ドリーム小説
Scarlet
【名】緋色,深紅色
【形】緋色の,深紅色の;目に余る;売春婦の
ロスメルタ、元気?相変わらずお店は繁盛してるんだろぉね
私は、それなりに元気にやってるよ
文章にまで表れる、らしい軽い口調。
ロスメルタに送られた手紙は、そんな当たり障りのない文章で始められていた。
椿姫 scarlet 4
閉店の時間からもう数時間は経っている。
誰もいない店内。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った三本の箒のカウンターに肘をつき、ロスメルタは手紙
の文字を読み取っていた。
突然の手紙を許してほしい
急にお店に顔を見せなくなった私を許してほしい
そして、どうかこれから言うことを黙って聞いてほしい
片手で空のグラスを引き寄せ、手近のボトルをそこに注ぐ。
薄茶色の液体がトプトプと注がれていく。
グラスの半分以上に注がれたのを見て、ボトルをカウンターに置いた。
私は、もう三本の箒には行けない
もう、貴方には会えないと思う
グラスにかけた手がぴくりと反応する。
繊細な字で書かれた唐突な文章に一瞬強張った手。
だがゆっくりとその手はグラスを掴み、口に付けられる。
詳しいことは話せないの
こんな私を許してほしい
我侭で身勝手な私だけど、貴方に会えなくて寂しいよ
もう一度だけ、貴方に会いたかった
過去形で終わる文章は、未来への希望を持たせない。
もう会えないことを前提に書かれたそれに、グラスの手が微かに震える。
一口分だけ減ったグラスを置いて、ロスメルタは手紙の文字を真正面から見詰めた。
貴方のような女性に会えて本当に良かったよ
貴方の快活さが、いつも私を癒してくれた
「何言ってんだか。それはこっちの台詞だっつうの」
苦笑して、手放したグラスに再び手をかける。
言葉を流し込むように、グラスの酒をグビリとあおる。
私は・・・私はもう二度と貴方に会うことはできないけれど
いつかきっと“私”は会いに行くよ
の理解できない不可思議な言葉は、今に始まったことじゃない。
の相手をすることに慣れたロスメルタは、特に気にせず続きに目を向けた。
絶対会いに行くから
約束するよ
だから・・・そのときは、バタービールの一杯でも奢ってよ
最後に付け足された、「楽しみにしてるよ」の文字は、上手く読み取ることができなかった。
どうにも視界がぼやけて、頬を伝う水を拭うので精一杯だった。
「ばか・・・」
いつものように悪態をつくのも難しかった。
静かすぎる店内に自分の嗚咽が響いて、嫌で嫌でたまらなかった。
グラスを掴んだままの手に嫌に力が入って、グラスから手を放すのにも苦労した。
手の中から、真っ白な便箋がひらりと舞い落ちた。
「ばかだね。バタービールなんて・・・・・何杯だって奢ってやるわよっ」
小さな叫びが店内に響く。
もうすぐ夜が明ける。
この嗚咽も、叫びも、すぐに喧騒が消し去ってくれる。
不安を消してくれる男たちの騒がしい声が、今は何よりも待ち遠しい。
窓の外の闇が薄っすらと明けていく。
もうすぐ夜が明ける。
木曜日の朝が来る。
夜が明ける。
朝日とともに、窓から風がそよそよと吹き込んでくる。
ベッド脇の椅子に座る少女の銀髪を優しく揺らす風だった。
ベッドに横たわったまま全く動こうとしない少女の金髪を優しく撫でる風だった。
の目は、横たわる少女の胸元辺りのシーツへと向けられていた。
心臓辺りのシーツがゆっくりとゆっくりと規則正しく上下している。
