ドリーム小説
※『サマルカンドはかくも遠く』の半年後の夏のお話。付き合っています。
※JJの弟妹捏造しています。名前はありません。オタベックはJJのことを「ジャン」と呼んでいます(非公式)。
陽炎の先、笑顔の君が手を振る。
待ってくれ、と伸ばした手は届かなくて君はどんどん遠ざかる。
追いかけても、追いかけても、歪んでは消えていく。
灼熱の夏が、君を連れていく。
そんな夢を、もう何度も繰り返し見ている。
Summer Waltzes You 【前編】
■2018 サマーキャンプにて
7月。
ロシア、サンクトペテルブルクの夏は短い。
気温はそれほど高くもなく適度な湿度を保ち、観光するにはちょうどいい。
だが俺が今ここにいる理由は観光ではない。
「オタベック、よく来てくれた。短い期間だがよろしく頼む」
「お久しぶりです、ヤコフコーチ。こちらこそ声をかけていただけて光栄です」
ロシアフィギュアスケート界を支える名コーチ、ヤコフ・フェルツマン。
齢70を超えて今なお多くのスケーターを指導する名将だ。
彼は毎年夏に彼の一門がホームリンクとするチムピオーンスポーツクラブでサマーキャンプを開く。
下はノービスクラスから上はユーリのような有名なシニア選手まで、幅広い層のスケーターを集めて短期間で特訓指導する。
俺がユーリを初めて見たのもこのヤコフ氏主催のサマーキャンプでだ。
そこに今回俺はジュニア選手の指導のサポート役として参加することになった。
カザフスタン出身のジュニア選手も参加しており、その引率も兼ねている。
もちろん自分のトレーニングの場としても活用させてもらうつもりだ。
「オタベック!やっと到着かよ。遅かったな」
「ああ、飛行機が少し遅れてな。ユーリ、元気にしていたか。調子はどうだ」
「悪くないぜ。お前は?」
「まぁまぁだな」
当然そこには友人であるユーリ・プリセツキーの姿もあった。
ヤコフコーチと話す俺を見つけるとすぐに声をかけにきてくれた。
17歳になったユーリは最後に会ったときよりもまた少し身長が伸びていた。
成長期を過ぎ身長が止まった俺の背に徐々に近づきつつある。
髪も伸び、常に後ろで縛っていないと邪魔なくらいにまでなっている。
中性的な美しさは相変わらずで、ロシアの妖精はいまだ健在のようだ。
「はわぁ……オタベック・アルティン、本物だぁ。まさかこんな近くで見られる日が来るなんて」
「おい、ミラ。ババァがオタベックに色目使ってんじゃねぇぞ」
「誰がババァよ、失礼ね。それに色目なんて使ってません。なぁに、ユーリ。またリフトの練習台になってくれるの?」
「ちょ、おい、やめろ、持ち上げんなっ!ゴリラ女!」
軽々とユーリを持ち上げる彼女は女子フィギュアスケーターのミラ・バビチェヴァだ。
ユーリのリンクメイトで世界ランクでも常に上位に名前があるため、面識はないが俺も名前と顔は知っている。
ようやく降ろしてもらえたユーリに「仲がいいんだな」と思ったままの2人の印象を伝えると「よくねぇよ!」と牙をむかれた。
「オタベック、後で連絡先交換しましょ〜」と手を振りながら奥へ引っ込んでいく彼女を見送り、2人になったところでユーリは「そうだ」とスマホを取り出し画面を開き始めた。
「姉ちゃんに連絡しねぇと」
「に?」
「おう。オタベックが着いたら連絡ほしいって言ってたんだ」
「そうか。彼女は元気か?」
「まぁ、元気は元気だな。最近ちょっと仕事で忙しいみてぇだけど」
彼女、・プリセツキーはユーリの4つ上の従姉弟で、今はここサンクトペテルブルクでユーリとともに暮らしている。
市中の観光会社で働いており、観光客が押し寄せる今の時期は書き入れ時で多忙を極めているようだ。
そんな彼女と俺は現在交際中の、いわゆる恋人同士というやつだ。
約半年前、昨シーズンのグランプリファイナルの夜に想いを告げて実った恋だ。
