は無情にもを更なる迷いの森へと導く。
シュウサイの唇が滑らかに動き、迷えるにもう一つの道を差し出す。
「早々に想いを断ち切り、その相手を捨て去ることだ」
もう一つの、救いの道。
「お前の香りに、毒気に晒されなければいいだけのこと。最も手っ取り早いのは、お前が自ら離れてやることだ」
そうだろう、と男は笑う。
もう一つの救いの道。
そこに元から光などあるはずがなく、光を期待した自分が愚かだったとは知る。
「何を気にしている」
「・・・・・」
「太夫のお前にとって、斯様な男など浜辺の砂の中のほんの一粒に過ぎまい」
すぐに替えなど見つかろう。
シュウサイは両目を細め、唇を左右に引き、実に面白げに笑って行ってしまった。
腰を抱かれたシグレが一度だけちらりと後ろを振り返った。
の方を見て、彼女もまたにやりと蛇のように笑っていた。
は欄干に手をつき、呆然と立ちつくす。
だが、徐々に足から力が抜け、ずるずるとその場に座り込んでしまった。
シュウサイの言葉が、頭の中を渦になって駆けめぐる。
『早々に想いを断ち切り、
その相手を捨て去ることだ』
―――誰への想いを?
は自問自答する。
だが、答えなどはじめから一つしかなく。
京紫の瞳は、苦しげに揺らぎ、朱い階段の先をじっと見つめた。
―――この想いを捨て去れば、・・・あの人は救われるの?
答えをくれる者は誰もいない。
胸が苦しくて、苦しくて。
着物の胸元を掻き抱き、零れそうな涙をこらえ、朱い柱に秘色の髪を押し当てた。
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