ドリーム小説
がでかけた後もオタベックは何度となく苦しそうに咳き込んでいた。
オタベック、大丈夫?
苦しそうだね。
何かしてあげたいけど猫のボクにはただ見守ることしかできない。
役に立てなくてごめんよ。
布団から伸びてきた大きな手が気にするなと言うようにボクの体を優しく撫でる。
「遊んでやれなくて悪いな」だって。
苦しいくせに猫にまで気なんか回して。
、君が好きになった人は君に負けず劣らず優しい人間みたいだね。
それからしばらく、薬が効いて眠くなるまでの間ボクが彼の話し相手になった。
とはいっても猫と人間だから当然会話にはならない。
彼がぽつりぽつりと漏らす独り言にボクが尻尾を振って相槌を打つぐらいだ。
誰もいない部屋に一人きり、話を聞いているのは猫のボクだけという状況が彼の心を緩めたみたいだ。
ため息とともに彼は胸の内を零す。
「いいな、お前は。いつも彼女のそばにいられて」
カザフの英雄がちょっと羨ましそうな笑みを浮かべて猫のボクを見つめる。
叶うならば自分も彼女のそばにいたいって。
遠く離れていると、たまに無性に会いたくてたまらなくなるときがある。
情けないけれど正直寂しくて心が満たされないときがあるんだって。
オタベックに言ってあげたい。
いつかも同じことを言っていたよって。
そっか、2人とも気持ちは同じなんだね。
離れているっていう、ただそれだけで不安や寂しさは大きくなる。
遠距離恋愛というのは猫のボクが思う以上に大変なものらしい。
2人いつも一緒にいられたらいいのにね。
オタベック、もうカザフに帰らないでずっとここにいたらいいよ。
無責任にそんなことを思いながら彼の指に顔をすり寄せる。
まだ少し熱っぽい彼の目が薄く細められボクを見つめてフッと笑った。
「彼女をカザフに連れていったりしたら、お前とユーリに恨まれそうだな」
え、そっち?
オタベックが残るんじゃなくてが行っちゃうの?
カザフへ連れていくって、それどういうこと?
もしかしてオタベック、本気でのことお嫁さんに……って。
オタベック?
ねぇねぇ、ちょっと。
寝ちゃったよ。
まさかのこのタイミングで。
肝心なところでずるいなぁ。
もっと彼の本音を聞きたかったけれど、やっと薬も効いてきたみたいだしこのまま寝させてあげた方がいいよね。
名残惜しいけれどボクは静かにベッドを降りて部屋を出た。
リビングのソファーに飛び乗り、お気に入りのクッションの上で彼女の帰りを待つ。
オタベックの眠気が移ったのかボクもうとうとしてきて体を丸めてお昼寝の態勢に入る。
目が覚めたら都合よく人間の言葉が話せるようになってないかな。
そうしたら2人の気持ちをそれぞれに伝えてあげられるのに。
そんな夢を見つつ、ぱたりと一振りさせた尻尾を体に巻きつけてボクは目を閉じた。
ピョーチャは語る。 C
が帰ってきたのはそれから1時間後のこと。
玄関の鍵が開く音でボクは目を覚まし、ソファーを飛び下りて彼女を出迎えに行った。
「ただいま、ピョーチャ。遅くなってごめんね」
おかえり、。遅かったね。
うわぁ、いっぱい買ってきたんだね。
彼女の両手には食べ物や雑貨がパンパンに詰まった袋がぶら下がっている。
もしかしてボクのご飯もある?