とはいえ俺たちはロシアとカザフスタンと住んでいる場所が遠く離れているため遠距離恋愛を余儀なくされているが。
「つーか、なんで俺に訊くんだよ。お前ら連絡取り合ってんだろ」
「取ってはいるが、声だけではわからないこともある。特に彼女は無理をしていても隠して大丈夫だと言うだろう」
「あー……まぁ、確かにな。姉ちゃんそういうとこあるからな。なんだ、よくわかってんじゃん」
ユーリはスマホを操作する手を止め、俺を見上げてニッと笑った。
俺よりも遥かに彼女との付き合いが長い彼にそう言われると、なんだか少し認められたような気がして嬉しい。
ユーリは俺の目の前で彼女と電話で話をし始め、しばらくするとスマホを俺に投げて寄こした。
「ほらよ。お前に替わってくれって」
虎の顔が描かれたケースに収まったスマホを受け取り耳に押し当てる。
「もしもし」と相手に声をかけると『オタベック?』と聞き慣れた彼女の声が聞こえてきた。
それだけで自然と俺の頬は緩む。
『よかった、無事に着いたのね』
「ああ、少し飛行機が遅れたが。そっちは今仕事中か?」
『えぇ。でももうすぐ一段落つくわ。オタベックは?まさか今から練習なの?』
「いや、さすがに今日はないな。今しがたコーチに挨拶が済んで、これからホテルに向かうところだ」
『そう。それじゃ、今日はもう何もないのね』
「ああ。……、?」
『あの、オタベック……』
「……?」
『その……会いに行ったらダメかしら?』
彼女の声は控えめでどこか申し訳なさそうだ。
常識的な彼女はきっと、長時間のフライトで疲れている俺に気を使ってくれているのだろう。
それに彼女のことだ、練習の一環で来露しているのにそこに恋愛事情を挟んで会いたいとせがむのはどうかと葛藤しているのかもしれない。
律儀だ。けれどそれが彼女の魅力のひとつでもある。
会うぐらいなら構わないはずだ。
というか俺も会いたい。
ずっと会いたかった。
最後に彼女と会ったのは先月の頭あたりか。
もうひと月以上顔を見ていない。
ホテルのロビーで会おうと約束して電話を切り、スマホをユーリに返した。
目深に被ったフードの中から見上げてくる彼の顔は隠すことなくにやついている。
「ユーリ?何を笑って」
「くく……。いや、幸せそうな顔してんなと思って」
「俺がか?」
「他に誰がいんだよ」
「頬思いっ切り緩んでんぞ」と指摘され、俺は思わず鼻から下を手で隠して顔をそらした。
肩を揺らして笑うユーリに「ばーか」とからかわれるも今の俺には何も言い返せそうにない。
キャンプに参加する者たちはみな同じホテルに宿泊することになっている。
チェックインを済ませて部屋に荷物を置き、ロビーに降りてきたところでタイミング良くが現れた。
「オタベック!」
手を挙げてやってきた彼女は初めて見る格好をしていた。
きちっとした七分袖のジャケットを羽織り、くるぶしが見える短めのパンツに足元にはヒールの高いパンプス。
髪はユーリがフリーを演じるときのように縛ってまとめている。
仕事を終えてすぐに来てくれたのが一目でわかった。
「長旅お疲れ様。ごめんなさい、時間をとらせて」
「いや。俺の方こそわざわざこっちに来させてしまってすまない」
「問題ないわ。職場からここまでわりと近いの」
軽いハグをして再会を喜ぶ。
そこが人目の多い場所だからだろう、彼女はすぐに離れていった。
彼女は人前で気軽にキスをしたり過度なスキンシップをしたりしない。
そういう慎ましやかなところが俺は好きだ。
「。少し痩せたか?」
「そう?変わってないと思うけど」
そうだろうか。
ハグしたときの抱き心地が以前と少し違うような気がしたが。
気のせいか、よく見ると頬の肉も若干薄くなっているような。
「仕事大変なのか」
「うーん、そうね。今が一年で一番忙しい時期だから」
にこりと笑う、その笑顔には確かに疲れの色が垣間見える。
