ドリーム小説
カンベエのおかげでは傷一つ負うことはなかった。
自分で立てます、とカンベエに告げたのだが、彼はを見て一瞬目を細めるだけで彼女を降ろそうとはしなかった。
部屋まで運ぼう、と言ってを抱いたまま朱塗りの階段を上がっていく。
カンベエに触れられる気恥ずかしさにが慌てるのもお構いなしに。
そんな二人をすれ違う遊女や禿(かむろ)が足を止めて奇異の視線を投げてくる。
―――あのが男に抱きかかえられている。
―――彼はに勝ったのか。
そんな呟きが耳に入ってくる。
人の噂に不安げな目をするを周りから隠すように、カンベエは彼女を抱く腕に力を込めて己の胸に顔をうずめさせた。
―拾壱―
そんな二人の背中に鋭い一瞥をくれ、シグレはきびすを返した。
シグレの後ろを行く客と思しき男は、拗ねた遊女の背中に冷笑を浴びせる。
「あの小さい娘がここの太夫か」
「旦那も興味がありんすか」
「あぁ、あるね。太夫を抱けるなんて願ってもないことだ」
「そう言うんしたら、初めからあの子をお選びになればよいものを」
客に対してきくような言葉ではない。
だがシグレの客は、彼女の一風冷たいところに惹かれていた。
しかしこの男、百花楼を訪れるのは今日この日が初めて。
冷たい遊女の一言に、だが男はにぃっと唇を吊り上げる。
「いぃや。またこの街には来れる。楽しみは取っておこうと思ってな」
「旦那・・・他所街の方でありんすか」
「あぁ、そうだ」
随分と遠くの街から鋼牙渓目指してやって来たのだと男は言う。
この街でやりたいことがあるのだ、と。
そしてこの街でしかできないことがあるのだ、と。
男は前行く遊女の腰を引き寄せて己に密着させ、シグレの耳元で秘め事を漏らすように告げる。
「実はな、俺は」
「旦那、お放しを・・」
「機械の侍になりにこの街に来たんだ」
男の告白に、シグレは目を見開いて間近の男の顔を凝視する。
癖のないさらさらの黒髪、肩ほどの長さの髪を後ろで束ねた精悍な顔立ちの男。
綺麗な顔をしているくせに、口元に浮かべる笑みと細い眼はどこか蛇を思い起こさせる。
不思議な男―――シュウサイと名乗る、彼の腰には刀が下がっていた。
彼が纏う邪悪な香りはどこか自分に似ている、とシグレは感じた。
部屋の中まで入って、ようやくはカンベエの腕の中から降ろしてもらえた。
「立てるか、殿。足に怪我などは」
「大丈夫です。ご心配いただきありがとうございます」
すとん、と畳の上に足をつき、カンベエと向き合い、は深々と頭を下げた。
カンベエに二度も助けてもらったことの礼を告げる。
「島田様。御礼にもならないのですが、どうか今回のお代金だけでもお納めになって下さい」
「いや。あれはわしが無理を言ってそなたに会わせて欲しいと願い出たこと。受け取ってくれねばわしの気が済まぬ」
「ですが・・・助けていただいて、倍ものお代金をいただくわけには・・」
「よいのだ。金のことはもう気にせんでくれぬか」
高給取りと言われるカンベエだが、給金を受けたところで贅沢とは無縁なカンベエには金の使い道などない。
最近買ったものといったら、に贈った金平糖くらいしか記憶がない。
物を買うことに関心などないカンベエだが、あのときは随分と悩んだものだと思い出して苦笑する。
目の前ではが思い悩んだように綺麗な眉を寄せていた。
助けてもらった礼を何とか返したいと考えあぐねいている。
「すまん。どうやら余計に悩ませてしまったようだな」
「いえ、そんな・・っ。私、お茶も何もお出しせず・・・ごめんなさい、すぐにっ」
長い髪をなびかせて慌てながら部屋を出て行こうとする彼女を見て。
カンベエの体が無意識に動いた。
殿、と自然に彼女の名を呼んで、気付けば去ろうとする彼女の手首を掴んでいた。
が弾かれたようにカンベエを振り返って顔を見上げてくる。
カンベエに掴まれた手首の先で、彼女の細い指が力なげに動くのを感じてカンベエは慌てて手を放した。
