<注意書き>
※審神者の名前は出てきません。
※清光が全力で思春期真っ盛りのDKやってます。成績優秀ですが優等生ではないのでご注意ください。
※前世も今世も清光→→→(←)主。一方的な片想いが続きますが最後はハピエンです。
※後編で清光の断髪表現が出てくる予定です。
加州清光、
恋
心極めました 【後編】
吐きだす息が白く凍る。
晩秋の夜の肌寒い風が頬を刺す。
けれど胸の中は燃えるように熱い。
鼓動に合わせて赤い血が勢いよく心臓を飛び出し全身を駆け巡っているのが伝わってくる。
ハッハッと息を切らせて夜の街を駆ける。
彼女からOKをもらったその足で俺はとある場所を目指し全速力で走っていた。
見えてきたのは駅から少し離れた場所にある24時間営業のコンビニ。
特徴的なドアチャイムとともに開いた自動ドアを突破するとその勢いのまま店内をキョロキョロと見渡し目当ての人物を探す。
2つあるレジのうち奥の方に彼がいるのを発見。
レジ横のおにぎりの棚から適当なものをひとつ鷲掴みしてレジに立つ彼の前にダンッと叩き置くと荒い息も整えぬまま叫ぶように声をかけた。
「山姥切、頼む!明日から5日間俺に英語教えてっ!」
「…………。は?」
たっぷりの間を置いてから返ってきたのは全然意味がわからないという困惑した顔と少し間の抜けた素の声。
彼はそのまましばらく、俺の後ろにお客さんが並ぶまでバーコードリーダーを持ったまま怪訝な顔を固まらせていた。
山姥切国広。
隣の文系クラスに所属する同級生。
彼とは1年のときに同じクラスだったからそれなりに顔見知りだ。
まぁそれ以前に俺には前世の記憶があるから本人が思う以上にこっちは彼のことをよく知っているんだけど。
でも今世の山姥切国広は俺の知っている彼とは少し違う。
卑屈で恥ずかしがりなところは変わってないけど、今の彼はもう布で自分を隠すようなことはしない。
堂々と人前に自分の姿を晒し、勉強でもスポーツでも高い能力をいかんなく発揮してそのことに自信をもって生きている。
相変わらず見目麗しい顔立ちの美青年なため街を歩いていると俺と同じように雑誌編集者に声をかけられるみたいだけど、彼はそういうのにまったく興味はないみたいだ。
で、今回なんで彼に助けを求めたかっていうと、それは彼が文系科目のスペシャリストだから。
総合成績では俺より下にいるけど、英語、古文、現代文の3教科において彼の右に出る奴は学年内には誰もいない。
去年同じクラスだったときもテスト前に何度か教えてもらったことあるけど、人と話すのがあんまり得意じゃないって言うわりにあいつの教え方はすごく上手かった。
だから今回も彼に英語の指南役を求めたっていうわけ。
今度のテストは俺にとって絶対負けられない戦いになるから、いくらでも頭下げる覚悟で彼にお願いしてみたんだけど。
「俺でいいのか」
バイトの休憩時間になってお店の外に出てきてくれた彼は「別に構わないが」って予想外にもあっさりと俺の頼みを引き受けてくれた。
細かい事情も聴かず承諾してくれたことに両手を合わせて拝むようにしてお礼を伝える。
「マジ!?山姥切ぃ……ありがとっ」
「ああ。ちょうど甘いものが食べたいと思っていたからな。助かった」
「は?」
顔を上げるとそこにはにやりと笑って顎で俺の背後を指し示す山姥切の姿が。
振り返ってみればそこには最近人気のクレープワゴンが停まっている。
なるほど、そういうことね。
見かけによらず甘い物好きという山姥切の個人データを思い出し、彼が言わんとすることを理解する。
「おっけー、いくらでも奢る!トッピング全のせにしちゃうよ!」
ということで明日からテスト前日までの5日間、俺はクレープを奢る代わりに山姥切に英語を教えてもらえることになった。
土日の休日は市営の図書館の自習スペースで、月曜からの3日間は山姥切のクラスで、マンツーマンの英語対策を彼からみっちり受けた。