最近は帰りが遅い日が多いとユーリが言っていたのを思い出す。
「無理をして体を壊さないでくれ」
「ありがとう。オタベックもね、怪我しないで。キャンプ頑張って」
「ああ」
「ユーラチカの着替えの交換にときどきリンクに行くつもりだから。そのときまた会いましょう」
彼女はこのあとまだ仕事が残っているらしく会社に戻るという。
俺に会うために時間を作って抜け出してきてくれたことに愛しさが募った。
できることなら今ここで彼女を強く抱きしめたい。
人目もはばからずキスがしたい。
けれどそれは彼女が望むところではないから、俺は代わりに彼女の手をとると手の甲に軽く口付けることで譲歩した。
周囲に気付かれないようにすぐに手を離す。
これぐらいなら許してもらえないだろうか。
「来てくれてありがとう。俺は練習に励む。お互い頑張ろう」
「……」
「……?どうした」
「……困ったわ。私、頑張れないかもしれない」
彼女は顔を伏せ気味にし、更には俺から顔を背けてしまった。
気分を害させてしまったか。
やはり今の俺の行動がまずかったのだろうか。
そんな俺の心配は、けれど杞憂に終わる。
金色の長い髪の隙間から垣間見えた彼女の耳は赤く染まっていた。
そのことを指摘してやると、「……オタベックのせいよ」と恨みがましい声で責められた。
「我慢していたのに、あなたがキスなんかするから。……もう今日は仕事にならないかも」
あなたのことで頭がいっぱいで。
どうしてくれるの。
彼女は綺麗な形の眉を若干吊り上げ恨みがましい目を俺に向けてくる。
だが申し訳ないがそんな目元を赤く染めて照れくさいのを必死に隠した顔で言われても俺は愛しさで胸がいっぱいになるだけだった。
交際を始めて半年以上経っても変わらない初々しさを見せる彼女に、「すまない」と謝りながらも俺は自分の目尻が下がるのを抑えられそうになかった。
翌日からサマーキャンプが本格的に始動した。
期間は1週間と短いが、その内容はひと月分の練習を凝縮したように濃い。
かつてジュニア選手時代に参加したときはつらくてどうにもならなかった練習の数々。
シニアになり軽くこなせるようになったかというと、それほどヤコフコーチのメニューは甘くはなかった。
とりわけバレエのレッスンの時間は何年経とうと俺にとっては苦行でしかなかった。
軽々とこなすユーリに「ホントに硬ぇな」と笑われる始末だ。
ひどい柔軟をユーリの専属コーチのリリア氏にも見られてしまい、「基礎がなっていませんね」と厳しい一言をいただいた。
「時間があれば私が直々に指導して差し上げるのですが」
元プリンシパルの直々の指導はありがたくはあったが、ユーリと同じメニューと言われとてもついていける自信はないので丁重にお断りした。
その代わりにと翌日から俺の柔軟の相手にユーリがあてがわれた。
「おらおら、オタベック!まだいけんだろうが」
「ぐっ……ちょっと待て、これ以上は無理だ、骨が折れるっ」
「折れねーよ!ほらいけ、あと10秒」
「いっ……!」
遠慮も容赦もない彼のサポートに、俺の中でバレエのレッスン嫌いが更に拍車をかけることになったのは言うまでもない。
だがそのおかげでか、キャンプが終わる頃には身体測定の記録がだいぶ伸びていたのでそこは感謝したい。
バレエスタジオを離れリンクでの練習ではスピンとジャンプを徹底的に磨いた。
スピンのコツはそれを得意とするユーリに教わり、代わりに俺はステップでのエッジ使いを彼に教えた。
「オタベックさ、お前教えんのうまいな」
「そうか?そんなことを言われたのは初めてだ」
「や、普通にわかりやすいっつーか。どう体動かせばいいのか頭に浮かぶ」
感心したような目を向けられ、それは少なからず俺の自信となった。
今回のサマーキャンプ、俺は自分の練習の他にノービス、ジュニア選手の指導のサポートも任されていた。
