ドリーム小説
Maple
【名】楓;糖蜜色
椿姫 maple 8
世界でどんなに悲しい恋物語が終わりを告げようと。
時間はとどまることなく流れ続ける。
記憶をなくした男がイギリスを発ってから、一体どれだけの日が過ぎたのだろう。
誰にもわからない。
誰も数えてなどいない。
だが確実に日常は変化を遂げていた。
「椛。お客様だ」
マスターが煙管を口から外しながら軽い口調で少女に告げる。
胸に椛の造花を飾った少女は薄幸の笑みで客を迎え、奥の部屋へと消えていく。
それ焔を宿しながらも静かな目で見つめる別の少女がいた。
男がイギリスを発ってから、椛はすぐに仕事に復帰してきた。
体調の悪化で仕事が減った楓に代わってひたすら客を取り、いつしか椛は楼一の稼ぎ手と
なっていた。
遊女として、一人の女としても美しさを増していく椛。
楼内にこんな噂が流れるのにそう時間はかからなかった。
“楓の葉が朽ちて椛が紅葉するのもそう遠くはない”
事実、マスターが椛を最高位につかせようかと呟くのを聞く者もいた。
そしてその事実に反感を抱く者は、最早楼内にはたった一人しか存在しなかった。
(冗談じゃない・・・そんなこと、あってたまるものか!)
楓は一人焦っていた。
自分の位が下げられる。
今まで築いてきたものが音を立てて壊れていく。
砂の城の様に脆いものになってしまう。
そうはさせない。
それでも楓はいつからか続く体の不調にどうすることもできなかった。
ただの風邪でもない。
かといって死ぬほどの痛みでもない。
(自分の体なのに・・・自分のものじゃないみたい)
満足に仕事もできず、周囲の反応も薄くなっていく。
(落ちぶれた遊女なんて・・・所詮こんなものか)
そして幾日が過ぎた頃か。
マスターの勧めで楓のもとを医師が訪れ、診察が行われた。
楓が医者にかかっていた間も、椛は薄い笑みを浮かべて客の相手をしていた。
その日の仕事を終え、椛は自室のベッドに腰掛けていた。
床に着かない足をぶらつかせてみる。
以前よりもずっと細くなってしまった、小鳥のような足。
知らない男たちに抱かれるたびに壊れてしまいそうになる体。
客に抱かれながらも気を緩めると叫んでしまいそうになる、あの男の名前。
忘れられない。
忘れられない。
あの人は自分のことを忘れてしまったけれど。
忘れられない。
そばにおいてある一冊の童話を手に取る。
いつだったかあの人が読んでくれた、自分が一番好きな童話。
あの人の声を思い出そうと椛が目を瞑ったときだった。
部屋の扉が静かな音を立てて開いた。
椛は動じることもなく静かに目を開く。
そこには自分と似た造花を胸に飾った少女が立っていた。
椛は薄く笑って少女を部屋に招きいれる。
「何か用?」
怖いくらい落ち着いた椛の様子に楓は微かに体が震えるのを感じた。
目の前の少女から生きた人間のぬくもりが感じられない。
そう思った。
「あんたに・・・・・話したいことがあるのよ」
「そう。なに?」
以前の威圧感はほとんどない楓の口調に椛は抑揚なく答える。
まるで静かな椛が楓を抑えているかのように。
楓はだが静かに唇を開いた。
「マスターが・・・」
思わず椛の目を見てしまい、楓の唇が動きを止める。
決して睨んでいるわけでもなく、威圧感があるわけでもない。
生気など感じさせない椛の瞳が、なぜか怖かった。
「マスターが・・・あんたを百花楼の最高位に就かせるって」
喉につかえていた言葉を吐き出し、楓はゆっくりと呼吸する。
静寂に満ちた部屋。
椛からは何の音も発せられない。
喜びの声も、嘲笑の声も。
それが逆に怖い。
不思議なくらい静かな椛に恐れを抱き、楓は開き直って嫉妬混じりの賞賛の言葉も投げか
けられないでいた。
「それから・・・もう一つ」
楓はゆっくりと落ち着いて息を吸った。
行く宛てのない手をゆっくりと腹部に添える。
その動きはどこか穏やかだった。
「なに?」
抑揚のない椛の声がかえって楓を押しつぶそうとする。
ごくりと生唾を飲み込み、楓はゆっくりと唇を開いた。
“おめでとうございます”
白衣の男が告げた。
“仕事、続けんのか?”
マスターが言った。
“最高位・・・・・降ります”
自分から捨てた。
プライドも、地位も、それまで楓を支えていたものを自分から捨てた。
「私・・・・・の子供、身篭ったの」
大気が震える。
体が熱い。
体が熱い。
体が熱い。
目元が揺れる。
揺れる視界の向こうで微かに少女が笑った気がした。
「・・・もみじ・・」
「幸せになれた?楓ちゃん」
揺れる視界が椛の表情を隠す。
今はもう椛が笑っているのかわからない。
ただ、楓の耳に椛の声だけがはっきりと届いた。
「幸せになりなよ、楓ちゃん。私の分まで。その代わり」
ギシリとスプリングが軋み、椛が立ち上がるのが見えた。
足音も立てず、静かに楓の横を通り過ぎていく。
楓は足がすくんで動くことができなかった。
静かに扉が開く音がして、同じくらい静かな声が楓の背中に投げかけられた。
「私の最初で最後のわがまま、聞いてね。」
静かに扉が閉められた。
夕日が落ちて完全に闇に飲み込まれた部屋。
微かに桃の芳香が漂う部屋。
そこにいるだけで人を狂わせてしまいそうな部屋。
窓から歓楽街のネオンが差し込む。
オレンジ色のネオンが楓の顔を照らし出す。
静寂と狂気に満ちた部屋で、は静かに涙を流した。
“ごめんなさい”
それから何月経ったかわからない。
あの日から楓と椛が言葉をかわすことはなくなり。
椛は順調に最高位の座に座り続け。
楓は娼婦の仕事を休み、店の手伝いをするようになり。
そしてまた幾月が流れて。
それは寒い冬の日だった。
楓は百花楼の一角でひっそりと赤子を産み落とした。
高い産声をあげる女の子だった。
元気に泣く小さな命を見て楓は、痛みの中にだが確かに喜びを感じた。
自分で用意した毛布に赤子をくるみ、そっと胸に抱く。
泣いていた赤子はぐずり、だが声を潜めて小さな手を楓に差し出す。
大切な命に、思わず楓の顔が綻ぶ。
「はじめまして、私の赤ちゃん。あなたの名前は、ね」
痛みに耐えながらそっと呟く。
楼内では一度も見せたことのない、優しげな女の顔を浮かべる。
これ以上ないほど幸せそうに微笑む楓。
きっとこれから新しい、本当の幸せを手にしようとしている楓。
そんな少女の前に、それは舞い降りた。
『。この子の名前は・』
それは舞い降りた。
しわがれた老婆の声を携えてそれは現れた。
産み落とされたばかりの血液まみれの赤子は、静かに薄く微笑んだ。
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