ドリーム小説
灰褐色の外套(マント)の裾をひらめかせて回廊を歩くカンベエと、その後に付き従うシチロージ。
軍議を終えたばかりの二人の顔には疲労の色が濃い。
部屋に戻ったらしばし休息を取ろうと言葉を交わしながら、二人は回廊の途中で三人組の若い軍人とすれ違った。
何事ともなく、カンベエとシチロージはたわいない会話を続けながら足を進める。
「女狂いめ」
脈絡なく、突然背後から聞こえてきた揶揄(やゆ)混じりの小さな陰口。
ついで耳に届く、嘲りを含んだ小さな含み笑い。
あぁまたか、とカンベエは呆れたように嘆息し、後ろを振り返ることもなく足を進めた。
一方で血気盛んな彼の副官は勢いよく後ろを振り返って歯をむき出しにする。
「おい、そこのお前!!今、何て言いやがった!?」
「よい。放っておけ、シチロージ」
「カンベエ様・・・っ!ですがねぇ・・・!!」
「言いたいように言わせておけばよい」
上官にそう言われてしまえば、部下である自分は食い下がるしかない。
シチロージは悔しそうな顔のままカンベエの後を追いかけた。
「カンベエ様」
「なんだ」
「なんだ・・って。何をそんな涼しい顔をしておいでで。何故お叱りにならないんです?!」
下っ端の者にあんなことを言われて、カンベエは腹が立たないのだろうか。
どうしてこうも落ち着いていられるのだろう。
苛つきながらシチロージが問えば、カンベエは後ろを振り返り彼の怒りをさらりと流すように苦笑した。
「仕方があるまい。真実では、な」
女狂いとは、嘘ではない。
確かに自分はそう言われるだけのことをしている。
素直に非を認めてしまう上官に、若い副官は肩をすくめる。
前を向いてさっさと足を進めるカンベエの横顔をちらりと覗き見た。
そこには、ここに来た頃より明らかに柔らかになっているカンベエの顔があった。
鋭くとがった冷たい刃のような軍人であった島田カンベエをここまで穏やかにしたのは。
おそらくはあの花散る遊廓の、あの秘色(ひそく)の遊女。
あの花魁とカンベエの間に何があったかはシチロージは知らないが、彼女の存在がカンベエに安穏をもたらしていることは容易に分かる。
色恋沙汰が人を変えるというのは、どうやらあながち嘘ではないらしい。
「あぁ・・・春でげすなぁ」
廊下の丸窓からかいま見えた、城下の薄紅の桜にシチロージは目を細めた。
―拾弐―
「あぁ・・・春だなぁ」
部屋の窓辺の欄干にしなだれかかり、は眼下に見える桜に薄く笑みを浮かべる。
彼女の横には勝負を終えた将棋盤と、小さな金平糖の瓶が二つ。
先程までいた男は一度目の負けに納得がいかず、に第二戦をせまり、結果あえなく惨敗。
二つの瓶を残してすごすごと立ち去っていったのだった。
「眠っちゃいそう・・・・」
開け放たれた障子から、部屋に暖かな陽気が差し込む。
今日何度目かの勝負を終えて、僅かな疲労にはうとうとと目を閉じた。
夢の中で、彼に会えたらいいのにな。
閉じた瞼に陽が射して、視界を黄色く染める。
そこに映る、焦琥珀の髪の彼が自分に穏やかに微笑みかけてくる。
彼の元へ行きたい。
彼に手を引かれ、彼の腕の中へ。
あの人に抱きしめられたい。
彼女の唇がゆっくりと動き、音を立てずに彼の名前を紡ぐ。
し ま だ さ ま
し ま だ か ん べ え さ・・・
「花魁は、お疲れかな」
夢の中に入りかけていたの耳に、突然滑り込んできた氷のような男の声。
鋭く明瞭な声には瞬時に目を覚まし、ばねのように身を起こした。
仕事中に居眠りをしてしまうなんて、なんてことだ。
遠ざかる夢心地を惜しみながらも、は慌てて後ろを振り向いた。
秘色の長い髪が優雅に揺れる。
「失礼いたしました・・・っ。お出迎えもせず」
申し訳ありませんでした。
そう続くはずの言葉は、だが不自然に中途で途切れた。
京紫の両目が、ただただ真っ直ぐに部屋の入り口を見つめる。
否、見つめているのではない。
目をそらせないだけだ。
―――な ん だ ろ う、この空気は
続くはずだった言葉を、彼女の細い喉がごくりと音を立てて飲み込んだ。
―――な ん だ ろ う、この冷たい空気は
彼女の視線の先に、腕を組んで障子に寄りかかり、彼女を見下ろす二つの眼があった。
聞こえてきた声と同じく、温度を感じさせない冷たい両の眼。
―――蛇 が、いる
「俺の顔がそんなに珍しいか」