若く勢いのある10代の選手たちと一緒にいると自然と自分も元気をもらえる気がする。
そんなことを休憩中に零したらユーリに「じじぃか」と馬鹿にされた。
驚いたのは参加するジュニア選手の中に見知った子たちがいたことだ。
「オタベックだー!」
「オタベック、久しぶり〜!何年ぶり?」
気軽に声をかけに来てくれた彼らはJJことジャン・ジャック・ルロワの弟と妹たちだ。
かつて俺はカナダで武者修行をしていたことがあり、ジャンとはリンクメイトだ。
そのときすでにジュニア選手だった弟妹たちも同じリンクで練習していたので2人とは既知の間柄だ。
「でかくなったな、2人とも。元気にしていたか」
「元気元気〜。オタベック身長変わってないね」
「俺はもうとうに成長期を終えている。お前たちはまだ伸びそうだな」
「伸びる!おれ、兄ちゃんよりでかくなりたいし」
「あまりでかくなってもスケートには不利だぞ」
「それお兄ちゃんも言ってた。けど聞かないんだよね〜」
「来ているのはお前たちだけか。ジャンは参加しなかったんだな」
「うん。お兄ちゃんは今季のプログラム非公開で練習してシリーズ初戦でお披露目してみんなを驚かせるって張り切ってるから」
「そうか。それは楽しみだな」
コーチが手を慣らし休憩時間の終わりを告げる。
「ジャンによろしく伝えてくれ」と言うと2人そろってJJの決めポーズで「オッケー!」と返された。
その後、練習が再開しリンク上の2人を目で追ったがジュニアの中でも彼らの実力は抜きんでていた。
さすがはスケート一家といったところか。
だが彼ら以外の子たちもけして凡庸ではない。
ジュニア選手はみな無邪気で、そして貪欲だ。
教わったことをどんどん吸収し、自分が周りより上に行こうとする意欲が高い。
さすがヤコフコーチのもとに集まったスケーターの卵たちだ。
「ジュニアクラスはほぼ全員このメニューをこなせているな。よし。ならば明日よりメニューのレベルをひとつ上げよう」
ヤコフコーチの決断は早い。
コーチである彼もまた貪欲にこれからの時代を背負う子どもたちを伸ばそうとしていた。
そんな彼らコーチ陣の目に、その存在は果たして留まっていたのだろうか。
キャンプも折り返しとなった中日。
昼食休憩で選手たちがリンクから降り始めてがやついたリンクサイドの隅っこに俺はひとりの少女の姿を見つけた。
ベンチに腰掛けうなだれている姿はどう見ても落ち込んでいる風で、一度気になってしまうと無視できず俺は彼女に声をかけにいった。
「どうかしたのか」
「……っ!」
顔を上げたその子は年の頃12、13歳程度の少女で、胸に下げたカードからジュニアクラスの生徒だとわかった。
大きな瞳からぼろぼろと涙を零して泣いていて、話を聞くとメニューがこなせず練習がつらいということだった。
つい先程コーチの一人にノービスクラスに移らないかと肩を叩かれたらしく、それが余計に堪えているようだ。
メニューの中でも特にバレエのレッスンが苦手だという。
いつかの自分を思い出し、同情せずにはいられなかった。
「上手に踊れないの……。サーラ選手やミラ選手みたいに滑りたいのに……わたしにはできない」
「そうか」
「ユーリ選手は男の人なのにわたしより体が柔らかくてバレエが上手……」
「気にしなくていい。ユーリは特別だ」
彼と比べられたら現役のプリンシパルでも両手を挙げそうだ。
誰かと比べる必要なんかない。
幼い少女の前にしゃがみ、彼女の話を聞きながら自分の話もしてやった。
「俺もバレエは苦手だった。今も踊れない」
「オタベック選手も?そうなの……?」
「ああ。バレエが踊れなければスケートをしてはいけないなんてルールはない。バレエ以外で、君は何か得意なものはないか?」
「……、……。スピン……。スピンは上手だってコーチが言ってくれた」
