ゆっくりと瞼を押し上げる。
目の前に広がる果てしない暗闇と遠くに聞こえる穏やかな波の音には再び閉じそうになる瞼をなんとか半分ほどで押しとどめた。
怖いほど静かな夜が横たわっている。
暗すぎて時計を見ても時間を確認することはできないが、たぶん夜明けまでまだだいぶある。
(あれ、私……どうしたんだっけ?)
頭はぼうっとするし、体も妙に怠い。
状況を把握しようと2、3度瞬きしたところでようやくは自分の体を背中側から抱きしめる者の存在に気付く。
鍛え抜かれた男の体が背中にぴたりと密着していて体温と鼓動が直に感じられる。
逞しい両腕は腹に巻きつけられていて寝ていながらに絶対に彼女を離さんという意思が伝わってくる。
(あ……、そっか)
不意に抜けていたの記憶が蘇る。
そうだ、マルコが1週間の偵察任務から戻ってきたのだ。
船長への報告と湯浴みを済ませてくるから部屋で待っていろと言われて大人しく彼の部屋で待機していた。
そして戻ってきた彼はに有無を言わせず彼女をベッドに押し倒し、長旅で溜め込んだ欲を彼女の体にすべて放ったのだ。
(私、意識飛ばしちゃったんだ。……うわ、恥ずかしい)
記憶が戻るや途端にの頬はほんのりと色付き、耳にも熱が集まりだした。
行為の途中までは確かに意識があったはずだが、一体どこで気を失ってしまったのだろう。
わからないが、体の怠さから推測するにだいぶ長いこと彼に抱かれていたことは確かだ。
自分のすぐ真後ろから聞こえてくる静かな寝息に耳を傾ける。
1週間飛びっぱなしでいたことに加え、帰宅早々の荒々しい行為で完全に体力を使い切ったのだろう。
まったく起きる気配のない彼に「勝手な人だなぁ」とはこっそりと呆れ笑いながら、けれどマルコを起こさないよう極力身動きをとることは控えた。
(夢見、悪かったな……)
ふと、目が覚める寸前まで見ていた夢を彼女は振り返る。
悪い予感ほど的中するものだ。
思った通り、迷う彼女の心がそのまま具現化したような夢を見てしまった。
迷い込んだのは出口のない迷宮、そこを自分があてどなくさまよい続ける夢だ。
どこまで行ってもゴールなどないのに、愚かにも立ち止まって考えることもせずただひたすら進み続けて疲弊していく。
なんとも面白みのない夢だ。
そしてこんな夢を見てしまう原因ははっきりしている。
(あなたのせいですよ……、シャンクスさん)
小さなため息とともに目を閉じれば、の脳裏に思い出されるのは印象深い赤い髪。
そしていつかの夜明けに彼を見送ったときに交わされた会話、それもまた耳の奥に蘇ってくる。
「ん……」
「……!」
不意にマルコが身じろぎ、起こしてしまったかとは言葉を発してもいない唇をきゅっと閉じた。
だが彼は眠ったままで、自分の腕の中に彼女がいることを確かめるかのように柔い腹を撫でさすり始める。
そしての存在を確認すると安心したのか、またスゥスゥと寝息を立てて動かなくなった。
よかった……とホッとしながら、は普段は見せることのない彼の甘えた姿に思わずくすりと口元をほころばせる。
常に白ひげの右腕としてクルーの先頭に立ち指揮を執る男が、今はこうしてひとりの女を抱きすくめ、他の誰にも見せない無防備な姿を晒している。
その相手が自分であることが、彼が自分を選んでくれたことがはたまらなく嬉しかった。
思わず腹の上に置かれた彼の手に自分の手を重ね、そっと撫でてしまうほどに。
(私は、マルコさんのこと……たぶん……きっと……)
曖昧ながらも答えが出そうなことには口元を緩め、静かに目を閉じる。
だがどうしてだろう、閉じた瞼の裏にチカチカと光るのはやはり彼女が望む色ではない赤い星だった。
閉じたばかりの目を開け、は苦しげに眉を寄せて唇を噛む。
簡単にゴールに行き着かせてくれない、いつまでも彼女を迷宮に留めようとするかのような彼の存在には胸の内で「どうして……」と何度も問う。
あぁ、今夜はもう眠れそうにない。
は安眠を諦め、マルコの腕の中でそっと自分の体を抱きしめた。
sequel 16 : 愛の不在証明
昇る朝陽は眩しく、それを背に受けるシャンクスの顔は影になっていて表情がよく見えない。
その代わり彼の声は鮮明すぎるほどよく聞こえ、それが空耳や聞き間違いであることをに許してはくれなかった。
「お前は本当にマルコのことを愛しているのか?」
「……、……──」
脈絡なく告げられたその問いに、の思考は一瞬停止してしまう。
どうしてこの人は突然そんなことを……?