男は両眼を細め、口元に細い笑みを浮かべてに声をかけた。
その薄い笑い方がますます彼を蛇に見せる。
癖のないさらさらの黒髪を後ろで束ねた綺麗な顔立ちの男。
ゆっくりと背を起こし、静かな足取りでに近づいてくる。
の中で、危険信号が大きくなる。
いまだかつて対峙したことのない種の客に、どうしていいからわからないと本能が言う。
「怯えた目をしているな」
「・・ぇ・・?」
「俺が怖いか。花魁」
「ぃ、いえ・・・・そんな」
「やめておけ。取って付けたような笑みはいらぬ。俺に嘘や誤魔化しは通用せんぞ」
にやりと笑いながら男は近づき、腰から刀を抜いて将棋盤の前にあぐらをかいて座った。
脇息(きょうそく)に肘を立てて、頬杖ついて、まるで天下人のような顔でをじっと見つめる。
「俺が、怖いのだろう。なぁ・・・花魁」
「・・・・・」
再度問われ、は目の前に座る男から目をそらせぬまま静かな声で「・・・少し」と答えた。
本当は怖い、今すぐ逃げ出したいくらい怖い。
そのの心の中を読んだのか。
男は「嘘つきめ」と楽しそうに口元を歪めて笑った。
「あの・・・お武家様」
「やめろ。そんな大層な身分じゃぁない」
自分はただのならず者だと男は笑いながら言う。
「案ずるな。もう下で金は払ってある」
「・・・・・は、い」
「さて。一局、手合わせ願おうか」
楽しそうに笑う、男は己をシュウサイと名乗った。
蛇の化身のような男に見つめられ、の背中をつぅと冷たい汗が流れ落ちる。
少しでも気を緩めれば、瞬時にこの男に全てを飲み込まれる。
彼の前では、にこりと笑う余裕など持てない。
―――逃げ出したい。今すぐここから逃げ出したい
―――・・・・・・・助けて
そう口に出して叫びたいのを必死におさえ、はぱちんと駒を打った。
何を考えている。
誰が助けてくれる。
私は、花魁。
負けることの許されない、花魁。
これは自分で決めた道だから。
助けてなんて、言っては駄目だ。
“女狂いの軍師”
軍内の陰で、そう揶揄され始めたのはいつからだったか。
どうやらカンベエが鋼牙渓の遊廓に通う姿を、軍内部の者に目撃されてしまったらしい。
それが今では、余所者のカンベエをからかう恰好のねたになってしまっている。
「そんな人の揚げ足取るような噂しか話すことないんですかねぇ」
「そうだな」
「まったくもって暇人の多い軍でげすね」
「そうだな」
「・・・・・・」
「シチロージ」
「・・・・・はい」
「そう苛つくな。怒りで字が歪んでおるぞ」
「〜〜〜・・・っ。私だってねぇ・・・苛つきもするってもんです!」
よほど鬱憤がたまっていたのか、シチロージは握った拳でどんっと机の書類を叩いた。
一方でカンベエはといえば、重厚な黒い机に頬杖ついてそんな部下を見て苦笑していた。
「ったく。ここの奴らはやり方が陰険できったなくて、腹が立つったらありゃしませんよ!」
「お主の怒りももっともだ。・・・すまんな、全てはわしの軽率さが原因だ」
「そんなことはありませんよ!男なら遊廓の一つや二つ、三つや四つ行って当然でげしょ!」
「それはちと多すぎやせんか」
熱くなるシチロージに苦笑しながら、カンベエは積み上げられた書類の山からまた一束手に取る。
カンベエ自身の遊廓通いが原因で起こってしまった陰口に、彼以上にシチロージが腹を立てていた。
この御時世、男の女通いなど珍しくも何ともない。
事実、この戦艦内に湯水のように銭をはたいて女を囲っている者など数多といる。
そんな奴らに比べれば、カンベエの廓通いなど理性と常識を失わぬ、真ひそやかな遊び。
それなのに、何故カンベエばかりが嘲りの対象になる。
己の上官が悪く言われるのは、シチロージにとっては自分が悪く言われるより耐え難いことだった。
「お主には迷惑ばかりかけるな」
「カンベエ様のせいではありませんよ。本当にまったくもってここの奴らは!」
「そう腹を立てるな。だが、確かにちと派手に動きすぎたな」
しばらく外出は控えるとしよう。
カンベエが遊廓断ちをして内に留まる、それが一番いい方法。
人の噂も四十五日、しばらくすれば消えるだろう。
「自粛せねばな」と苦笑いしながらカンベエが告げれば、意外や、シチロージは眉を寄せて渋い顔をするのだった。
「何をおっしゃっておいでで、カンベエ様・・・」
「なんだ」
「そんなことなさったら駄目ですよ」