(息は、しているんだね・・・)
そのことに安堵して、一つ溜め息を漏らす。
閉じたまま開こうとしない少女の瞼。
その下には、自分と似たような青い色の目がある。
「・・・桜ちゃん」
数日前、闇に憑依されて倒れてから一向に目を覚まさない少女。
名前を呼んでも、何一つ反応を見せない。
「桜ちゃん、起きて。起きて・・・教えて」
が教えてくれた。
あの日、の体調が悪くなった日。
は廊下で桜と出会い、彼女は「椿ちゃんの部屋へ行く」と言っていた、と。
問うに桜は、「さんが」と言って口をつぐんだ、と。
の眉間に皺が寄る。
「起きて、桜ちゃん。さんが・・・さんが何をしたの?」
の鋭い勘が言っている。
彼は普通じゃない、と。
・について知りたい。
だが彼をよく知る者は、百花楼には桜しかいない。
「お願い、教えて。桜ちゃん」
はひたすら桜の覚醒を待った。
鳥籠に閉じ込められたには、それ以外にできることはなかった。
吐き気もない清々しい朝は数日振りだった。
セブルスはベッドから身を起こし、軽く頭を振った。
本の読みすぎで相当凝っていたのか、首の後ろの骨がみしりと嫌な音を立てて鳴った。
軽い痛みを覚え、首をさすっていると不意に声をかけられた。
「すんげー音出たぞ、今。運動しないで本ばっか読んでるからだ」
スリザリンらしからぬ明るい声が耳に入ってきて、寝起きで低血圧のセブルスは眉間に寄っ
た皺を指で伸ばす。
「珍しいこともあるものだな。お前がこんなに早起きしているなんて」
の方へ首を向けると、彼は既に制服を着ていた。
「ん〜まぁな。占いするにもさぁ、星ってよく見とかねぇとすぐ動き変わっちまうからさ」
「お前・・・一晩中起きていたのか?」
さすっていた眉間の皺から手を放し、セブルスはを凝視する。
は苦笑いで返してきた。
必然的にそれは肯定を示す。
「また授業中に寝て、スリザリンから減点されるようなことはするなよ」
まるで教師のように咎める友人に、はおどけたようにヒラヒラと手を振る。
「だって授業中の方がいい夢見られるんだもんよ」
無邪気な笑みを向けてくるに、セブルスは小さく溜め息をつく。
「セブルスは?いい夢見れたか?たとえばー・・・椿ちゃんの夢とか?」
楽しげに問いかけてくる。
セブルスは一度だけの方に視線を向けると、ふいっとそらしベッドから立ち上がった。
「・・・それなりにな」
「そっか。そりゃよかったな」
の返事を全て聞き終えずに、セブルスは顔を洗うべく洗面所へと入っていってしまった。
その後ろ姿をは目で追い続けた。
しばらくして水を流す音が聞こえてきた。
まるで全てを流すように、全てを隠すように。
「よかったな。もう・・・彼女の夢見ることもないだろうしな」
セブルスが消えていった方に向けてポツリと呟く。
聞こえてくるのは水音のみ。
セブルスから返事が返ってくることはない。
「椿。邪魔だ、部屋に行ってろ」
何度となく聞いたマスターの叱る声。
特にすることもなく、部屋から出てきてカウンターに腰掛けていたに面倒くさそうな声
がかかる。
「もう少しだけ。部屋にいても、することがなくて」
誰も来る気配のない玄関に視線を投げて返事をよこす。
横でマスターがお得意の下卑た笑みを浮かべたのがわかった。
「だったら仕事でもするか?桜の野郎がずっと寝たまんまで、こっちは商売上がったりなん
だよ。あんな小娘でも意外と客がついてたんだな。ここんとこの売り上げが減る一方で」