とはいえ山姥切も自分のテスト勉強があるから正確には各自自習っていう形をとり、質問があるときだけ彼に声をかけるようにしたんだけど。
「あー。ごめん、ちょっといい?ここさ、うまく和訳できないんだけど。こういうときってどうやって答え選べばいい?」
「どこだ」
「これ。問3の(2)」
「ああ。これは無理に訳す必要はない。この単語がヒントになっているからこれを見つけたら反射でnotを選べばいい」
「へえー、そうなんだ」
教えてもらったことをすぐにメモする。
山姥切は要点をまとめて簡潔に説明するのがうまい。
丁寧できめ細やかな彼女の解説とはまた違った魅力ある教え方だ。
「山姥切、教えんの上手いよねー。将来教師目指したりしないの?」
長兄の山伏みたいに。
合ってると思うけど、って何気なく誉めたら「冗談はよせ」って却下されてしまった。
「あんな人前に立つ仕事ごめんだ」だってさ。
顔を隠すことはしなくなったけれど、山姥切はかつてと同じくやっぱり目立つことは好きじゃないらしい。
でも照れた横顔を見る限りでは満更でもなさそうだけどね。
そんな雑談を時折交えながらの俺たちの勉強会は一日一日と過ぎていった。
俺はとにかく英語の勉強に時間を費やした。
朝の電車の中、授業と授業の合間の短い休み時間、昼休みは片手でパンを食べながら。
放課後はHR終了のチャイムが鳴ると同時に隣の山姥切のクラスへ直行、のちすぐに勉強会開始。
帰りは彼にクレープを奢ってバイバイすると通学の電車とバスの中でまとめたノートを見て復習。
夜は英語以外の教科の勉強をして、肌に悪いから必ず6時間はとっていた睡眠時間を4時間にまで削ってテストの対策をした。
目の下にはうっすらと隈が浮かび心なしか肌もカサつき始めて鏡に映る自分は最高に可愛くないものになったけど、努力の甲斐あって少しずつだけど英語の問題を解くコツはつかめてきた。
今までは解けなかった問題集の問いも理解できるようになってきて、答えあわせをするとだんだん丸の方が増えていくことに快感を覚えるように。
そうして日はあっという間に過ぎていき、気付くとテスト前日の水曜日の放課後を迎えていた。
いつものように夕方の下校チャイムが鳴るまで勉強し、「もう帰れー」と見回りに来た先生の声に追い出されるようにして教室を後にする。
勉強会も最終日を迎え、恒例の駅前のクレープワゴンで山姥切に最後のクレープを奢ってベンチに座って雑談なんかした。
「山姥切。ほんっとーにありがとね。マジで助かったよ」
5日間も俺の勉強に付き合ってくれた彼に感謝の気持ちを伝える。
山姥切がいなかったらここまで充実した英語の対策はできなかった。
あんなに苦手だった英語なのに今は明日のテストがちょっと楽しみですらある。
彼のおかげで俺は明日の勝負に正面からどんっとぶつかっていける。
そんなふうに感謝の気持ちを伝える中で、今更だけどどうして今回俺がこんなにも英語に力を入れているのかってその理由を訊かれた。
迷ったけど口の堅い山姥切になら言ってもいいかなってかいつまんで事情を話すことに。
予想はしていたけど「あんた頭はいいのに馬鹿なのか」って呆れた顔をされた。
ちょっとー、馬鹿はないでしょ馬鹿は。失礼な。
「大変だな」
「でしょー?」
「あんたじゃない」
「え?」
スパッと切られてしまい俺は首をかしげる。
山姥切はクレープの奥の方のクリームをスプーンですくいながら「大変なのは先生の方だ」ってさも当たり前のように言った。
「賭けに勝っても負けても、彼女はあんたのことで頭を悩ませるんだろう」
すくいとったクリームを舐めながら彼は肩でため息をつく。
「お人好しが過ぎるほど優しい人だからな。あんたが勝って交際を迫られれば当然悩むだろうし、あんたが負けてきちんと校則を守る優等生になってもそれはそれでもっといい方法はなかったのかって自分を責めるんじゃないか」
「……」
「どうした」