「そうか。それはいい。俺はスピンも苦手だ。だから俺より君の方がスケーターとしての才能は上だ」
そう言うと彼女はパチパチと瞬きし、長い睫毛に引っかかっていた雫をはらった。
もう涙はとまっている。
彼女の瞳から新たに涙の粒が溢れてくることはなかった。
「諦めるな。サーラやミラ、他の選手にない君だけの武器を手に入れて戦えばいい」
俺はそうやって戦ってきた。
不器用なりにいろいろと考えて。
伝わったかどうかはわからない。
けれど泣いていた少女はそこで初めて笑顔を見せてくれた。
本当はもう諦めて帰ろうと思っていたのだという。
だがもう少しだけ頑張ってみると彼女が言うから、俺はその言葉と笑顔に逆に自分が励まされたような気がした。
「泣いて腹が減っただろう。飯を食ってこい。午後は、頑張れるな?」
周りを見るともう誰もいなくなっていた。
「頑張ってみる」という彼女の返事に俺は安堵し、片手に収まりそうな小さな頭をぽんぽんと叩いてやった。
そのまま席を立つかと思いきや、彼女はしゃがんだままの俺の首に抱きつくと頬に挨拶程度のキスをし彼女の母国語でお礼を告げた。
「グラッツィエ、オタベック選手」
泣き腫らした赤い目が俺に笑いかける。
食事の会場へと走っていく元気な後ろ姿を見送り、やれやれと肩でため息をついて立ちあがった。
思春期の少年少女を抱えるノービス、ジュニアのコーチの苦労が初めてわかった気がする。
大変だが、これはこれでやりがいもあるし勉強にもなる。
さて自分も昼飯を食いに行こうと歩き始めたところで思わぬ人物が死角となる壁に寄りかかっていて俺は目を丸くした。
「ハイ、オタベック」
「。来ていたのか」
「今さっき着いたところよ。着替えを届けにね」
「そうか。いつからそこに」
「んー……『ユーリは特別だ』のあたりから、かな」
少女との会話はどうやら聞かれていたらしい。
肩を揺すって笑う彼女は「オタベックコーチの邪魔をしたらいけないと思って隠れて待っていたの」となんだか楽しそうだ。
指導者気取りで幼い選手を諭していたことがばれ、どうにもむず痒くてうなじの辺りをさすりながら彼女から顔をそらした。
「初めてのコーチ業はどう?」
「大変だな。俺もああやってコーチを悩ませていたんだとわかって改めて感謝の気持ちが湧いた」
「ふふ。それはぜひあなたのコーチに伝えてあげるべきね」
楽しそうな彼女を連れて廊下を進み食事の部屋へ向かう。
彼女の手には大きな紙袋が2つ。
何も言わずにそれらに手を伸ばし運ぶのを代わると「ありがとう」と礼を言われた。
感謝するのは俺の方だ。
彼女はユーリの洗濯のついでだからと俺の服も一緒に持ち帰って洗ってくれている。
正直洗濯は地味に重労働なので練習で疲れる日々の中でその申し出はとてもありがたかった。
ただひとつだけ問題があるとすれば、洗われて返ってきた衣類から彼女の香り(正確には彼女が使う柔軟剤の匂い)がして、疲れて思考が落ちた俺の本能をまずい方向に刺激するということだ。
飢えていると思われ怯えられたくはないのでもちろん口にはしないが。
「練習の方はどう?」
「ああ。なかなかきついな。特にバレエレッスンは堪える」
正直に白状し、ユーリに鬼のような柔軟の補助を受けていると話したら彼女は笑った。
「私が代わってあげられたらいいのだけれど、それは無理ですものね。私にできることで何かあなたを元気づけられることはない?」
遠慮しないで何でも言って、と隣を歩きながらこちらを見上げてくる。
洗濯をしてくれたり、こうして仕事の昼休憩の時間を使って会いに来てくれたり、彼女はもう十分尽くしてくれている。
これ以上何かしてもらうのは申し訳ないと思いつつ、けれど彼女の厚意に甘えたいと思う自分もいた。
考えた末、俺は立ち止まるとトレーニングウェアのポケットから腕時計を取り出した。
黒い革のベルトのそれは彼女が誕生日にプレゼントしてくれたものだ。