「ピョーチャにも。一番好きな缶詰買ってきたからね」
やったね、さすが。
彼女はボクの喜ぶポイントを完璧に押さえている。
は重い荷物をキッチンへ置くと足音を立てないようにそろそろと歩いて自室へ向かった。
中には入らず、ドアの隙間からオタベックが寝ていることを確認する。
「よく眠っているみたいね」
足元にいるボクにひそひそ声で話しかける。
ボクは静かに尻尾を揺らして「そうだね」と返事を返す。
ドアは細く開けたままにしてキッチンへと戻った彼女は買ってきたものを冷蔵庫やパントリーにしまい始めた。
扉の開け閉めを慎重に、なるべく音を出さないように片付けているのはきっと眠っている彼のためだ。
荷物をしまい終えるとはお昼ご飯の準備に取り掛かった。
ボクは邪魔にならないようソファーで待機。
リビングまで届くいい匂いに自然と鼻がひくついて髭が揺れる。
ご飯の準備がひと段落した頃、バスルームの方でピーピーと音が鳴って思わず頭を起こして耳をそばだてさせた。
あれは乾燥機が止まった音だ。
お鍋の火を止めてバスルームへ向かう彼女の姿を目で追いかける。
数分もせずリビングに戻ってきた彼女は乾いた洗濯物で山盛りのバスケットを両手で抱えていた。
ソファーの前に腰をおろし、バスケットから一枚一枚洗濯物を取り出して畳み始める。
ボクはソファーの上を移動して彼女のそばに寄った。
畳んでいる洗濯物のほとんどはオタベックのものみたいだ。
昨日ここに来たとき着ていた服に、今朝着替えたときの服、下着に靴下、あと彼の私物のタオルが数枚。
彼女の膝の上に広げられたシャツはユーリのものよりだいぶ大きい。
丁寧に畳まれたタオルがソファーの上に積み置かれる。
乾きたてのふかふかのタオルは思わず上に飛び乗りたくなる。
けどに怒られるから我慢して体を寄せて匂いを嗅ぐに留めた。
「なぁに、ピョーチャ。いい匂いでもするの?」
そうだね。
柔軟剤のいい香りと、その奥にちょっとだけオタベックの匂いが残っているよ。
ユーリやの匂いとは違う異国の香り。
「ピョーチャもオタベックの匂い好きなの?」
そうだね、わりと好きだよ。
尻尾を振って肯定する。
「も」ってことはも好きなんだね、オタベックの匂い。
見上げる先で彼女は微笑む。
「私も好きよ。彼、お日様みたいな匂いがするのよね。だからかしら。一緒にいるとすごくホッとする」
ああ、うん、わかるわかる。
オタベックに撫でられると日向ぼっこしているみたいにぽかぽかした気持ちになるんだよね。
それからこれは猫のボクにしかわからないことだけど、オタベックからはの匂いも微かに感じ取れるんだ。
お日様の匂いに、の匂い。
オタベックはボクの大好きなものの香りで溢れている。
だからかな、ついつい彼のそばに寄りたくなっちゃうのは。
「ねぇ、ピョーチャ」
なぁに、。
彼女はボクの顎をさすりながら複雑そうな顔で笑う。
「私ね、あなたが彼と仲良くしてくれてとても嬉しいの。本当にね、嬉しいのだけれど……」
?
