太陽がまもなく地平線の向こうへ姿を消そうとしている。
昼と夜が移り変わる時、薄暗闇に紛れて魔物が現世に姿を現すと古き人は語る。
夜の帳が降りれば、そこは魔の物の領域。
人の理性を容易く食らい、欲に忠実なただの獣へと姿を変えさせる。
「俺の宿に来るかい、お嬢ちゃん」
「……、……」
薄暗いバーの片隅。
長い口付けから彼女を解放したジークは火照った彼女の耳元に口を寄せて甘い誘いの言葉をかける。
男を見つめるの瞳は虚ろげに揺れていた。
それは彼女の体中にまわったアルコールのせいか、はたまた彼女の理性を奪った巧みな口付けのせいか。
否、きっとどちらかではない、どちらもが要因なのであろう。
窓の外に見える空が徐々に藍色を濃くしていく。
黄昏時の魔物に易々と理性を食われた娘は目の前にいる出会ったばかりの男へ容易に心を開いてしまう。
(つれてって……)
の目尻がほんのりと朱に染まる。
心ここにあらずという揺らいだ瞳は男をじっと見つめ、そして彼女の唇は彼の誘いを受けるために小さく開いた。
「つ」
sequel 7 : すべては逢魔が時のせい
カランと乾いたドアベルの音が背後に聞こえた、その直後。
「誰が男とよろしくしながら待ってろって言ったよい」
怒気と呆れをふんだんに含んだ声がの背中に投げかけられた。
後ろにいるのが誰かなんて振り向かずともわかる。
「マ、……──んんっ!?」
「おらよ」
彼の名を呼ぼうとした瞬間、彼女は背後に立った彼にがしりと頭を鷲掴みにされてしまった。
そのままジークから引き剥がすように彼女の頭は後ろへガクンと倒され、否応なしに上を向かせられる。
「マルコ、さん……」
「おーおー。いい感じに酔ってやがるな」
見下ろしてくるのは予想通り、がずっと待ち続けていた人。
しかしその眉間には皺が寄り、声と同じく怒りと呆れがこれでもかというほど顔に滲んでいた。
「お疲れ様でした。遅かったですね」
「思ったより積み荷が多くてな。それはそうと、……」
「はい」
「てめぇ……この野郎、また理性が薄れるほど飲みやがって」
「あはは……、ごめんなさい」
「あははじゃねぇ! ったく、他の野郎にお持ち帰りされる寸前まで飲む馬鹿がどこにいる」
マルコが舌打ちとため息のダブル攻撃で苛立ちをぶつけるも、「すみません」と再び謝罪するの顔はへにゃりと笑っている。
反省の色はどう見ても薄い。
頭が痛い、とマルコは自分のこめかみをぐりぐりと指で押した。
がもともとこういう性格の女であることはわかっていたつもりだ。
酒の勢いで一夜限りの愛を享受する悪癖の持ち主。
酔って理性が崩れた彼女はすぐに行きずりの男にお持ち帰りされてしまう。
マルコと彼女が初めて出会い関係を持ったときも今とまったく同じ状況だった。
そのときは彼女の自由奔放な愛の求め方を悪くないと思ったマルコだったが、けれど今は。
(今は、俺の女だ。勝手なことをされちゃ困るよい)
以前のように誘われるがままふらふらと他の男についていくようなことをされては困る。
酒を飲むなとは言わないが、最後の一線だけは越えてくれるなというのが譲れない彼の願いだった。
「おら。しっかりしろよい」
「痛っ……、何するんですか」
「何するんですかじゃねぇよい。ったく」
マルコに少々強めに両頬を叩かれ、は眉をしかめて非難がましい目で彼を訴える。
だが彼はそれを無視し、「さて、な」と視線を正面に座る男に移した。
ジークは突然のマルコの登場にも驚くことなく、さっきからの2人のやり取りを頬杖ついた格好で楽しそうに眺めていた。
「すまねぇな。うちのもんが随分と世話になったみてぇで」
「いや、なに。楽しいひと時を過ごさせてもらったさ。まぁ、なんだ。少しばかり心残りはあるがな」
ジークはマルコからへと視線を移し、意味ありげな笑みを口元に浮かべる。
あと少しで彼女と素敵な夜を過ごせるはずだったのに、という挑発的なメッセージが否応なしに伝わってきてマルコの目元を険しくさせる。
だがジークはマルコの睨みをするりと交わすと、思いのほかあっさりと降参の白旗を振った。
「そう怖い顔をするな。心配せんでも手を引くさ。俺もさすがに白ひげの一軍のメンツとやり合うつもりはないんでな」
ジークの視線がマルコの胸に刻まれた白ひげのマークに向けられる。
そのシンボルを知らない者などこの海にはいない。
その印を所有する者に不用意に手を出そうなどという無謀者もいない。