寝不足で動きの鈍い頭を無理やり回し、「なんですか、藪から棒に」と笑って問いを一度彼に投げ返す。
だがそれはあっさりと切り捨てられ、それどころか余計に鋭い刃となってのもとへ突き返されることになった。
「答えないのか? いや、違うな。答えないんじゃない、答えられないんだろう」
「……」
「黙っているところを見ると図星のようだな」
これはもう質問ではない、もはや詰問だ。
シャンクスに痛いところを突かれ、はどう答えたものかと口籠り視線をさまよわせる。
そんな彼女の様子を見たシャンクスはやれやれと肩で息をついて苦笑した。
「答えられないはずだ。、お前はマルコを真に愛してはいないのだからな」
「どうして……、なぜそんなにはっきりと言い切れるんです」
問われた本人には明確な答えが出せないというのに、なぜ赤の他人であるシャンクスがそんなにも自信ありげに答えることができるのか。
不思議でならないとは眉をわずかにひそめる。
「失礼を承知で。あなたは、シャンクスさんは会って数時間足らずの私の何をご存知だと言うんです」
まさか人の心が読めるとでもいうのか。
いやまさかそんな、いくら見聞色の覇気の達人でもそこまでのことはできやしない。
不審がるにシャンクスはおかしそうに肩を揺らして自信ありげな発言の出所を明かす。
「おいおい。そのたった数時間足らずであっさりと本性を垣間見せたのはどこのお嬢さんだ」
「え?」
「まさか忘れたわけじゃないだろうな、ゆうべのことを。亭主以外の男の誘いにころりと身を委ねそうになった移り気な娘は」
「あ……」
「さて、な。果たして誰だったかな」
「……」
またしても痛いところを突かれてしまった。
もはやぐうの音も出ず、は気まずさから再び視線をそらし頬を掻きながら苦笑いする。
「……私、ですね」
「自覚があるのなら結構だ。しかし意外だった。清廉そうな見た目に反し、実はあまり心根は貞淑ではないようだな。お嬢さん」
「あはは……、お恥ずかしながら。返す言葉もありません」
「若いのに随分と人生経験豊富と見える」
「そんな……大層なものじゃありません。ただただだらしなく、品行方正とは程遠い生き方をしてきてしまっただけです」
シャンクスの人を見る目は確かだった。
は観念し、「軽蔑してくださって構いませんよ」と自嘲する。
綺麗に見られることなどとうに諦めているとでも言うかのような笑い方だった。
その笑みがあまりにも儚く、だが同時に美しくもあり、彼女の本性を突っついて責めることをしながらシャンクスはなるほどこれはと思うのだった。
(なるほど……マルコが惚れるのも頷ける)
がこれまでに歩んできた人生、そこから醸し出される憂いの香りにマルコは惹かれたのだろう。
そうシャンクスは推察した。
自分自身を大切に想えないまま生きてきてしまった憐れな娘。
かりそめのその場しのぎの愛ばかりを食らい生きてきた、ゆえに彼女は真に人を愛することを知らない。
(心に決めたひとりの男を愛することをしない……いや、愛し方を知らないと言った方が適切か。ともかくそんな彼女の心を自分だけに向けさせたい、と。そういうことか、マルコ)
なるほど、なんとも海賊らしい、独占欲と支配欲の塊のような愛だとシャンクスはクッと唇の片端を上げて笑う。
難儀な愛の道を選んだ彼に思わず同情してしまいそうになった。
「俺はお前の生き方を肯定も否定もしない。ただ、お前に心底惚れているマルコのことが同じ男として少々不憫に思えてしかたがないだけだ」
「不憫、ですか……」