彼女は少し歯切れ悪く語尾を濁しながら言う。
ボクがちょくちょくオタベックのところに行っては彼のそばにくっついているから、それを見て彼女は嫉妬しちゃうんだって。
自分だって彼のそばにいたいのに、って。
でも今は彼にゆっくり休んでほしいから我慢しているのよ、って。
猫のボクにヤキモチを焼いて愚痴る彼女はとってもキュートな顔をしている。
可愛いなぁ、。
今の彼女の姿、オタベックにも見せてあげたいなぁ。
コンコン。
不意に部屋のドアをノックする音が2回聞こえてボクももそちらに顔を向ける。
するとそこにはいつの間にかオタベックの姿が。
部屋から一歩出たところに立ち、外側からドアをノックしてボクたちに存在を知らせたみたいだ。
ほんのりと赤くなった顔を明後日の方に向けている。
おそらくボクたちの話を聞いていたのだろう。
「……っ、オタベック、起きていたの?」って焦る彼女の顔もまた真っ赤だ。
「さっきの機械の音で目が覚めた。その、すまない。盗み聞きするつもりはなかったんだが」
トイレに行こうと思って起きてきたら彼女の声が聞こえて思わず立ち聞きしちゃったんだって。
猫にヤキモチ焼いているのがばれては恥ずかしそうに片手で顔の半分を隠す。
オタベックは盗み聞いた内容には触れず、「手洗いを借りる」と言うとそそくさとバスルームへ行ってしまった。
残されたは撃沈とばかりにソファーに頭を横たえてしまった。
ああ、本当にボクのご主人様は可愛い人だなぁ。
しばらくしてトイレから戻ってきたオタベックにはお風呂を勧めた。
買ってきたカミソリとクリーム、バスタオルを彼に渡す。
「出たらお昼ご飯にしましょう」と言うと彼女はすぐにきびすを返してしまった。
どうやらまださっきの件を引き摺っているみたいだ。
「その間にシーツやカバーも替えちゃうから、ゆっくり入ってきて」
彼女に促され、オタベックはお礼を言ってバスルームへ爪先を向ける。
ボクはベッドメイキングに行ったの後を追いかけた。
作業の邪魔にならないところで彼女を見守る。
シーツと枕カバーを替え終えると今度はキッチンへ。
さっき作っていた料理を温め直し、テーブルにマットを敷いてお昼ご飯の支度を始める。
作業しているうちに気持ちも落ち着いたのか、彼女の顔からは赤みが消えいつもの穏やかな表情に戻っていた。
お鍋がちょうどよく温まった頃、お風呂からあがったオタベックが頭を拭きながらリビングに姿を現した。
ん?あれ?
オタベック、だよね?
髪をおろすとちょっと印象が変わるね。
セットしているとより年上に見えるのに今はユーリと同い年ぐらいに見える。
「風呂ありがとう。さっぱりした。カミソリとクリームはどうしたらいい。浴室に置いたままなんだが」
「そのままでいいわ。後で片付けるから。ドライヤー、洗面台の引き出しに入っているから使って」
「ああ、いや、大丈夫だ。いつも使っていない」
「あら、ダメよ濡れたままなんて。せっかく良くなってきたのに、ぶり返したらどうするの」
は使用済みのシーツ類を抱えてオタベックと入れ違いに脱衣所へ入っていく。
洗面台の引き出しからドライヤーを取り出し、「ちゃんと乾かして」と彼に差しだした。
「私がかけてあげましょうか?」
にっこり笑って申し出る彼女は冗談半分のつもりだったんだろう。
でもオタベックは少し考えた末に「頼む」ってドライヤーを彼女の手に戻した。
言い出したの方が目を丸くして驚いていたよね。
オタベックをソファーに座らせると彼女は彼の前に立って髪を乾かし始めた。
ボクは彼女の足元におとなしく座ってそれを眺める。
おとなしくされるがままになるオタベックは目を閉じていてなんだか気持ちが良さそうだ。
それはも同じで、彼の髪に触れているときの彼女はすごく満ち足りた顔をしている。
ドライヤーのスイッチが切られ、「これぐらいでいいかしら」って彼女が手櫛で髪を整えて終了。
でもオタベックは頭を前に傾けた姿勢のまま動かない。
もしかして気持ちよくて寝ちゃったのかな?