若い娘との甘い一夜は魅力的で捨てがたいが、その代償が四皇からの報復とくれば足も踏みとどまるというもの。
「そいつは賢明な判断だよい。さすがは海猟ってところかねぃ」
「なんだ、ばれてたか。じゃ、尚更俺は退散するとしよう」
ジークは片手を挙げてひらひらと振ると足元のさして大きくもない荷物を拾い上げた。
グラスに残った酒を一気にあおり、懐から麻の袋を取り出してカウンターの向こうに声をかける。
「店主、勘定を頼む。このお嬢ちゃんの分も一緒で構わねぇ」
「へぇ、まいど。少々お待ちを」
「え? や、あの……、ジークさん、私」
「いいんだ。俺に出させてくれ。あんたのおかげで楽しい時間を過ごさせてもらった、これはその礼だ」
「はぁ……、楽しませていただいたのは私の方な気もしますが。なんだか申し訳ないです」
払わせてしまっていいのだろうか、とは殊勝な顔を彼に向ける。
そこにはもう、つい先程までジークに見せていた蠱惑的な雰囲気の彼女の姿はなかった。
(まるで別人だな……)
彼女のあの妖艶な姿は一体なんだったのか。
逢魔が時が見せた、人を欲深い道に引き込もうとする幻影だったのではないかとすら思えてくる。
はしばし迷った末、「ではありがたく」と素直にお礼を言ってジークにぺこりと頭を下げた。
揺れる短い白髪、小さな頭がなんとも可愛らしいと思いながら、ジークの目は彼女のすぐ後ろでおもしろくなさそうな顔をするマルコへと向けられる。
「なかなか可愛い恋人だな」
「藪から棒になんだよい」
「素直にそう思ったから言ったまでだが」
「……まぁな。自慢の女だよい」
「そうか。だが、そう思うのならもう少し厳しく躾けておいてもいいんじゃねぇかと俺は思うがね」
「……」
まるで忠告でもするかのようなジークの言葉にマルコの眉間に再び皺が寄る。
(笑えねぇ冗談を言いやがる……、けど)
言いたいことはよくわかる。
おもしろくないと思いながらもマルコの口から否定や反論の言葉が出ることはなかった。
ジークは荷物を肩にかけると「じゃあな」と別れの挨拶をして足を踏み出す。
2人の横を通り抜ける際、彼はマルコにだけ聞こえるように小声で囁いていった。
「手を出したのは俺だがな。だが、お嬢ちゃんもなかなか満更じゃなかった」
目の届かないところで見知らぬ男に簡単に身を預けてしまわないように、首輪でもつけてしっかり躾けておけ。
そう言い残し店を出ていく男の背をマルコは睨むような目で見送る。
彼の忠告は悔しいがあまりにも的を射ていて、ぐうの音も出ないマルコは頭をぐしゃぐしゃと掻いて盛大なため息をつくしかなかった。
*
その後どうなったかというと、が手を付けられた酒場で飲む気にはならないとマルコが意見し、2人はモビーに戻って甲板で酒瓶を傾けることになった。
すでにだいぶ酔っているもマルコに付き合いちびちびとグラスを舐める。
すっかり太陽は沈み空は濃い紫色に、そこに浮かんだ月がぼんやりと光り2人を照らしていた。
船内はとても静かで、時折波が船体にあたって立てる水しぶきの音が鮮明に聞こえてくる。
今夜はほとんどの船員が陸の宿に泊まるらしい。
船内に残っているのは数名の見張りと、揺れない陸は嫌いだという変わり者のクルーぐらいだ。
「マルコさん、彼のことご存じだったんですか?」
船縁に背を預けて寄りかかり酒瓶を傾けるマルコに、は彼とは反対に船体の方を向いて寄りかかり街の灯りを見つめながら問いかける。
きゅぽんと酒瓶から口を放す音が聞こえ、次いで答えが返ってきた。
「海賊やってたら知らねぇ方がおかしいよい」
「そんな有名な方だったんですか、ジークさんって」
「あぁ。フルネームはヴォルフガング・ジークフリート。俺たち海賊は『海猟のジーク』って呼んでる」
「かいりょう……?」
「海の狩人って意味だ。縄張りはグランドライン前半の海。結構な額の海賊を狙う、あいつは悪名高い海賊狩りだよい」
賞金首ハンターだと彼自身も名乗っていたけれどまさかそんな著名な人物だったとは、とは思わず「へぇ」と感心してしまう。
もう会うことはないと思うが、この世界は広いようで狭い。
もしかしたらまたどこかで、なんていうことがありえないとも限らない。
「それはそうとだ」
「はい? わっ、……ちょっ」
ジークのことを考えていたら不意にの首にマルコの腕が巻きついてきて強い力で引き寄せられた。
不測の事態に彼女の手の中からグラスが離れ、ゴトンと重たい音を響かせて甲板を転がっていく。