「マスター。お言葉ですが、私は座位を剥奪されました。もうすぐ身請けされる身です。そ
の日まで仕事はしないのがあの方の条件だったはずですよ」
マスターの言葉を遮ってスラスラとよどみなく紡がれる文章。
誰が教えたわけでもない。
天賦の頭脳を持つ少女の巧言に、マスターは苦々しげに煙管を箱に打ちつけた。
カンッと乾いた音が響く。
「はっ、くそがきが。とっととくたばっちまえばいいものをっ」
隠す風もなく、横にいる少女に向かって罵声が飛ぶ。
それでも慣れた少女の表情は微塵も変わることはない。
ただゆっくりと目を瞑っただけ。
「・・・言われなくとも」
の単調な返事が小さな口から漏れる。
静寂が流れる。
時折、マスターが白煙を噴出す音が聞こえる。
静寂が流れる。
どこかの部屋で、少女が客の相手をする音が聞こえてくる。
静寂が流れる。
静寂が。
静寂が。
不意に店の玄関が開く音が聞こえてきた。
マスターは条件反射のように下品な笑顔を浮かべ、咥えていた煙管を横に置いた。
目を閉じたままのの耳に、いつもの下品な「いらっしゃいませ」の声が聞こえてくる。
そのはずだった。
だがその予想は大いにはずれ、横にいる店主からは何の言葉も発されなかった。
可笑しいと思い、ゆっくりと開けたの目に、彼の姿が飛び込んできた。
「やぁ、椿。わざわざ君が出迎えてくれるとは。嬉しいよ」
耳の奥を突くアルトボイス。
黒いシルクハットに黒い杖。
後ろに従者を携えた、貴族のような男。
自分を買い取った男がやってきた。
なんてタイミング。
下になんて降りてくるんじゃなかったと思っても後の祭り。
彼の視界には、最早しか映っていなかった。
「今日もいい天気だね、マスター。近くまで来たからちょっと寄ってみたのだよ」
上品に笑い、上品にシルクハットを脱ぐ。
その優雅な仕草を、は無機質な瞳で見つめ、マスターはハッと我に返る。
(椿、挨拶だっ)
男に聞こえないように小さく囁かれ、は男に聞こえないように小さく溜め息をつく。
そして慣れてしまった、最近では使っていなかった業務用の笑みを浮かべた。
「ようこそ、さん」
の顔に張り付いた無機質な笑顔。
それに気を良くした男が、不気味なほどの笑顔でに近づいてくる。
近寄らないでというの願いなど全く届かない。
「約束の日まで後数日。たった数日が待ち遠しくてたまらないよ、椿」
そう言って男はに向かって手を伸ばす。
「勿体無いお言葉・・・ありがとうございます」
ぎこちない笑み。
しばらく仕事から離れていたおかげで作り笑顔が下手になったのだろうか。
上手く顔の筋肉が動かせない。
「本当に後数日なのだよ。それまで、待っていておくれ、私の椿」
そう言ってはに手を伸ばす。
細い指が自分に向けられる。
今まで何百回と自分の体を触ってきた手が、近づいてくる。
あまり男らしくない、細い指。
目の前がぼやける。
焦点がずれていく。
自分の目の前にいるのは、これから自分を飼う男のはずなのに。
どうして。
どうして愛しい少年の細い指先が重なって見えるの。
薬学が得意だと言っていた少年。
薬の使いすぎで少し荒れてしまった彼の手。
食が細いのか、年齢にしては随分と細い手。
自分のことを知っても、自分の汚い部分を知っても抱きしめてくれた優しい手。
助ける術がないとわかっても何冊もページを捲って、傷だらけになってしまった彼の手。
全ての記憶が目の前に映し出される。
現実と夢が交差する。
どっちが現実?
どっちが夢?
男の手が近づいてくる。
これは触れて欲しい手?
