ドリーム小説
呪縛のように取り憑いて離れない
『島田を腑抜けにさせた女』
闇色の幻影がしつこく身体にまとわりついて私を苦しめる
―拾漆―
「ぷは・・っ」
湯船に沈めていた顔を上げ、は大きく息を吸った。
長い髪の先からぽたぽたと水滴が落ち、水面に波紋を作るのをじっと見つめた。
「・・・とれるわけ、ないか」
ぽつりと呟く。
どんなに深く潜っても、身体にまとわりついた幻影が消え去るわけはなかった。
あれ以来、あの軍人の男がに投げた言葉が彼女の身体にまとわりついて離れなかった。
目には見えないけれど、ねっとりとしていて息がつまりそうでたまらない。
は犬のようにふるふると頭を振って飛沫を払うと、ざばりと湯船を出た。
手ぬぐいで身体を拭き、脱衣所へと向かう。
沈痛な面持ちでいると、浴場と脱衣所の入り口でシグレとばったり出くわしてしまった。
先に気付いたのはで、シグレが後から目を合わせてきた。
「シグレ様・・、」
は眼を合わせはしたものの、気まずげな気持ちでいた。
シグレは、まるで値踏みするようにを上から下まで見て、冷たくにやりと笑った。
「おや、。もう上がりでいぃすか」
「・・はい、」
「ふん。若々しい肉体で、ほんに羨ましいこと」
「・・・・」
「殿方に触れられるようにもなりんして、もう怖いもの無し。太夫の座は、安泰にありんすなぁ」
冷たい横目でを睨み付け、シグレは彼女と入れ違いに浴場へと入っていった。
は後ろを振り返ることなどできず、表情を曇らせて重い足取りで着替えに向かった。
あぁ、心が重たくてしょうがない
あぁ、心が重たくてしょうがない
それもこれも、全ては己の上官島田カンベエのせいだとシチロージは思った。
窓の外は夜の闇。
暗い空には、下弦よりも少しふくよかになった月が浮かんでいる。
城下では、花街を彩る色とりどりの灯りが美しく輝いていた。
それなのに、シチロージの心はひどく重たくてならなかった。
それもこれも、カンベエがつい先日の夜にぽつりと零した言葉が頭から離れないせいだ。
『わしは、確かに・・・・・ゆっくりと狂い衰えていっておるよ』
目を瞑れば、記憶があの夜まで遡る。
カンベエの横顔は、自嘲気味に笑っていた。
何を馬鹿なことを、とシチロージが笑って場の雰囲気をかき消そうと口を開いたとき。
「なぁ、シチロージよ」
カンベエは月を見上げたまま、シチロージへと静かに告げたのだ。
「お主の目から見て、わしがもういよいよ駄目だと思ったら、」
駄目だと?
誰が駄目になると言うのか。
シチロージは、カンベエの口から零れる言葉の一つ一つを否定したかった。
だが口を挟むことに耐え、最後の一つまで上官の言葉を耳に入れた。
もういよいよ島田カンベエが駄目だと思ったら、
「迷うことなく、思いきり、わしを殴れ」
頬骨が砕けるぐらい。
もう二度と立てなくなるくらい。
思いきり殴れと、上官は言う。
シチロージは表情を歪め、カンベエの横顔を納得がいかない顔で見つめた。
「はっ・・・。何を、・・・突然何をお言いで、カンベエ様。そんな馬鹿げた約束、聞けるわけがない、」
「頼んだぞ、シチ」
「何を勝手に・・・。お止めください、カンベエ様ともあろう御方が。あたしは承知いたしませんからね」
「お主にしかできぬから言うておるのだ。任せたぞ、シチ」
「嫌ですって、カンベエ様。あたしは、・・・絶対に守りゃしませんからねっ」
シチロージは頑として拒絶する。
だがカンベエはそれ以上何も言わず、薄い笑みをシチロージに向けただけだった。
任せた、と勝手な約束を押しつけて。
シチロージは納得できず、舌打ちしたいのを我慢して歯を軋ませた。
「カンベエ様、あなたらしくないじゃぁありませんか。何が駄目なんですかい。あなたの何が衰えているんで。そんなことをおっしゃるなんて、・・・一体どうしちまったんで」
シチロージは訳が分からず、自分の頭をぐしゃぐしゃと掻き乱した。
上官の突飛な物言いに、何か漠然とした不安を感じる。
月を見上げるカンベエの姿が、ひどく朧気に見えた。
武士としての強さも、侍としての気高さも、ひどく弱々しく見えた。
今まで、そんなことありはしなかったのに。
カンベエはきびすを返して絶壁に背を向けると、勝手気ままにゆっくりと歩き始めた。
シチロージも後を追いかける。
「カンベエ様、」
「会わなければよかったのだろうか」
「え、」
「なぁ、シチロージよ。お主から見て、わしは以前と違う人間か」
突然の問いかけに、シチロージは思考を停止しかける。
カンベエの問いかけの意味が、いまいち掴めなかった。