「オタベック?」
が呼ぶと、返事の代わりに彼の頭がぐらりと前に倒れてきた。
彼女のみぞおちの辺りに頭を預けて止まる。
彼の両腕がの腰に巻きついて彼女の体を自分の方へと引き寄せた。
は数歩たたらを踏んで彼の元へ。
突然抱きすくめられるも彼女は拒むことなく、おとなしく彼のしたいようにさせてあげる。
「なぁに、突然」
「……」
優しく甘やかすような声で彼に問いかける。
オタベックは返事をせず、ただ彼女を抱きしめることに集中していた。
「どうしたの」って彼女はまた優しく声をかける。
オタベックも今度は返事を返した。
なんでもない、って。
抱きしめることに理由なんてない。
ボクには彼の気持ちがなんとなくわかる。
オタベック、たぶんに甘えたいんだろうな。
病気で弱っているから尚更、甘えたい、寄りかかりたいって気持ちが強く湧いてくるんじゃないかな。
見た目強そうだし真剣な顔は怖いとすら感じる彼だけど、今はなんだか可愛いなって思える。
彼女もそう思っているんだろうな。
オタベックの頭を優しく撫でる彼女はさっき髪を乾かしていた時以上に幸せそうな顔をしている。
珍しく甘えてくる恋人を全力で甘やかしたいって感じだ。
なんかいい雰囲気だね。
ボクはお邪魔かな、空気を読んで退散した方がいいかな。
でも上を見上げたらと目が合って、幸せいっぱいの瞳がにこりと笑って「大丈夫よ」ってボクにアイコンタクトを送ってきた。
「オタベック、お腹空いたでしょう。お昼にしない?」
お腹が減っていると心も体も弱くなる。
栄養のあるものを食べて今はゆっくり休みましょうって彼女は諭す。
時計を見るとお昼の時間はとっくに過ぎ、もうすぐ午後の2時になる頃だった。
最高のタイミングでオタベックのお腹がぐぅって鳴って空腹を訴える。
はくすくすと肩を揺らし、頭を起こしたオタベックも照れくさそうに笑っている。
2人はダイニングへ移ると向かい合って座り遅めの昼食をとった。
ご飯の後オタベックは薬を飲んで体温計で測温。
熱は36度台まで下がっていた。
まだ少し咳は出るけどほとんど回復したみたいだ。
よかったね、オタベック。
の手厚い看病のおかげかな。
午前中いっぱい寝たから顔色もいいみたいだしね。
午後は起きていても大丈夫そうだけど、でもまだ外出は控えた方がいい。
家の中でできることを考えた末、2人はリビングのテーブルにパソコンを広げて次のデートプランを立て始めた。
場所はどうする。カザフか、ロシアか。
いっそ別の国に遊びに行こうか。
行ってみたいところはないか。
話はどんどん盛り上がって、ここにも行きたいあそこにも行ってみたいって案が絶えない。
選択肢が出過ぎてまとまらなくなってきても2人はとっても楽しそうだった。
一度には行けなくてもこれから時間をかけて2人でいろんなところを旅すればいい。
夢と希望でいっぱいの笑顔を浮かべる2人をボクはソファーの上から見守った。
それからどれくらい時間が経っただろう。
気付くとボクは眠っちゃっていて、目を覚ましたときには窓の外は青紫色に染まっていた。
くぁっと大きな欠伸をしてまだ半分閉じ気味の目を数回瞬きさせる。
あれ、とオタベックは?
2人の所在を探す必要はなかった。
彼らは場所を変えることなくソファーに背を預けて眠っていた。
両腕を組んで何か深く考える人みたいなポーズで眠るオタベックと、その隣で彼に寄りかかって眠る。
つきっぱなしのパソコンの画面にはどこかの国の綺麗な建物の写真が映しだされている。
、こんなところで寝たら風邪ひくよ。
オタベックも、せっかく良くなったのにぶり返しちゃうよ。
あとね、ボクお腹減った。
そろそろ夕ご飯が食べたいな。
ソファーから飛び降りて、床に投げ出されたの手にすり寄る。
何度かぐりぐりと顔を押しつけていたら彼女は目を覚ました。
「ピョーチャ……?」
寝起きの声がボクを呼ぶ。
おはよう、。もう夜だよ。
窓の外を見た彼女は半分しか開いていなかった目を丸くして「夕飯の支度しないとっ」って慌てる。
でも隣で眠るオタベックに気付くとハッとして口を塞いだ。
音を立てないように立ちあがり、部屋からブランケットを取ってきて彼の体にかけてあげる。
ひそひそ声で「ピョーチャ、ご飯にしましょうか」って声をかけられ、ボクたちはオタベックを残してキッチンへと向かった。
大好きな猫缶とカリカリご飯をお皿にあけてもらう。
ボクのご飯を準備し終えると、彼女は自分たちの夕飯の支度を始めた。
ご飯を食べ終えたボクはしばらく彼女の足元をうろついていたけれど、ふとリビングの方で彼が起きる気配を感じてそっちに向かった。
オタベック、起きた?おはよう。
「ん…………ピョーチャ?……ああ。そうか、ここは」
目を覚ました彼は少し寝惚けているようだった。
夢と現実がごっちゃになった?