シャンクスの何気ない言葉が思いがけずの胸に突き刺さった。
自分がマルコに申し訳ないことをしている自覚は確かにある。
だがこうして第三者から改めて指摘されるとさすがに胸に来るものがあった。
───ちゃん。マルコのこと、よろしく頼むな。
不意にこの船に乗った日にサッチにかけられた言葉がの脳裏をよぎった。
形の良い眉は下がり、彼女の表情は苦しげなものに変わる。
シャンクスにマルコへの愛を問われ、はっきりと答えを出せない自分はマルコを癒せる存在になんて到底なれはしない。
「私は、どうしたらいいんですか……?」
「ん?」
「私は……。私は、マルコさんが私に向けてくださる気持ちが嫌ではありません。……いえ、……純粋に嬉しいです」
「……」
「でも、それだけじゃダメだっていうことですよね? それなら私は……私は一体どうしたら」
ずっと問われる側だったがそこでようやく問う側へと足を踏み出した。
だが彼女がシャンクスに向けて投げた問いはあまりにも稚拙なものだった。
そして自分で考えることを放棄したかのようなそれにシャンクスは珍しく怒りを垣間見せる。
「結局お前は自分に向けて差し伸べてくれる手を取っているだけで、自ら愛を伝えることはしないんだな」
「え?」
「そういうことだろう、。お前は与えられる愛を与えられるがままに受け取るだけで、それを相手に返したことはあるのか?」
「相手に……返す」
「あぁ。答えなど聞かずとも明白だ。ないんだろう」
「……」
きっぱりと言い切るシャンクスに「そんなことはありません」と毅然と反論することは果たしてにはできなかった。
何も言い返せない、彼の言葉を否定できない。
確かに彼の言うとおりだった。
(愛を返す……相手の愛に、応える……)
いつもそばにいてくれるマルコに、いつだって危ないときには助けに来てくれるマルコに、の存在そのものに価値があると強く自分を求めてくれたマルコに。
自分はいまだ何も返せていない。
そのことに改めて気付かされ、は後ろ手に組んだ両手をぎゅっと握りしめ顔を俯かせた。
「マルコがお前を深く愛するその一方でお前の気持ちは茫洋としていてはっきりしない。だからだろうな。お前たちを見ていると、まるでマルコひとりの片思いのように見えてくる」
「片思い……」
シャンクスの容赦ない言葉のひとつひとつがの胸をずきりと軋ませる。
自分のはっきりしない気持ちがマルコを苦しめているのだと間接的に言われてしまった。
顔を上げられない、俯いたままのにシャンクスは同情することなく問いを投げかけ続ける。
「、お前にもう一度問う。お前はマルコのことをどう思っているんだ」
「……私、……私は」
「あいつのことを愛しているのか、愛していないのか」
どちらなんだと2択しかない回答を求められ、はきゅっと唇を引き結んで言葉を閉ざす。
俯いていてもシャンクスの真っ直ぐな視線が感じられて、できることなら今すぐ背を向けたかった。
見えない圧におされながら、はいまだ答えの出ない迷う心のままに唇を開く。
「……、き」
「嫌いじゃない、というのは答えにはならないぞ」
「……っ」
「白も黒もない、灰色の答えで濁すのはやめろ。そういう狡い逃げ方はなしだ」
「甘えるなよ、」と叱る声は厳しく、だがどこか優しさも感じられる。
彼がただ怒っているだけではないと感じたは俯かせていた顔をおずおずとあげた。
けれどまだ真正面から彼を見つめ返すことはできず、やや斜め下から見上げるように彼を仰ぎ「厳しい人ですね、シャンクスさん」と情けない笑みを向ける。