色違いで揃いの時計を彼女も手首に巻いている。
「ならば、残り3日。俺が頑張れるように力を注いでくれないか」
彼女が触れてくれるだけでいい。
目には見えなくとも、きっとそれは確かに俺の力になる。
彼女は「あなたが望むなら」と快く了承してくれた。
俺の手から時計を受け取り、大事なものを扱うようにそっと手のひらの中におさめる。
彼女は見えない力をそこに注ぎ終えると、まるでそれに蓋をするように文字盤にキスをした。
彼女が手にしてくれるだけで十分だと思っていた俺は、思いがけない彼女の行動に少なからず驚いてしまった。
時計を返そうとする彼女と目が合うも向こうは驚く俺を見上げてきょとんとしている。
けれどそれも自分がやり慣れないなかなかに大胆なことをしたと自覚すると途端に顔を赤くさせた。
自分でしておいて、なんとも可愛らしい反応だ。
俺は彼女の想いがふんだんに詰まったそれを礼を言って受け取ると再びポケットへとしまいこんだ。
お礼に彼女の手を取り、細い手首に巻かれた揃いの文字盤にキスをして返礼する。
予想外に多くもらいすぎてしまった力を少しばかり彼女に返しておく。
俺にばかりたくさん力を注いで、彼女が倒れたりでもしたら困る。
本当は無機質な時計にではなくもっと別の場所にキスしたいのだが今は我慢しておくとしよう。
そんな本音も含めた目で見つめたら、どうやら俺の気持ちは伝わったらしく彼女はますます頬を赤くし俺から顔を背けてしまった。
けれど「」と名を呼べば、照れくさそうにしながらも目を合わせてくれて眉を落とした困り顔で笑ってくれる。
そうして愛しい彼女から力をもらった俺は、中日を過ぎて周りの奴らの足取りが重くなる中でも力強い一歩を氷の上に踏み出すことができたのだった。
そして長いようで短い1週間を終え、ゆっくりとサンクトを観光する暇もなく俺はアルマトイに帰る日がやってきた。
空港にまで見送りに来てくれたはゲートで別れる寸前にユーリから預かってきた言伝を俺に伝えた。
「日本にいるヴィクトルと勇利から、今年の夏もまた日本に来ないかってユーラチカにお誘いがあったんですって。また私とオタベックも一緒にって」
その一言で思い出されるのは去年の夏の記憶。
彼女に気持ちを伝えるには勇気が足りず、ただただ彼女を想い続けていた日々。
ユーリに誘われて訪れた勇利の家、長谷津の夏祭り、そこで思いがけず知ってしまった彼女の気持ち。
空港で彼女に立てた誓いと約束。
あれからもう一年経つのか。早いものだ。
休みをとってまた一緒に日本に行こうと言う彼女に俺が断る理由はひとつもなかった。
「ユーラチカがね、またあの遊園地にも行きたいんですって。ほら、グランプリファイナルの次の日にみんなで行ったあそこ」
「ああ、東京の」
正確には東京という名前はついていても所在地は千葉らしいが。
ユーリが相当楽しんでいたことだけは覚えている。
今年の夏は長谷津で、そして東京で、去年より少し長めの夏休みを過ごすことになりそうだ。
グランプリシリーズに向けて本格的に集中し始める前の最後の気晴らしだ。
夏を過ぎたらまたしばらく彼女とも会えなくなる。
そう思うと日本への小旅行は楽しみなような、そうでないような。
そんな少し複雑な気持ちのまま彼女の誘いを受けた俺はアルマトイに戻るとすぐにコーチに休暇を申し出た。
8月、俺たちはまた日本の灼熱の太陽の下で夏の思い出を作ることになる。
→ To be continued
※waltz(es) 【他動】@〜とワルツを踊る Aさらうように連れていく
※わりとどうでもいい設定
JJ弟 → 兄ちゃん呼び。語尾の伸ばし方が「ー」
JJ妹 → お兄ちゃん呼び。語尾の伸ばし方が「〜」
2人とも兄ちゃん大好き。
BACK
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