「あ。あー、いや、うん」
びっくりした。
言われたことがあまりにも的確すぎて。
山姥切が彼女の性格をよく把握していることにも驚いた。
彼女はこの3週間山姥切のクラスで過ごしているから確かに俺より彼の方が長い時間一緒にいるわけで納得できるといえばできるけど。
なんだろう、なんかちょっと悔しい。
俺より彼女の気持ちを分析できている山姥切に嫉妬する。
突然黙り込んだ俺に「どうした」って声をかけてくる彼に「……別にぃ」って曖昧な返事をして顔をそらす。
あぁ、思い出す。
この気持ちには覚えがある。
確かこれと似たようなことがずっとずーっと昔にもあったんだよね。
あのときも俺は山姥切に鋭い一言を食らい、みっともなく嫉妬して彼女に慰められたんだった。
◆
やまない霧雨が人型の体から熱を奪っていく。
雨の中の江戸城探索。
馬は使えず、視界も悪く、刀を握る手も冷たくてうまく力が入らない。
俺はひとり焦っていた。
だって部隊の中で俺だけが重傷。
他の奴らは軽傷の山姥切を除けばみんな無傷だ。
前田も堀川も安定も長谷部も、俺と山姥切を除く4振りすべてが極の刀剣男士なのだからそれも頷ける。
極の刀剣とそうでない刀剣。
歴然たる力の差を見せつけられているようで焦りもする。
こいつらだけじゃない。
今や本丸にいるほとんどの刀剣が修行を経て極の姿となっている。
周りの奴らがどんどん強くなっていく中、俺はすべての刀剣が極となるのを見届けて待つことしかできない。
俺が修行に出られるのは最後。
長い長い順番待ちの中、焦りは日に日に募っていく一方だった。
置いていかれる。
このままじゃ役立たずになってしまう。
部隊長を外される。
主に使ってもらえなくなる。
不安、焦燥、恐怖。
ここが戦場のど真ん中であることも一瞬忘れ、ぬかるんだ地面に両膝をついてしまう。
そんな最中、風を斬り雨を斬る光の一閃が目の前を走り抜けた。
俺の眼前に迫っていた敵の大将大太刀を山姥切が薙ぎ払う。
水を吸った襤褸布が雨の雫を飛ばしながらばさりと舞う、俺の目はその光景に釘付けになった。
美しい刀。
山姥切国広。
練度は俺に次ぐ、本丸のNo.2。
彼もまた俺と同じく極めていない通常の刀剣男士。
同じ部隊になることも多く、もう長いこと一緒に戦ってきた。
けれどそんな彼も明日、いよいよ極の修行に旅立つ。
帰ってきた彼はおそらく俺よりずっと強くなっていることだろう。
そうしたら俺はもう敵わない。
ずっと肩を並べていた彼にも置いていかれる。
焦りか、怒りか、深手を負った獣が如き咆哮が勝手に口をついて曇天を裂き、気付けば自分が重傷であることも忘れて敵の槍に飛びかかっていた。
あと一撃受ければ折れてしまうかもしれない、そんなことを考えもせずに。
玉砕覚悟ともいえる特攻に安定が「清光っ!」と俺の名を呼ぶ。
「無茶ですっ、加州さん!」と前田が止める声を無視してぬかるんだ地面を蹴って構えた切っ先を槍めがけて打ち込んだ。
敵を倒したかどうかの記憶がない。
目を覚ましたときには視界に映るのは見慣れた本丸の天井で、次いで聞こえてきたのは安定の「あ、清光起きた」といういつも通りの声だった。
「主さーん。清光生きてた」
「……ちょっと。勝手に死んだことにしないでくんない?」
「えー、だってお前手入れ終わっても全然目ぇ覚まさないからさ」
てっきり死んだのかと、だって。
やめてよね、そういう冗談。全然笑えないから。
廊下が軋む音がして誰かが部屋に近付いてきているのがわかった。
安定が呼んだ主かと思ったけど、でも足音が彼女のものより重い。
それの持ち主は全身を覆う布を揺らしながら現れた。
「起きたのか」
「山姥切じゃん。なんか用?」
珍しいじゃん、あんたが来るなんて。
主はどうしたの?
なんて声をかける暇もなく、彼はずかずかと部屋に入ってくると無言で俺の隣に仁王立ちした。
なに?労いの言葉でもかけてくれるの?