「・・・すまぬ、平気か」
「・・はい・・・大丈夫、です」
咄嗟にとってしまった己の行動に、気まずげにカンベエは顔を背ける。
先日の男に抱きつかれたときに彼女が見せた狂に囚われる姿を思い出す。
先程助けたときも、抱きかかえてここまで運んだときもは普通にしていたが。
彼女のあの姿は見たくない、あのような想いはさせたくない、と強く思う。
大丈夫とは告げて、カンベエに掴まれた手首を胸の前でそっと握り締めている。
島田様、とに呼ばれ、カンベエは彼女に顔を向けた。
の顔にはカンベエが危惧したような狂はなく、ただ穏やかにカンベエを見上げていた。
「私は・・大丈夫です」
「殿・・・」
「自分でも不思議で仕方がないのです。ですが本当に、平気なんです。・・・島田様に」
あなたに触れられるのは、と彼女は静かに告げる。
不思議な出会いだと二人は感じていた。
決して出会うことなどなさそうな二人が出会い、そしてその出会いによって互いの生き方が変わろうとしている。
無言での言葉に耳を傾けるカンベエの手を、不意に彼女の方から手を伸ばして掴んだ。
カンベエの右手を持ち上げて、は細い両手で優しく包む。
触れられる喜びを笑みに変えてカンベエに伝える。
「私は、島田様のこの手に二度も命を救われたのです」
一度目は鋼牙渓の街中で。
刀を持つあなたの手に救われた。
二度目は花街のこの遊郭で。
堕ちゆく体をあなたの両手に助けられた。
「私を救ってくださったこの手にきちんと触れて御礼がしたいと。叶わぬ願いだと思っていたのですが」
「怖くはないのか・・・わしに触れても」
「はい・・・島田様は、違うのです」
カンベエの手を包むの手に優しい力がこもる。
それだけで彼女の想いが十分に伝わってきた。
との間にあった薄い膜が、一枚はらりと剥がれ落ちた気がした。
彼女にまた少しだけ近づけた。
カンベエの顔に僅かに笑みが浮かぶ。
は己の行動にはたと気付き、俯いてはにかみながらそっとカンベエの手を解放した。
離れていく彼女の手のぬくもりに、何だか寂しさを覚えてしまう。
ふとカンベエはの前髪へと手を伸ばした。
「島田様・・・?」
「先程の木屑(きくず)がついておるぞ」
「え」
「取ってやろう。じっとしておれ」
秘色の髪についた小さな木片を、ぱっぱと指で払い落とす。
そのまま彼女の前髪付近に手を彷徨わせていれば、まだ払い終えていないのだろうかとはカンベエを上目に見つめてくる。
夕方の橙色の陽が射す部屋に、京紫の目が揺れていた。
指に触れる、絹のような手触りの柔らかな髪。
ずっと触れていたい、指を離すのが惜しくて。
触れていた指の甲で、さらさらと彼女の前髪を揺らして遊ぶ。
京紫の目に僅かな驚きが見えたが、それが狂ではないと悟り、カンベエはふっと口元に笑みを浮かべた。
「美しい髪だな」
「そのようなことは・・・」
「伸ばしておるのか」
「いえ・・・。少し、長すぎでしょうか」
「いぃや。そなたには、長い髪がよく似合う」
まるでの短い髪の頃も全てを見てきたように自然にカンベエは言う。
嬉しいですと礼を言うのも忘れて、はカンベエを見上げて見つめ返した。
前髪をもてあそんでいたカンベエの指が、優しい手つきでの髪を耳の後ろにかけてくる。
無骨な指に耳に触れられた瞬間、全ての熱がそこに集まったかのようにかぁと熱くなった。
ほんの少し触れられただけなのに、胸が痛いほど鼓動を速める。
そんなの想いを知ってか知らずか、カンベエの手がするりと耳から降りてくる。
「・・・・・っ」
「怖いか・・」
風を撫でるように大きな手を頬に添えられ、は思わず身を竦ませてしまった。
慣れない触れ合いに体が緊張してしまう。
どうしていいか、どんな顔をしていいのかわからず、は瞬きを繰り返して視線を彷徨わせる。
「・・いぃえ・・・」
「わしに気など使わず、誠を申してくれ。嫌ならばすぐに離れる」
「本当です、嘘などではありません・・。島田様の手は・・・嫌じゃない」