ここはロシア。ユーリとの家だよ。
彼女は今キッチンで夕ご飯を作っているよ。
そろそろできあがる頃だと思うけど。
「オタベック、起きたのね」
手が空いた彼女が声をかけにやってきた。
大丈夫?熱は上がっていない?
喉の痛みはひどくなっていない?
オタベックの額に手を押し当て熱を測りながら心配そうな顔を彼に向ける。
「大丈夫だ。いい匂いがするな」って食欲もありそうな元気な返事が返ってきてはホッと肩の力を抜く。
「熱もなさそうね。よかった。夕飯は、まだ少し早いかしら」
用を終えた手をオタベックの額から放す。
その手を不意に彼は取り、黙って自分の頬へと押し当てさせた。
彼女の手のひらに顔を埋めて気持ちよさそうに目を閉じるオタベック。
唐突に甘えてくる恋人にの頬がほんのりと色づく。
どうしたの、と問わずにはいられない。
「いや。好きなときに寝て、起きたら飯ができていて。こんなに甘やかされていいのかと思って」
「ふふ。たまにはいいんじゃなぁい?」
具合が悪い時くらい思い切り甘えてちょうだい。
そう言ってが優しく笑うから、オタベックの頬も自然と緩まる。
彼を甘やかしたいと、彼女に甘やかされたいオタベック。
2人が纏う空気はとっても幸せな色をしていて、それはそばにいるボクの心までぽかぽかとあたたかくさせる。
夕ご飯はもう少ししてからということになり、はいつもよりだいぶ早めのお風呂へと向かった。
その間ボクはオタベックに遊んでもらって時間を潰すことに。
オタベック、顔はずっと無表情なんだけどおもちゃを振る手さばきは最高にキレキレで、そのギャップがなんだかおもしろかった。
飽きることなくボクの遊びに付き合ってくれて、ついつい夢中になっておもちゃを追いかけちゃう。
ようやく捕まえたおもちゃのネズミを両手で押さえて齧っていると、リビングテーブルの上に置かれたのスマホがブルブルと震えた。
何かメッセージを受信したみたいだ。
日本に行っているユーリからかな?