予想は大きく外れ、気付くと俺は山姥切に胸倉を掴まれ布団から引きずり上げられていた。
「へ……?」
「ちょ、まんばくん!?」
俺より安定の方が慌てている。
掴みあげられた俺はいきなりのことでびっくりして目をぱちくりさせることしかできずにいた。
そんな俺の目を彼は睨むように見つめて、言わずにはいわれないとばかりに説教をたれる。
「あんた、なんだあの最後の一撃は。特攻か?玉砕覚悟のつもりか?そんなに死に急ぎたいのか」
「ちょ、なにいきなり……?そんな目くじら立ててさ」
山姥切がそんなに怒る理由がわからない。
どーどーと馬をなだめるように両手をあげるも彼の睨みは凄む一方だ。
俺がいかに馬鹿なことをしたかわかっていないのか、って呆れながら怒っている。
「何を焦っているのか知らないが、あんたがそんな愚か者だとは思わなかった」
「……」
愚か者。
その言葉にぴくりと耳が反応する。
カチンときた。
いくら本丸No.2とはいえ、山姥切にそこまで言われる筋合いはない。
先の戦場で感じた焦りや嫉妬も相まって俺は山姥切にあからさまに不遜な態度をとった。
「別にさ、勝てたんだからいーじゃん。結果折れなかったんだし問題ないっしょ」
「……」
投げやりな一言を彼に放つ。
結果、彼を余計に怒らせてしまうことに。
「……ふざけるなよ。何が問題ないだ。何が何でも勝てばいいというわけじゃないだろう!」
「……」
「なぜわからない。戦に勝っても負けても、あんたがそんなぼろぼろじゃ彼女は喜びはしない……!」
「……、……」
静かな怒りを含んだ説教を浴びせられ、俺は彼から顔を背けて口をへの字に曲げる。
山姥切の言い分はわかる。理解できる。
でも頭ではわかっていても心が受け入れられない。
もうすぐ自分を追い越そうとする彼の言葉だから尚更素直に聞き入れられなかった。
掴まれていた手をパッと放され、俺は布団に尻もちをつく形に。
山姥切は俺を見下ろし、失望したっていう顔で言い捨てていった。
「俺は明日から修行でここを空ける。だが今のあんたじゃとてもじゃないが本丸と主を任せられない」
だから明日からの近侍を長谷部か燭台切にするよう主に進言してくるって。
さすがにその言葉には俺も反応せずにはいられなかった。
ちょっとなに勝手なことしてくれてんの!
ふざけるなはこっちの台詞だよ!
「ちょっと待ってよ!」と追いかけようとした俺は安定に髪の尻尾を掴まれて止められてしまった。
いった!グキッて首から変な音した!
「何すんだよっ!?」って振り返ったらいつになく冷静な安定になだめられた。
「今回のはお前が悪いよ、清光」
自分の怪我の状況も顧みず特攻みたいなことしたお前が悪い、って。
無駄に主さんのこと心配させたんだからしょうがいないだろう、って。
「お前に比べてまんばくんはだいぶ大人だよね。初期刀の選択、主さん間違えたんじゃないの?」
「……っ、……」
安定の痛烈な一言に俺はもう何も言えなくなる。
今はしっかり反省しときなよって背中をぽんぽんと叩かれ、俺は奥歯を噛みしめて勢いよく布団を被って団子になった。
翌朝早く。
山姥切は本丸を旅立っていった。
堀川や山伏はじめ彼と縁のある刀たちがあいつを見送るため玄関に集まったけど、俺はそれには行かずひとりで鍛錬場で木刀を振っていた。
昨日の今日でどんな顔で見送ればいいのかわかんなかったし、何よりまだあいつに言われたことが胸に刺さっていて会う気にもなれなかった。
しばらくして玄関の方が静かになったなと思っていたら見送りを終えた主がやってきて「国広、行っちゃったよ」って彼の出立を告げた。
俺は特に興味もないって感じで「あ、そう」って返事して素振りを再開する。
すると彼女は着物の襟もとから何かを取り出し、「はい」と掛け声ひとつかけて俺にそれを投げてきた。
反射でそれを掴みとり、手のひらを広げて中を確認する。
「なにこれ」
「清光にって。国広から」
「は?」
我ながら間抜けな声が口から零れた。
投げ渡されたのはぼろぼろのお守り。
見覚えのあるそれは審神者である主から刀剣男士全振りに配られたもの。
俺も持っている。
でも今手のひらの中にあるこれは表に山姥切の紋が刻まれている、彼のお守りだ。
旅の間は戦うこともないし不要だからって置いていったらしいけど、なんで俺に?