『――――――』
開け放たれた玄関から風が吹き入ってきた。
の銀糸を微かに揺らす。
彼の声が聞こえた気がした。
同時に覚醒する思考。
ぼやけていた焦点が元に戻る。
途端視界がクリアになる。
一瞬で全てを理解する。
男の細い手が近づいてくる。
でもその手には、なくてはならないものがない。
彼の手には、薬で荒れた痕がない。
彼の手には、本の読みすぎで付いた傷がない。
彼は“彼”じゃない。
私が触れて欲しい彼じゃない。
「触らないでください」
気が付くと、の口はその意志に関係なく勝手に動いていた。
の言葉に反応するように、の頬に触れようとしていたの手がピタリと
止まる。
突然のの発言に、の表情が固まり、マスターの眉間の皺が倍増する。
「椿。・・・どうかしたのかい?」
再度のの言葉に今度は、まるで男から遠ざかろうとするかのように、は一
歩退いた。
その行動にマスターの額に青筋が浮き立つ。
それを見ても、は表情を崩さない。
「今日の椿はご機嫌斜めなのかね、マスター?」
マスターに向けられた、の猛禽類のような目。
「い、いえっ、そんなことは!」
に媚びへつらいながら、マスターはカウンターの下で椿にに近づ
くように手招きする。
だがは一歩たりとも動かない。
動いたのは足ではなく、の小さな口だった。
「さん」
ぎこちないリズムで刻まれる男の姓。
呼ばれた男は僅かに表情を崩す。
は一つ息を吸い込む。
再び開いた口は、無残な、誰にも予測できない言葉を投げつけた。
「さん。申し訳ありませんが・・・・身請けのお話、なかったことにさせて下
さい」
小さな口から放たれた言葉。
その場を一瞬で凍りつかせる力を持った言葉。
しばらくは誰も動くことができなかった。
「・・・・椿?何を・・・言っているんだね、一体」
まだ笑顔を浮かべたまま聞き返す男は、不気味なほど黒い幕を背負っていた。
「今言ったとおりの意味です。今までのお話はなかったことに」
「何言ってやがるっ!そんなことが通用するとでも思ってんのかっ!?」
の言葉を遮るようにして怒鳴ったのは、予想通りマスターだった。
客であるの前だということも忘れて牙を剥き出しにしている。
だがは表情を変えず、ただ真っ直ぐの目を見返していた。
「おめぇの身請けにどれだけの金が動いてると思ってんだっ!!今更嫌だなんて言わせねぇ
っ!!」
正気を失ったように怒鳴り散らすマスターの言葉に、の口端が妖しく上がる。
捕まえた小鳥を逃がさんとする表情。
黄色い歯をむき出しにしてを睨むマスター。
「椿。無理な我侭を言うなんて、お前らしくないね。お前はいつだって大人しく、美しい娘
だったはず」
それがシーツの中であっても、と濃い笑みと共に恥じることなく男は口にする。
その台詞に、は微かに眉根を寄せる。
気味が悪い。
小さな獲物をいたぶるような獣の目。
この男から逃れる術はないのだろうかと、の頭は必死に考えを浮かべる。
それでも何の後ろ盾もない一介の娼婦の彼女には、彼に対抗する手段がなかった。
欲望に任せて暴言を吐くだけ吐いて終わってしまった。
一度抵抗すれば、飼い主は更にしつけを厳しくするだろう。
返って自分の身を滅ぼすだけに終わってしまった。
がそう思った瞬間だった。
それは突然に、カウンターの上に何かが詰まった麻袋が置かれた。
袋が置かれた瞬間、中からジャランという金属の触れ合う音が聞こえてきた。
その袋を差し出した人物に全員の目が一気に向いた。
「・・・・・・さん?」
いつの間に階下に来たのか、いつもの傍にいる女性がそこに静かに立っていた。
「これを。ほんの少し足りないのですが、残りはいずれ必ずお渡しします」
そう言うと、はに向かって深々と頭を下げた。
一瞬静まり返る店の玄関先。
何が起こったかわからない。
は目を見開き、頭を下げたままのを凝視する。
「っ・・・・てめぇ、血迷ったかっ?!」
当然のようにを怒鳴りつけるマスター。
後数日で成立する大事な取引をが拒絶したばかりか、従業員までもが裏切りのような行
為を働いたのだから当然である。