バスルームの扉が閉まる音がして、ラフな部屋着姿のが頭を拭きながらリビングに戻ってきた。
オタベックがスマホにメッセージが入ったことを彼女に伝える。
は片手で髪を拭きながらもう片方の手でスマホを持ち上げ操作した。
受信したメッセージを見て、少し考えたのちに親指一本で器用に文字を打ち始める。
メッセージを返すと彼女はスマホをテーブルの上に戻した。
誰からだったんだろう。
ユーリからなら彼女はボクたちにも言うはずだ。
再び両手で髪を拭き始めた彼女にオタベックが声をかける。
メッセージの相手を訊くのかと期待したら当てが外れた。
「髪乾かすの、俺がやろうか」だって。
昼間自分がやってもらったからそのお返しってことかな。
びっくりした顔をするに「俺に任せるのか、自分でするのか」って2択を投げる。
選択肢を与えたつもりだろうけど、俺がやりたいっていうオーラが駄々漏れだよ、オタベック。
それを察した彼女もタオルの中ではにかんだ笑みを浮かべている。
「じゃあお願いしようかしら」って洗面所にドライヤーを取りに行って、今度はがソファーに座ってオタベックが彼女の前に立って髪を乾かした。
の髪はさらさらしていて長いのに全然重さを感じさせない。
無骨な指の間をするりと流れ落ちていく、その滑らかさに彼は改めて感動していた。
触れることを楽しみながら彼女の髪を乾かし、ドライヤーのスイッチを切ると「どうだろう」って新米の美容師みたいな顔で仕上がり具合を問いかける。
に笑顔でお礼を言われて彼は満足げだ。
オタベックがドライヤーを片付けていると再び彼女のスマホがメッセージを受信した。
すぐに手に取り、手早に内容を確認して返事を打ち始める。
「仕事のメールか?」
丁寧にコードを巻きながらオタベックが問いかける。
はスマホから顔を上げきちんと彼の方を向いて首を横に振った。
「仕事ではないけれど、同僚からよ。明日休みだからって今夜からはじけているみたい。今バルにいるから来ないかって」
彼女はスマホに顔を戻し途中だった返事を打ち始める。
丁寧なお断りのメッセージを打って送信ボタンを押す。
オタベックはそれを複雑な表情で見つめていた。
たぶん自分のせいで彼女の行動を制限させてしまっているって悔やんでいるんだろうな。
ボクの予想通り、彼はに「行ってきてもいいんだぞ」って声をかけた。
俺に気を使うな、って。
申し訳なさそうな顔のオタベックに、けれどは少しも未練などないっていうさっぱりした笑顔で首を振る。
「いいの。もうお風呂も入っちゃったし。それにあなたを一人残して飲みになんて行かないわ」
そうだね、なら絶対しないね。
でもオタベックは「俺ならもう大丈夫だ」って回復をアピールする。
「熱が下がればもう起きていても平気だ。それに一人じゃない、ピョーチャがいる」
ボクと遊んで待っているからバル行ってきてもいいぞ、だって。
せっかく有給までとってくれたのに自分のせいで3日間缶詰だなんて本当に申し訳ない。
息抜きしてきてくれって彼は勧めるけれど、が病み上がりの彼を置いて自分だけ出かけるなんてことするはずがなかった。
オタベックは彼女を気遣いそう言ってくれているんだろうけれど、もまた同じくらい彼のことを想っているんだよ。
「バルに行くよりあなたと一緒にいる時間の方が大切なの」
私の気持ちわかってくれる?
そうまで言われてしまってはオタベックももう強くは勧められない。
結局最後まで彼女の首を縦に振らせることはできず、駆け引きは彼の方が折れることで終了となった。
彼女には敵わない。
オタベックの顔に観念した笑みが浮かぶ。
「あまり俺を甘やかさないでくれ。帰りたくなくなる」
明日の夕方にはもうここを発たなければならないのだから。
あまり甘やかされたらいつまでもここにいたくなってしまう。
彼女に甘やかされるの本当は好きなくせに、オタベック無理しちゃって。
本当は帰りたくなんてないんでしょ。
ずっと彼女のそばにいたいって思ってるの知ってるよ。