「・・・何を言うておるのだ、お主は。言っておることがちぐはぐだな」
「何って、当然のことでげすよ。突然カンベエ様のお姿が見えなくなったら、あの子が悲しむじゃありませんか」
「シチ・・・お主、何か勘違いしておらぬか」
自分と彼女はそんな大層な仲ではない。
苦笑交じりに言っても、シチロージはそれには全く耳を貸さない。
それどころか「隠さなくても結構ですよ」と突然悪戯っ子のような顔をして、指代わりに筆をぴっと真っ直ぐ立てた。
「わしは何も隠してなど・・・」
「あたしは陰ながらお二人の恋を応援しておりますので」
片目を閉じて、金髪の色男は粋に笑む。
何かを企んでいるような、いやに楽しげな副官からカンベエはふいっと目をそらしてはぐらかした。
「・・・何の話だ、何の」
「おやおや。素直じゃありませんねぇ、カンベエ様は」
「・・・シチ」
「聞かなくったってわかりますよ、カンベエ様のお気持ちは。あの子に対してどんな想いでおられるのかも」
「・・・・・・」
「あれ、図星でげしょ?カンベエ様、お認めになられますよね?」
「・・・・・・さて、な」
「・・・あぁ、そうでげすか。どうしてもお認めにならないと?」
「認めるも何も、それらは全てお主の勝手な憶測であろう」
勝手なことを言うでない、とカンベエはシチロージから顔を背けて書類に目を戻す。
話をはぐらかそうとするカンベエを、シチロージは細い目でじとぉっと見つめた。
「ほぉ・・・・・」
「・・・・・」
「では、カンベエ様はあの子のことをどうもお思いではないと」
「・・・・・」
「・・・・・そうでございますか」
両者の間に、ぎちぎちと嫌な静寂が流れる。
こちこち、と壁の時計の振り子の音がやけに大きな音を立てていた。
「それではカンベエ様が自粛なさっている間は、代わりに私があのお嬢さんのお相手をしても一向に構いませんよね」
「・・・・・・・・」
「何も問題はありませんよね」
「・・・・・・・・」
「では早速今夜にでも百花楼へ行かせていただき」
「待て、シチロージ」
低く重い声が、シチロージの言葉を中途で遮った。
手に掲げた書類で顔の隠れたカンベエを、シチロージは書類越しにじっと見つめる。
書類に穴が開くほどじっと見つめていれば、不意にその書類が下にずれてカンベエの目だけが姿を現した。
紙で隠した口元は、果たして笑っているのか、不機嫌にへの字になっているのか。
現れ出た暗褐色の目は、心の中を言い当てられてむくれた子どものように不満げにシチロージを睨んでいる。
まるで童心のような上官の態度が何とも可愛らしいことと思ってしまった。
シチロージはぷらぷらと筆を遊ばせながら無邪気な少年のような顔で上官に笑いかける。
「では、お認めになられますよね」
「・・・・・・」
「あの子のこと」
―――好いてらっしゃるんでしょう?
「違いますかね」と念を押され、カンベエはゆっくりと目を閉じた。
それはいつからだっただろうか。
鋼牙の街で襲われているのを助けたときからだろうか。
花散るあの里で再び会いまみえたときからだろうか。
将棋を指し、言葉を交わし、あの子の強さを知ってからだろうか。
己が唯一、あの子に触れることのできる男だと知ってしまったときからだろうか。
はっきりとはわからない。
だが、確かに違わない。
彼の言うとおりなのだ。
「あぁ・・・」
目を閉じれば、瞼の奥に浮かぶ。
秘色の髪、自分を見上げて優雅に笑う京紫の目が。
違わない。
自分は確かにあのか弱く儚げで、芯の強い遊女に。
「惚れておるよ」
きっと心の底から。
この手の中に収めて、離したくないほど。
目を閉じて、ばさりと机の上に書類を投げ置いた。
カンベエの口は、観念したように苦く笑っていた。
シチロージの顔に、少年のような笑みが浮かぶ。
上官がついに漏らした真の言葉に、まるで自分のことのように幸せそうに肩を揺する。
「応援しますよ」とシチロージはおどけたように告げる。
革張りの椅子に深く背を預け、「よろしく頼む」とカンベエは息を吐いて笑うのだった。
「投了」
「・・・・・・」
「残念無念。俺の負けだ」
男の持ち駒に盤上を動けるものがなくなった。
あっさりと負けを認めて、シュウサイはあぐらのまま後ろに両手をついて身体を反らした。
「なかなかに楽しかったな」
「お手合わせ・・・ありがとう、ございました」