更に怒りの言葉を吐こうとするマスターを、だがが制した。
余裕の詰まった笑顔でを見つめる。
「。これはどういうことだい?失礼だがね、君は一介の世話係であって、私たちの話し
に介入する権利は」
「権利ならあります」
柔和な男の台詞を、が断ち切る。
その瞳には、小さな炎が宿っていた。
一度たりと目下の者に反抗などされたことのない男は、微かに眉根を上げる。
ならば言ってみろというの目を、の目は真正面から見据える。
「権利なら、あるんです。様が知る必要などない、権利が」
一介の世話係の目に、どうしてか男は押されている気がした。
「ほぉ。今日はまた随分と強気だね、」
頬に薄っすらと汗を浮かべながらもは笑顔で問いかける。
はただじっと男を見返し続けた。
「他に何か、私に言いたいことがあるかね?」
あくまで穏やかに男は続ける。
問いかけられたは、一度静かにゆっくりと瞬きをした。
その場を雰囲気がのペースになる。
も、マスターも、も何も言えない。
「あなたでは、椿を幸せにはできません」
唐突な言葉は場の温度を僅かに下げた。
の眉がぴくりと上がる。
「あなたといることを、椿は望んでいません」
その言葉には一瞬だけに視線を向ける。
向けられた少女の瞳は、と同じ空気を携えていた。
に戻される視線。
が初めて女の瞳を怖いと思った瞬間だった。
「何より・・」
ゆっくりとゆっくりと。
まるで聖書を読むかのように、ゆっくりと。
「何より、あなた程度の人間には、椿は勿体無い」
の表情が一瞬で変わったのを誰もが見ていた。
品行方正でいつも冷静な男の顔から、温和という文字が消えた瞬間を誰もが見た。
の肩の震えが、徐々に腕へと降りてくる。
「このっ・・・・・下女風情がっ!」
温和な言葉しか知らないと思っていた口が怒りの言葉を吐き捨てる。
決して逞しいとは言えない男の手が勢いよく振り上げられた。
握り締められた黒い杖が弧を描き、ヒュッと風を切る音がした。
振り下ろされると誰もが思った瞬間。
ガシャンッ
床一面に散らばる黄金の硬貨たち。
の胸に投げつけられて裂けた麻袋が床に落ちる。
相当な重量のものを胸に受け、はごほっと咳き込むと2、3歩よろめいた。
後ろに控えていた従者に支えられた男に、品のない男の声が降りかかった。
「あんたから受け取った身請け金だ。これを持って、とっとと失せてくれ」
普段咥えっぱなしの煙管を口から外し、マスターはつまらなそうな目でを睨ん
でいた。
それはいつものマスターだったら絶対に行わない金持ちの客への態度。
もも目を見開き驚く。
「聞こえなかったのかい?早く店から出て行ってくれ」
マスターの再度の言葉に、呆然としていたの瞳に静かな怒りが浮かぶ。
「この私にそんな口を利いてただで済むと思っているのか?」
権力者らしい台詞に、だがマスターは顔色一つ変えずに静かに煙管を咥える。
その余裕ぶった態度がますますの怒りを買った。
「こんな店の一つや二つ、簡単に潰せるだけの権力が私にはあるんだぞ?!」
激昂する男の声が室内を揺らす。
マスターが吐き出した白煙が微かに揺れた。
「あぁ。かまわねぇぜ」
「な・・に?」
静かに静かに、マスターはカモを相手にするときと同じ目でを見返した。
マスターの濁った目がぎらりと鈍く光る。
「名門出の、東洋研究で名高い氏が遊郭狂いだったなんてぇ、ブンヤの恰好の
ネタになるんじゃねぇかぁ?」
「・・・っ!!」
マスターのたったそれだけの言葉に全てが詰め込まれていた。
の全身の血が一気に引き、次の瞬間には一気に頭まで昇りつめる。
何も言えず唇を震わせる男を、マスターは下卑た笑みで見返す。
とは2人の様子を黙って見つめていた。
不意にはに視線を向けてきた。
目が合ってしまった瞬間、フッと眼をそらしたを見て、の奥歯がギリリと
音を立てる。
「・・・・・私にこんなことをして無事に済むと思うなよっ」
その言葉を残して、床に散らばった金貨を踏みつけながら男と従者は店を出て行った。
ぴしゃりと扉が閉まる音がして、店内に静寂が戻った。
マスターは一人煙草をふかす。