それはだって同じなんだからね。
「そんなこと言われたら、もっと甘やかしたくなるじゃない」
綺麗な眉をハの字に下げて、困るわって笑みを返す。
も彼に帰ってほしくないって思っているんだ。
ずっとそばにいてほしいって。
だから彼女は恋人を甘やかすためにバルの誘いを断り残り少ない時間を2人で過ごす方を選んだんだ。
2人で食卓を囲み、が作ったあたたかいご飯を食べる。
最後の夕飯が済むと2人は再びリビングで昼間の話し合いの続きを始めた。
彼女が淹れたハチミツ入りの紅茶を飲みながら、たくさん出た候補の中から行きたい国を精査していく。
話は1時間ほど続き、なんとか行き先と滞在するホテルが決まった。
長らくつきっぱなしだったパソコンの電源がようやく落とされる。
時計を見るとまだ夜の10時前。
はオタベックの体調を気遣い、少し早いけどそろそろ寝た方がいいと勧める。
でもオタベック眠れるかな。
午前中も夕方も結構寝ちゃったよね。
本人も全然眠くないっていう顔で首の後ろをさすっているよ。
どうしたものかとパソコンの使い過ぎで凝り固まった首を回してほぐす。
その様子を見ていた彼女はふと何かを見つけて「あ」と小さな声をあげた。
「オタベック。ここ、切れているわ」
の細い指が彼の顎の下を指さす。
本人からは見えない場所、そこに鋭い何かで切ったような傷があった。
血は出ていないけれどうっすらと赤い線になっている。
たぶん昼間お風呂に入ったときカミソリで切ったんだろうね。
指摘されたオタベックは「気付かなかった」と傷跡を指でそろりと撫でる。
「痛くはないの?」
「いや、まったく」
「そう。血は止まっているけれど、でも薬塗っておいた方がいいわね」
は薬箱を取りに自分の部屋へ。
切り傷に効く軟膏を持って戻ってくると蓋を開けて中身を少しだけ指先にのせた。
見えにくい位置だから塗ってあげるって、オタベックをソファーに座らせて彼女は彼の前に立って傷が見えるあたりまで腰をかがめる。
オタベックはおとなしく顔を上に向けて彼女に首をさらした。
なんだか大きな猫が喉を撫でてほしいと誘っているみたいだ。
はそっと傷口に薬を塗りこんでいく。
手当てはそれで終わり。
けれど彼女は処置が済んだことをオタベックに告げない。
彼もいつまで首をそらしたままでいればいいのだろうかと目玉を左右に動かして彼女の様子を窺っている。
「?」
もう前を向いてもいいかと問いかけると、彼が発する言葉に合わせて首筋と喉の筋肉が綺麗に動く。
曝け出された彼の喉元、その中心にある少し隆起した硬い場所に彼女は唇を寄せて触れるだけのキスをした。
わぁお。にしては随分と積極的だね。
オタベックも目を丸くして驚いているよ。
は静かに顔を離し、オタベックも頭を下げて2人の視線がとても近い距離でかち合う。
彼女からの不意打ちにオタベックは照れくさそうな笑みを浮かべ「どうした」と問いかける。
それで彼女は自分が何をしでかしたか自覚したみたいで途端に顔を真っ赤にさせた。
どうやら、無意識にやっちゃったみたいだね。
「あ、の……っ、ごめんなさい……その……なんていうか」
しどろもどろながら彼女は告げる。
理由なんてないの、と。
魔がさしたというか、そらされた彼の喉を見ていたらついキスしたくなってしまったのだ、と。
顔をこれ以上ないほど真っ赤にさせて釈明する彼女は見ているこっちの頬が落ちてしまうほど可愛い。
から仕掛けてくることなんて滅多にないのか、オタベックは満更でもないって顔で笑っている。
「ドキドキした。弱っているところを食べられるのかと思った」
「まさかっ、そんなつもりじゃ……ごめんなさい、いきなり変なことをして」
「いや。俺は嬉しかったが」
君からのアプローチならいつだって大歓迎だ、だってさ。
いつの間に腕を回したのか、オタベックの両腕が彼女の腰を抱いている。
が逃げていかないように引き留めているんだろう。
でもね、オタベック。今日の彼女ははなから逃げるつもりなんてないみたいだよ。