どうにか絞り出した声でそう告げる、の頬を冷たい汗が一筋流れ落ちた。
細い顎からぽたりと落ちて、着物の膝に丸い染みを作る。
膝の上でぎゅっと握りしめられた二つの拳は微かに震えていた。
が、勝った。
百戦錬磨の彼女の勝利を、誰もが当然と思うだろう。
だが彼女の頬を、絶えることなく冷たい汗が流れ落ちていく。
―――手を抜かれた
彼が投了する三手前。
シュウサイが殊更楽しそうに口元を歪めて駒を打ったとき、は気づいた。
シュウサイがわざと、彼自身が不利となる位置に駒を置いたことに。
その次の瞬間から、それまで一進一退を繰り返していた駒の動きが完全に有利に傾いた。
彼は、故意に負けたのだ。
は手を抜かれて勝利した。
もし、彼に本気で勝負を挑まれたら。
彼女の小さな心の臓がどくどくと激しく脈打つ。
恐怖が体中の血管を駆け回る。
恐慌状態の自分を悟られまいと、は平静を装いながらシュウサイから戦利品の菓子詰めの硝子瓶を受け取った。
「・・・ありがたく、頂戴いたし」
「今日の一局でお前の手はだいたい読めた」
「・・・・・・え?」
思わず素の声が出てしまった。
何を言われたのか最初わからなかった。
男の言葉に反応し、は彼に向かって顔を上げた。
刹那、栗鼠(りす)は冷たい蛇に捕食された。
小さな獣を狩るような素早さで男の手が彼女の手首を掴み、引き寄せた。
カンベエ以外の男の手。
の中で忘れかけていた恐怖が弾ける。
「―――――・・ぁ・・――――・・・っ!!!」
かしゃんっ――――――・・・・・ざらざらざら・・・。
遊女の手から転がり落ちた硝子の瓶が、畳の上に星くずを撒き散らす。
静かな室内、何の物音もしない。
男が蛇のようににやりと笑う、狂喜の音だけが聞こえてくる。
彼女の細い顎を、男の細い指が乱暴に掴んで持ち上げていた。
互いの息もかかる距離で、シュウサイの細い目がじっと京紫の目を覗き込む。
「この程度で壊れるなよ」
目を見開いて、小さな口を半開きにして、身体を凍り付かせて震える少女に、男は呆れたように嘲り笑った。
は動かない。
否、動けずにいた。
体の中も外も、恐怖という名の蛆が這いずり回っているような感覚に動けずにいた。
シュウサイは横に置いた刀を手に腰を上げる。
狂気に固まったままの遊女を見下ろし、唇を吊り上げて笑った。
「次は手を抜かんぞ」
「・・・・・・・っ」
「よぉく身体を清めておくんだな」
お前の気が狂うまで、一晩中遊んでやろう。
赤い舌を覗かせて笑いながら、男は部屋を去っていった。
音を立てず閉じられた部屋に、気味が悪いくらいの静寂が満ちる。
ざり・・・・・・・っ。
畳の上に広がった星くずを、手のひらで押しつぶした。
小さな柔らかい棘(とげ)が手のひらの肉に食い込んでいく。
「・・ぃ や・・・・・」
唇に、男の唇の感触が生々しいくらいに残っていた。
生暖かい、これは自分の体温ではない。
ぬるりとした人の唾液が付着している。
今すぐ、皮膚が焼けるくらいこすり落としてやりたいのに、手が震えて動かなかった。
「・・・―――・・・っ!」
悔しさと恥ずかしさに、下唇を力一杯噛みしめた。
シュウサイに奪われた己の唇を、穢れたもののように手荒に噛みしめた。
シュウサイに触れられた瞬間、迷うことなく脳裏をよぎったのは「あの人」の顔だった。
自分は何を夢見ていたのだろう。
叶わぬ願いに想いを馳せていた、夢見る少女のような自分が愚かで恥ずかしい。
「・・・し・・だ・・・さま・・・・・っ!」
あの人を慕うようになってから心の中で想っていた小さな願い。
願うことなら、あの人に最初に奪われたかった、と。
束縛された籠の中で夢見た小さな願いを砕かれながら、は改めて思い知るのだ。
自分は所詮身体を売るのが商売の、一介の女郎。
シュウサイから受けたあの手酷い扱いこそが、自分が本来受けるべきもの。
助けを求めてカンベエの名を呼ぶことなど許されない。
彼に救いの手を求めることなど許されない。
「ふ・・・・・ぅ―――・・・っ」
両手で口を覆って、身体を小さく丸めて子猫のように背を震わせる。
強く噛みしめた下唇から流れ落ちた赤い血が指の隙間からぽたりと落ちた。
盤上にできた小さな赤い染みを、揺れる視界でじっと見つめ続けた。
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