吐き出された白煙が天井を彷徨っている。
は静かに、床に散らばった金貨を拾い出した。
チャリ、チャリと金属の擦れ合う音が響く。
は、動けず、ただ黙ってそこに立っていた。
が金貨を拾うのを黙って見ていた。
マスターが何口目かの白煙を吐き出したとき、やっと声をかけることができた。
「・・・マスター・・・あの」
「邪魔だ。部屋行って寝てろ」
の言葉を遮るようにマスターは早口に答える。
彼のその横顔は、不愉快そうでもなく、苛立っているわけでもなく、いつものようにを
うざったそうに扱うものだった。
何のことはない、いつものマスターだった。
「はい」
だからも何事もなかったかのように静かに返事をして、静かにカウンターを去った。
だが、の階段をのぼる足取りは軽やかで、その表情は柔らかだった。
が立ち去った後の玄関先には、マスターが白煙を吐く音と、が金貨を拾う音だけが
混ざって響いていた。
無言の世界で、チャリチャリと黄金の音がする。
不意にカンッと煙管をぶつける音が響いた。
「惜しいことした。ありゃぁ、最高の金蔓だったのによぉ」
誰に言うわけでもなく、マスターが一人ぼやく。
「金蔓は去っちまうし、働けねぇ椿は残っちまうし。大損だな」
そう言って盛大に白煙を吐き出す。
マスターの方には目を向けず、は静かに金貨を拾い続けた。
「・・・ありがとうございます」
金貨の擦れ合う音に負けてしまうくらい小さな声が不意に聞こえてきた。
マスターはの方をチラリと見て、また視線をそらした。
「うるせぇよ。・・・・・おめぇが泣きそうな面してっからだ」
白煙とともに吐き出されるぶっきらぼうな言葉。
暖かさなど微塵もない言葉に、は僅かに動きを鈍らせる。
また煙草を吸う音だけが聞こえてきた。
僅かに動きを鈍らせながらも、は金貨を拾い続ける。
チャリチャリ、チャリチャリ
「昔、楓なんて名前の娼婦がいたんだよ」
チャリ・・・
不意に聞こえてきた言葉に、の動きが止まる。
それをチラリと見ることもなく、マスターはどこかをぼぉっと見ながら言葉を続ける。
「俺がここを継いで以来の最高の娼婦だったんだがな」
まるで昔話を語るような口調で。
静かな静かな語り口調で。
また一つ、白煙が天井に昇る。
「あの男も二度も同じような女を選ぶか。まぁ客の勝手だが、しかし・・・あの男も女を見
る目がねぇな」
最後だけは、何ともつまらなそうに息を吐き出す。
そしてマスターは煙管を咥え、それ以上語ることはなかった。
・・・チャリチャリ
止まっていた黄色い音が再び聞こえ出す。
金属の無機質な音は、どこか柔らかさを帯びていた。
「・・・ありがとうございます」
決して金属とは溶け込まない種類の、柔らかな声が発せられる。
「うるせぇよ」
払いのけるように、男は白煙と共に言葉を吐き出す。
ゆらゆらと揺れながら昇る煙。
チャリチャリと響く黄色い音。
窓から差し込む午後の光に、金貨たちが淡く光り輝いていた。
その日の夜、はまた桜の部屋にいた。
相変わらず目を覚まさない桜。
彼女が横たわるベッドの淵に肘をつき、少女の横顔を見つめた。
綺麗な睫はぴくりとも動かない。
静かな寝息を立てて眠り続ける少女。
「桜ちゃん。私ね・・・身請けされないですんだよ」
桜からの返事はない。
「あの人の物にならないですんだよ」
返事はない。
それでもは話し続ける。
「・・・よかった」
“よかったね、椿ちゃん”
桜に向かって微笑んでみても、彼女からの返事はない。
それでもそんな声が聞こえた気がした。
「明後日には、きっとまたセブルス君とさんが来るよ。桜ちゃん、早く起きなきゃ」
明後日がにとって最後の逢瀬だとわかっていても、は悲しみを見せることなく笑顔
で桜に声をかけた。
返事は返ってこなかった。
返事を期待してはいなかった。
それでも返事は返ってきた。
自分の身に返ってきたのは、別のものだった。
ゴホッ
何の前触れもなく、一つ咳が出た。
咄嗟に口の前に運んだ手は、どういうわけか真っ赤に染まっていた。
指の隙間から、ぽたぽたと床に落ちていく紅い水。
「・・・な・・に・・?」