「あー・・・、そのぉ、問いの意味がわかりかねやすが。カンベエ様が、以前と比べて?」
「あぁ。わしは、変わったか」
変わったかと問われても、・・・。
シチロージは言葉に詰まり、再び頭を掻いた。
容貌に変化はなく、刀の太刀筋も変わりない・・・と思う。
カンベエは何が変わったと感じているのだろうか。
むしろ、シチロージの方がカンベエの真意を聞きたいぐらいだった。
そのことを告げれば、前を行くカンベエは後ろを振り返ることなく応えてくれた。
「邪念が、常につきまとっておるのだ。常在戦場であるべき心は、今のわしの中にはない」
思ってもみなかった答えに、シチロージは目を丸くする。
「読みも、太刀筋すらも甘くなったように感じておる。常に張りつめておかねばならぬ戦意が、緩んでいることが多い」
己は戦場に立つ者として相応しくない、とカンベエは己を叱咤する。
人に厳しく、そして己に厳しい。
カンベエは何も変わりないようにシチロージには見えた。
「そうお考えになる原因は、」とたずね、シチロージははっと何かを察し、口をつぐんだ。
先程カンベエがぽつりと漏らした言葉が不意に思い出されたからだ。
『会わなければよかったのだろうか』
誰に。
その相手を、シチロージは推して知る。
シチロージの表情が、少しだけ哀しみを帯びて細められる。
「カンベエ様」
「なんだ」
「まさか、後悔なさっておいでで」
「何をだ」
「何をって、先程あなた様がおっしゃったことですよ」
カンベエの足が、甲板の入り口前で止まる。
ドアノブに手をかけ、重い鉄の扉がぎぃぃと悲鳴をあげながら開いていった。
「あの子に、・・ちゃんに出会ったことを後悔なさっているので?」
夜の闇に慣れていた眼が、扉から差し込む煌々とした灯りに眩む。
シチロージは眼を細め、光に目を慣れさせようとする。
一瞬の眩しい光の中で、だがシチロージは確かに見た。
カンベエが一度だけ後ろを振り返って彼に見せた、その悲しげな笑みを。
シチロージの問いかけには答えず、その曖昧な笑みで誤魔化したカンベエの姿を。
シチロージはゆっくりと目を開く。
窓の外には、ちかちかと花街の灯りが光り輝いていた。
灯りの数だけ、人々が生きている。
それらを守るのも、我等軍人の勤め。
そしてあの光の渦のどこかに、百花楼の灯りが存在する。
あの娘が生きる、命の灯火。
今宵、カンベエはあの娘に再び会いに行った。
出会わなければよかったのかと葛藤しながら、カンベエの心はあの遊女に引き寄せられている。
「いよいよ駄目だと思ったら、・・・か」
島田カンベエが、軍人として、侍として、堕ちる日が来る前に。
それを留めるのが、副官の自分の役目。
シチロージは己の右手をきつく握りしめた。
島田カンベエを救うために、この手はある。
この戦乱の世はカンベエを、・・・『侍としてのカンベエ』を必要としている。
カンベエを救うためなら、何でもできる。
カンベエを殴り飛ばし、それで彼が侍としての志を取り戻すのであれば。
(血で染まるぐらい、・・・今更なんてこたぁないやな)
シチロージは、握りしめた拳をゆっくりと開く。
この手に託された、カンベエの無茶な命令。
そしてもう一つ、シチロージの中には彼が彼なりに考え抜いた答えがあった。
カンベエを侍として救う、もう一つの手立て。
それは、カンベエを狂わせる元凶を絶つこと。
(できることなら、・・・・)
考えたくはない。
それは、関わる者は誰も幸せになれない道だから。
シチロージは静かに瞼を下ろし、握った右の拳を額にあてた。
血の香りが漂う、戦乱の最中(さなか)。
カンベエとは、ひとときの安らぎと幸せを噛みしめる。
将棋は最早遊びでしかなく。
他愛ないおしゃべりは弾み。
互いの身体に触れずとも、視線を絡ませることが今の二人にとっては情事にも等しく。
「島田様の番に御座いますよ」
は、例の禿頭(とくとう)の軍人の言葉がずっと引っかかってはいたが、いざカンベエと会ってしまうと自我を抑えることができず、彼とともにいることの幸せに身を委ねてしまっていた。
この甘い蜜にずっと浸かっていたいと心が渇望する。
それはカンベエもまた同じであった。
何度対局しようとも、結局はの勝利に終わるのだ。
カンベエは懐から小さな菓子瓶を取り出す。
それをに差し出し、は笑みを浮かべて両手でそれを受けとろうとした。
だが、今日は、
「あ・・・っ」
彼女の手の中に瓶が落ちるや、カンベエに手首を掴まれ、強く引き寄せられた。