お酒がもったいない、けどグラスが割れなくてよかった、などと呑気をことを考えていれば、彼の両腕がの胸の前に回りぎゅっと抱きしめられてしまった。
シャツ越しに背中に伝わってくる彼の体温は酒のせいか、はたまた元々の彼の体温か、とても熱い。
「マルコさん……?」
「ったく、お前ぇは……。どこの誰ともわからねぇ野郎に簡単に体を許すたぁ、どういうことだよい」
マルコは唇をの耳元に寄せて熱い息を吹きかけるように問いかける。
は吐息のくすぐったさに身をよじりながら「体は許してませんよ」と反論する。
だが素直に認めない彼女の態度は彼を余計に苛つかせるだけだった。
「キスされてたじゃねぇか」
「う……」
「それも濃厚なやつを。何回もな」
「うぅ…………」
どうやら見られてはまずいシーンをしっかり見られていたらしい。
もはや反論することもできず、はおとなしくマルコの怒りと呆れ混じりの覇気を背に受け黙り込む。
ようやく認めて静かになった彼女にマルコはため息ひとつつくと、仕置きだとばかりに彼女のうなじに唇を寄せた。
「いつまでもワンナイトラブ気分でいられたら困るんだけどねぃ」
「え? ぁ……、やっ」
首の後ろに走ったちくりとした小さな痛みに思わずは声をあげる。
それが所有の証を残す行為であることなど見なくともわかる。
痕をつけられること自体は嫌いではないけれど、服で隠せないところに残されるのは少々困りものだ。
やめてほしいと呟いたの小さな訴えは、だがマルコにあっさりと無視されてしまった。
「ちょっ、……あの……マルコさんっ」
「……」
「や、ぁ……っ」
マルコの指が彼女のネクタイを解き、シャツのボタンをひとつふたつと外していく。
そうして緩んだシャツの襟に指を引っかけ後ろへと引っ張って肩を剥き出しにさせ、そこに無数の赤い花を散らしていく。
首筋から肩へ、背中の中心、それから浮き出た肩甲骨の上にも。
人がいないとはいえ、そこが視界を遮るもののない甲板であることも気にせず、マルコはへ仕置きを続ける。
初めはも自分が悪いのだからしかたがないとおとなしくされるがままになっていた。
けれどふと頭上の見張り台に人の気配を感じてしまい、そうだ誰もいないわけじゃないんだとわかるともうダメで、押しとどめていた羞恥心が一気に彼女に襲いかかってきた。
「マルコさん、人がっ……見張り台……」
「あ?」
「見られてる、かも……」
「あぁ……。俺は別に気にしねぇが」
「え、えぇ……っ」
まさかの回答にの顔は驚きと焦りと戸惑いと羞恥と、いろいろな感情が混ざった複雑なものになる。
だが一番大きいのは羞恥だ、暗がりでよく見えはしないが彼女の耳も首筋も間違いなく朱に染まっている。
どうにかマルコをとめられないか、彼女は必死に頭を巡らせる。
けれどいくらが嫌だと言ったところできっと彼はやめてはくれないのだろう。
それならば、せめて。
「……、……ここじゃ、嫌です」
これぐらいの譲歩は聞いてほしい、と切なる声で彼女は訴える。
場所さえ替えてくれれば彼が望むようにしてくれて構わない。
自分を抱きしめる彼の腕に手を添えて囁くように訴えれば、再び彼の唇が耳元に寄り熱い吐息とともに彼女の名を呼んだ。
「俺の部屋でいいかい」と楽しげに問う彼に、はここよりずっといいと安堵して小さく頷く。
だが次いで告げられた彼の言葉に、その安心は一瞬のものだったとすぐに悟るのだった。
「ホッとしてんじゃねぇよい。言ったろ、こいつは仕置きだって」
「う……」
「部屋に行ったら……手加減はしてやらねぇよい」
「……っ、……はい」
背中を覆う熱さと自分ではどうにもできない力強さに、は逃げ出すことを早々に放棄する。
今の彼女にできることはもう、軽率な自身の行動を悔やみ、彼の仕置きに従順に応じる、そのふたつだけだった。
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ヤキモチマルコ隊長の回。
お仕置きという言葉がどうにもこうにも好きでたまらない、変態な作者ですみません。
余談ですがジークの苗字「ヴォルフガング」はドイツ語からいただきました。
「狼=ヴォルフ」+「道、旅=ガング」。実際にある苗字です。
タイトルを少々変更しました(改編前『心乱れる逢魔が時』)
次回、8話は裏口からお入りください。
2018/07/16 加筆修正
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