話すうちに、の肩から緊張が抜けていくのがわかった。
頬に添えた手のひらに感じていた硬さも消えていき、繰り返されていた瞬きも止む。
眠たげに目を閉じるの顔に怯えや恐怖はない。
カンベエに触れられていると、不思議と心が落ち着いた。
触れられた場所や胸の奥にはじわじわと熱が湧いていくのに。
その手のぬくもりにずっと包まれていたいと思えた。
離さないで、離れていかないでと心が鳴いている。
の想いが叶うことはなく、カンベエの手が離れていくのを感じてゆっくりと目を開けた。
カンベエと目が合って微笑まれて、ずっと見られていたことに気付いて恥ずかしさに俯いた。
カンベエの指が、さっきとは反対の耳に髪をかける。
露わになった彼女の耳はやはり真っ赤になっていた。
「妙な真似を・・・失礼した」
謝罪するカンベエに、は俯いたまま無言で首を横に振る。
嫌ではなかったという想いは、ちゃんとカンベエに届いただろうか。
殿、と呼ばれては髪を揺らして顔を上げれば、カンベエに顔を近づけられ身を竦めた。
の両肩に手を置いて、カンベエは彼女の赤い耳に口を寄せる。
痺れるような低く甘い声が、一言二言囁いて離れていった。
「島田、様・・・それは・・」
「また会おう、殿」
の肩から名残惜しげに手を引いて、カンベエは彼女の部屋を後にしていった。
障子の向こうを遠ざかっていく彼の足音が聞こえてくる。
カンベエが行ってしまう。
追いかけて、告げられた言葉の意味を問いたいのに。
玄関先の赤い暖簾まで彼を見送りに行きたいのに。
一歩足を前に踏み出した瞬間、はその場にすとんと座り込んでしまった。
「・・・・ぁ・・」
立つこともせず、虚空をぼぉっと見つめていた。
もうカンベエは店を去ってしまっただろう。
障子の向こうに、彼とは違うぱたぱたという軽い足音が聞こえてきた。
花魁、と可愛い声がして、すっと障子が開く。
姿を見せたのはやはりイブキだった。
小さな妹女郎は、部屋の真ん中でへたり込むを見て目を瞬かせる。
「花魁、あのお侍様は帰りんしたか」
「・・・うん」
「花魁」
「うん?」
「何してるでいぃすか?」
座り込んだまま、力の抜けた体でただぼぉっと虚空を見つめているだけ。
緩慢な動きで首をイブキに向ける。
「・・・イブキちゃん・・」
「あい」
「・・・あの、ね」
は苦笑して、観念したように呟く。
立てないの・・・・、と。
着物に隠れた膝が小さく震えている。
体に力が入らない。
イブキはその意味がわからず、を見て首を傾げるのだった。
カンベエに触れられた頬が熱い。
髪をかけるときに触れられた耳が熱い。
両手を置かれた肩が、指の甲で撫でられた髪が。
カンベエに触れられた体が、歓喜に鳴いている。
殿、と囁く、低く掠れた彼の声は―――蜜のように甘い、毒だ。
体を麻痺させてから抵抗する力を奪う。
だめだ。
身動きが取れない。
彼女の心は、毒性のある甘い蜜の海で溺れている。
空気が吸えない、胸が苦しい。
でも彼の声が、耳から離れない。
『次に来たときは、また一局手合わせ願おう』
離れない、離れない。
部屋を立ち去るイブキの背を亡羊と見つめながら。
「島田、様・・・・」
小さな声で彼女が囁いたのを聞く者はいなかった。
耳の奥で、彼が残していった言葉がまだ鼓膜を震わせている。
『そなたに勝利する日が楽しみになってきた』
溺れる海の、なんと甘いこと。
苦しいはずなのに。
その毒に、今しばらく浸かっていたいと心が叫ぶ。
あなたに負ける日が楽しみだなどと思ってしまった私の心を、誰か咎めて欲しい。
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<補足>
■シュウサイ■
機械侍になるためにやってきた侍。まだ謎が多い
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