疑問の言葉がの頭を埋め尽くす。
消えたと思っていた恐怖が再びの体に舞い降りた。
口端を伝って落ちた雫が、床とシーツに赤い斑点を作る。
「消えたんじゃ・・・なかったの?」
頭に浮かんだ疑問と恐怖を口に出すも、それでも目の前の赤が現実。
恐怖で回らない頭のまま動けないでいるに、あの声が降り注ぐ。
『記憶は返してやったのだから、これぐらいの代償、いただいてもよかろう?』
声は上から降ってきた。
顔を上げるのすら怖い。
それでも、の好奇心がギシギシと体を動かす。
ゆっくりと顔を上げれば、閉じていたはずの瞼を押し上げた深い青の瞳とぶつかった。
「・・・ぁ・・」
『この娘に目を覚まして欲しかったのではないのか?』
聞き慣れたくなどない、しわがれた老婆のような声が耳に突き刺さる。
ぴくりとも動かなかった少女は、綺麗な金糸の髪を上から垂らし、青い瞳を細めてを見
つめていた。
の背中を冷たい汗が流れる。
体が凍ってしまったように動かない。
『明日、星々が動く。だがもう遅い。お前の運命は、もう決まっている』
にたりと微笑んで、少女は一瞬で瞳を閉じた。
次の瞬間には、体の支えを失ったかのようにの方へ倒れこんできた。
「さ・くらちゃんっ」
慌てて桜を抱き起こした瞬間、喉に詰まっていた血の塊がゴボッと溢れ出す。
自分の血で真っ赤に染まった桜を目の前に、の視界は真っ白になっていく。
焦点が合わない。
「いや・だ。早く・・・は・やく来て」
カチカチと奥歯が鳴る。
忘れていた恐怖がの体を包み込む。
「セブルス・くん・・・・早く・・来て」
見開かれた瞳から、雫が一つポタリと落ちる。
乾いた床に落ちて、パンと小さな音を立てた。
夜の談話室に一人、膝の上に本を抱えてセブルスは何をするでもなくぼぉっとしていた。
図書館で借りてきた本もこれで最後。
最早呪いに関する本はあらかた読みつくしてしまった。
だが今は本の内容を頭に詰め込む余裕などなかった。
頭の中にリフレインする、数日前に届いたの容態を知らせる手紙の内容、ルシウスの言
葉、毎夜見る彼女の夢。
何を考えればいいのか、もうわからない。
壊れそうな精神を必死に繋ぎとめる毎日。
膝の上に広げた本に一瞥し、セブルスが静かに本を閉じたときだった。
カチャリと扉が開く音がして、誰かが入ってきた。
「セブルス?まだ起きてたのか」
聞き慣れた友人の声・・・とは少しだけ違っていた。
いつもの澄んだ少年の声は、少しだけ掠れていた。
セブルスは虚ろな目を寮の玄関へと向ける。
口を開くのも億劫だったが、ゆっくりと重い口を開けた。
「。お前こそこんな夜中にどこへ行っていたんだ」
「んー・・・ちょっとな」
そう言葉を濁して、はセブルスの座る椅子の後ろを通り過ぎていく。
相変わらず秘密ごとの多い奴だと思いながら、セブルスも部屋に戻るべく思い腰をあげた。
「なぁ、セブルス」
不意に声をかけられ、セブルスは部屋へと続く階段に目を向ける。
が静かに自分を見下ろしていた。
「なんだ?」
頭が回らないせいで単調な返事になる。
そんなことは気にした風もなく、はゆっくりと口を動かす。
「明日の夜・・・空けておいてくれないか?」
「明日の夜?なんだ、また占いか?悪いが僕は興味な・・」
断ろうとした口が止まる。
の、いつにない真剣な目がセブルスを見つめていた。
いつもの子どもの様な無邪気な笑顔はどこにもなかった。
その真剣すぎる青い瞳が、セブルスに何かを伝えたがっていた。
「・・・・わかった。空けておく」
そう答えるしかないような気がした。
は小さく礼を言うと、静かに部屋に入っていった。
セブルスはしばらく彼の後を追うことができず、立ち上がったばかりの椅子に再び腰を下ろ
した。
回らない頭に、の何かを訴える瞳が浮かぶ。
結局、ゆっくりと襲い来る眠気に逆らえず、セブルスはその晩談話室のソファーで眠りにつ
いた。
その晩、セブルスは愛しい少女の夢を見ることはなかった。
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