彼はを真っ直ぐに見つめ、今はもう怒気のない、昨夜杯を交わしたときに見せてくれたような明るい笑みを浮かべていた。
「俺が厳しくあたるのはそれが気に入った奴だからだ。これは俺なりの愛情表現というやつだな」
「光栄です。……ちょっと厳しすぎるような気がしないでもないですが」
「だっはっは! まぁ、そう言うな。厳しければ厳しいほど俺の愛も深いということだ」
「複雑な愛情表現ですね」
マルコの愛も、シャンクスの愛も、深くて底が知れなくては思わず複雑な顔で苦笑いしてしまう。
無邪気な笑みとは程遠いが、彼女の陰のある笑い方はどこか魅力的で男を引き寄せるものがある。
マルコだけじゃない、これまでに彼女の虜になった男たちも皆の愁いを帯びた笑みに魅せられたのだろう。
「お前に惹かれる男はもしかしたら皆似た者同士なのかもしれないな」
「……、シャンクスさん?」
「俺もマルコと同じだ」
「あの」
「俺が今一番欲しいのは、お前自身だ」
そう言って笑う彼の目は本気だった。
本気でを、海の女神を白ひげ海賊団から奪おうとする狩人の目をしていた。
ここまでずっとそらしてきてしまった分、せめてこの目だけは受け止めようとはシャンクスと目を合わせる。
誰かを思い起こさせる強い眼差し。
それが誰かなんて、容易に想像がついた。
(マルコさんと同じ目だ……)
かつてがまだ海軍にいた頃、会うたびに執拗に自分を海賊に誘ってきたときの彼と同じ目をしている。
───俺たちの仲間になれよい。
あのときと同じだ。
純粋に彼女のことを欲する者の目。
それはにとってけして嬉しくないものではなく、求められれば深慮なくその手を取ってしまう彼女にとっては毒のような眼差しだった。
「お前のマルコに対する気持ちがどうであれ、俺の気持ちもまた変わらない」
今はまだ難しくとも、いずれ必ずこちらの船に乗りたいと思うようにさせてやる。
そう謳い、シャンクスはの頬をするりと撫でると指先で彼女の顎をくっと押し上げた。
昨夜の続きでもするかとでも言うかのように親指の腹で彼女の唇を撫でつける。
「また会おう、。そのときは色よい返事を聞かせてくれ」
「……、……」
低く甘い声がの鼓膜を静かに犯す。
きっとこの人はこうやって女の人を堕とすのだろう。
わかっていながら、だがは自ら彼の視線をそらすことはせず、自分を欲しいと言ってくれる瞳を見つめ続けてしまった。
*
遠ざかっていくレッド・フォース号を見送るの背にマルコが声をかける。
の態度から何かを察した彼は「何か言われたか」と問うが、それに対して彼女は「いいえ、何も」と笑顔で首を横に振った。
シャンクスとの会話をマルコに聞かせることなどできるはずがなかった。
マルコがに溢れんばかりの愛を注いでくれていることは明白だ。
そんな彼に対し、自分の愛がいまだ不在であることを告げることなどどうしてできよう。
(私の気持ちって……マルコさんへの気持ちって、何なんだろう……)
彼女の中でその答えはいまだ出ず。
どこまで行こうとも果ての見えない、出口のない迷路を彼女はさまよい続けている。
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→
完全にヒールと化しているお頭です。
彼女の心を成長させるためにどうしても必要な役だったもので……すみませんお頭。
2018/08/07 加筆修正
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