今し方受けとったばかりの菓子瓶が、畳の上を転がっていく。
二人は、息が掛かるほどの距離で見つめ合った。
だが、抱擁されるわけでもなく。
ましてや、接吻することなど許されるはずもなく。
勝者でなければ彼女を自由に扱うことはできないと、互いに十二分に理解している。
そんなことは重々承知している。
それでも、少しでも己の近くへとカンベエは彼女を引き寄せる。
焦ったのは、の方だった。
見たことのないカンベエの姿に戸惑った。
カンベエらしくない振る舞いに、は眉をひそめる。
カンベエに触れられることは嬉しくもあり、だが同時に掟を破ることへの後ろめたさも同じくらい感じていた。
だから素直に受け入れることもできず、は視線をそらして身を引いた。
「駄目、・・・・駄目です、・・島田様、」
は戸惑った。
カンベエは大事な大事な、お客様。
そして大切な大切な、想い慕う人。
うっすらと耳を赤く染めながらも、は身体を強張らせた。
「島田様・・・、どうかお放しを、」
「承知しておる。お主の立場を危ぶませるようなことはせぬ」
「ですが、・・・。島田様、・・・一体どうなされたのですか」
カンベエはこんなことをする御仁ではなかったとは記憶している。
一体、彼はどうしてしまったというのか。
「殿」
名を呼ばれ、は反射的にカンベエと目を合わせてしまった。
そして、しまったと思うのだ。
彼から視線をそらせなくなる。
カンベエの、焦げるような熱い視線に身体を絡め取られてしまった。
「あの・・、」
「其方の身体に、触れはせぬよ。触れは・・・」
その言葉通り、カンベエは彼女に触れることはなかった。
掴んで引き寄せた彼女の手首から手を放す。
カンベエの手が向かった先は、今し方彼がに差し出した金平糖の瓶だった。
器用に片手で蓋を開け、無骨な指が一粒だけ星屑をつまみ出す。
それを、そっとの口元へと運んだ。
カンベエの熱い視線が、に食べろと促す。
は戸惑い、頬を赤くする。
困った顔をしても、カンベエの視線は許してはくれず。
「店先に並ぶ中で、一等の上物だそうだ」
お主と同じだな、とカンベエは微かに笑みを作る。
その顔がひどく意地悪げで、困り果てるをからかって楽しむ悪戯っ子のようで。
戸惑うは、だがいよいよ観念し、桜色の唇を薄く開いてそれを受け入れた。
星屑を口にくわえた瞬間、彼の親指が金平糖をの口の中へと押し込んだ。
彼の指の感触が、唇に鮮明に残ってしまう。
「・・ん・・っ」
はぼわりと顔を赤くし、身を後ろへと引いた。
触れぬと言ったはずなのに。
恥ずかしさに潤んだ瞳で彼を睨めば、カンベエは可笑しそうに頬を緩ませていた。
「一等の味はいかがか」
「お、・・お戯れを。触れぬとおっしゃられたはずでは・・・」
真っ赤な顔で抗議しても、カンベエは答えてはくれず、楽しげに肩を揺らす。
そして、を更に困らせるのだ。
の唇に触れた親指をゆっくりともたげ、蜜を吸うように己の唇に押し当ててみせた。
に見せつけるように、ゆっくりとした所作で。
カンベエは厭らしく彼女を斜めに見上げる。
そして、彼女がこれ以上ないくらい真っ赤な顔で口も利けないでいる姿を見て、満足そうににやりと笑うのだ。
「馳走になった」
飢えた獣が、小さな獲物の身体を味わうように。
それはある意味、身体に触れ合う情事よりも尚一層官能的で、女は胸を熱くする。
静まらない鼓動
胸の奥底で欲望の渦が暴れている
それはカンベエが楼を後にしてもしばらくおさまらず。
どうすれば鎮められるのか、どこにぶつけたらいいのかも、わからない。
暴れ狂う欲望の渦に翻弄され、は心を疲弊させる。
この渦を生み出して置いていった想い人に、怒りとも違う、熱い感情をぶつけながら、は畳の上に観念して横たわる。
堕ちていく
深い闇へと堕ちていく
狂い、狂わせ、堕ちていく
本能が理性を喰らい
情欲の渦に飲まれ
人は、ゆっくりと狂い衰えていく
このとき、は気付いていながら、見て見ぬふりをしたのだった。
カンベエが放つ覇気に、以前と明らかな差違を感じたことに。
以前の彼がまとっていた、侍としての研ぎ澄まされた闘志が薄れていることに。
彼女は気付きながらも、己の心に「知らぬ」と嘘をついた。
『島田を腑抜けにさせた女』
気付かぬ振りをしたところで、何も変わりはしないのに。
いや、むしろ尚一層事態は悪化していくばかりなのに。
ただ今はまだ幼い遊女は、深く甘い闇に、彼とともに堕ちていく道に惹かれていた。
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