照れくさそうにしながらも彼の両足の間に割って入ってソファーに膝をのせて距離を縮めている。
彼の首に両腕を回して、見つめ合う2人の視線に次第に熱が籠っていく。
あれ、なんだかいい雰囲気だね。
これはボク、退散した方がいいかな。
オタベックの手が彼女の赤い頬を撫でる。
熱っぽい目で彼女を見上げ、「俺も。君にキスしたい」って。
心の底から湧き出る本音を伝える。
は言葉ではなく視線で誘い、彼女の目に引き寄せられた彼は恋人の額と頬にキスをした。
けれど肝心の唇にはせずお預け状態だ。
それはきっと風邪ひきの彼なりの心配りなのだろうけれど、でもは少し不満そうだ。
一番欲しい場所にしてもらえないんだから当たり前だよね。
表情で物足りないことを訴える彼女にオタベックは困ったように笑う。
「ダメだ。絶対にうつる」
俺の気持ちもわかってくれ、って彼は自制する。
けれど今夜の彼女はそんな優しい制止じゃ止まりそうにないみたいだよ。
「私は……構わないわ。私にうつしてあなたが良くなるならいくらでもそうして」
珍しいくらいに強引。
オタベックを見下ろすの瞳にはいろいろな感情が入り混ざっている。
純粋な情欲だけじゃなくて、恋しさも、寂しさも、それから一番強くあるのは彼に甘えたいっていう子どもみたいな気持ち。
彼を甘やかしているうちにいつの間にか自分も甘えたくなってしまったんだろうね。
しょうがないよね。
だっていつだって会えるわけじゃないんだ。
この夜が明けたら明日には彼はいなくなってしまうんだから。
そんな寂しさに満ちた彼女の想いはちゃんと彼に届いたみたいだ。
オタベックの指が彼女の唇を優しく撫でる。
「後悔するなよ……」って少し呆れた笑みを浮かべて。
でも彼もまた熱を孕んだ瞳で彼女を見つめて。
彼女の顔を両手で引き寄せ、静かに、けれど熱く、唇を重ね合わせた。
2人の体がソファーに沈み、スプリングが優しく彼らを受け止める。
2人の間に流れる幸せに満ちた夢のような時間。
明日になったら解けてしまう魔法だから、せめてこの時間が続く限りは一緒にいたいと彼はもう一つ我が儘を申し出る。
「今夜一晩、一緒に寝てくれないか」
こうして触れられる距離にいられる時間は短いから、せめて今だけは離れずにそばにいたい。
次に会えるときまで寂しさで心が挫けないよう充電させてほしい、って。
彼の心の吐露をは少し寂しそうな笑みを浮かべて受け取る。
それは私の台詞よ、って。
2人どちらからともなく顔を近づけ再び唇を重ねる。
時計の針は進み、気付けば10時をとうに過ぎていた。
それでも眠るにはまだまだ早い。
けれど2人に残された時間を考えればもう遅いくらいだ。
を抱きかかえたオタベックが彼女の部屋へ消えていくのを見送って、ボクは2人のぬくもりが残るソファーに飛び乗った。
お気に入りのクッションの上で体を丸めて自慢の尻尾をぱたぱたと左右に振る。
え、今日は一匹で寝るのかって?
本当はね、ボクだってと一緒に眠りたいんだよ。
でも今夜だけはオタベックに譲ってあげるんだ。
2人きりの幸せな時間を過ごせるのは今夜だけだからね。
ボクの出番はたぶん明日の夜。
きっとはオタベックを想ってソファーの上で膝を抱えるんだろうから。
明日の夜はボクが彼女のそばにいてあげようと思う。
リビングの灯りが消されて、彼女の部屋がランプの灯りだけになるのを片目で確認。
ボクは尻尾を体に巻きつけて静かに目を閉じた。
おやすみ、。オタベック。
今夜2人が見る夢が素敵なものになりますように。
心からそう願ってボクは眠りにつくとするよ。
ボクの名前はピョーチャ。
正しくはピューマ・タイガー・スコルピオン。
でも長いからピョーチャ。
ユーリ・プリセツキーと、それから彼女がボクの飼い主。
自分で言うのもなんだけど、とっても主人想いで空気が読める、物わかりのいい2人の愛猫だよ。
←
BACK
SEO
掲示板
[PR]
爆速!無料ブログ
無料ホームページ開設
無料ライブ放送