怪訝な顔をしていると困り眉で笑う主に「心配してたよ。清光のこと」って出立直前にした山姥切とのやりとりを教えられた。
「あんたの初期刀は主を想うがあまり時に無謀で無茶なことをするから、俺がいない間は誰か強引にでも奴を止められる目付役をつけて出陣させないと駄目だ。だって」
「……」
「ふふ。国広は清光のことよくわかってるね」
「……余計なお世話だっつーの」
肩を揺らして笑いながら山姥切を褒める彼女の姿に俺の中の焦りとか嫉妬とか、そういうどろどろした感情は余計に大きくなっていった。
そこに来て昨日安定に言われた言葉も勝手に頭に蘇ってくる。
山姥切は俺より大人で、冷静で、周りをよく見ていて、強くて、綺麗で、頼りになる。
初期刀として選ばれるべきは彼だったんじゃないか。
「主はさ……」
「ん?」
「その……俺を初期刀に選んだこと、後悔してない?」
自分でこんなこと訊くなんてこの上なく情けない。
けど訊かずにはいられなかった。
「山姥切の方がよかったって思わない?」
たぶん彼女に問いかけている今の俺、最高に情けない顔してる。
彼女からどんな答えが返ってくるのか、予想はそう難しくない。
きっと優しい主は嘘でも「そんなことないよ」って言うと思う。
だから彼女の答えがどっちであれ俺は結局惨めな気持ちになるんだ。
かっこ悪い。自分で自分のこと貶めている。
「思わないよ」
思った通りの答えが彼女から返ってきた。
嬉しいはずの答えなのに、全然嬉しくない。
「後悔なんかしてないし、したことなんて一度もないよ」
呆れ顔の彼女が言う。
卑屈になっている今の俺にはどれもこれも慰めにしか聞こえなかった。
けどそんな俺の性格を承知の上で、それでも構わず彼女は俺に伝え続けてくれた。
「清光がどんなにぼろぼろになって帰ってきても、刀装作りで炭作っても、部隊長で演練全敗してきても、落ち込んでくよくよしていても。国広や吉行たち他の初期候補が清光より良い戦績あげてきても、他の刀にすればよかったなんて思ったことないし、これからも絶対に思わないよ」
加州清光を初期刀に選んだことは私の自慢で誇りだから。
大丈夫、おかしな心配しないの、って。
視界の隅に見える彼女はこれ以上ない笑顔を俺に向けてくれていた。
俺は彼女に背を向け唇を噛みしめる。
ひとりにしてほしいっていう俺の気持ちを察した彼女が「もうすぐ朝ご飯だからほどほどにしてあがっておいで」って声をかけて去っていく。
俺は静かな鍛錬場の真ん中にどさりと座り込み背を丸めて奥歯を噛んだ。
山姥切に託されたお守りを右手に握りこむ。
焦りとか不安とか嫉妬とか、どろどろした感情はまだまだ俺の胸から消えてくれそうにない。
けどそんな中にもぽつりと、小さいけれど確かな光が瞬いていた。
闇に飲み込まれそうになっていた俺の中にその光を灯してくれたのは間違いなく彼女。
視界が滲む。
でも泣いて目を赤くして広間になんか行ったら安定たちにからかわれるから絶対泣いてなんかやらない。
天井を仰いで何度も瞬きを繰り返し涙を昇華させる。
ハァとひとつ息をつくと不思議と心が少し晴れた。
自分の内に灯る小さな光に想いを馳せる。
あぁ、俺。
彼女が主で本当によかった。
彼女のことを好きになって本当によかった。
そう心から思えた。
俺はきっとこれからも情けなく迷い悩み続けるんだろう。
でもこんな俺でもいいって彼女が言ってくれるなら、これから何があってもずっと彼女のそばにいたい。
そう願わずにはいられない。
鍛錬場の小窓から差し込む眩しい朝陽に目を細める。
本丸解体の通知が届く、ちょうどひと月前の朝の出来事だった。
◆
木・金の2日間でおこなわれた実力テスト。
採点された答案用紙とともに成績の個票が返ってきたのは翌週の月曜日のことだった。
泣いても笑っても彼女と過ごす最後の1週間、その初日。
担任に手渡された成績表を見た瞬間、俺は柄にもなく天井を仰いでガッツポーズを掲げた。
差し出されたのは苦手な英語を含めすべての教科において90点台がずらりと並んだ個票。
古典95点、現代文93点、数学B100点、数学U98点、物理96点、化学100点、地理97点。
そして英語、俺史上最高の91点。
英語でこんな点数とったことない。
感動で思わず握った拳が震えた。
山姥切には感謝してもしきれない。
個票の各教科の点数の下にはそれぞれの科目別の順位が、そしてその羅列の最後には総合成績の順位が記載されている。
生徒番号85番 加州清光
理系科目総合:1位
文系科目総合:2位
学年総合順位:1位
「はい、これ。2位の奴と大差をつけて文句なしぶっちぎりの1位だって担任に言われた」
「……、……っ」
放課後、実に1週間以上ぶりに訪れた実習生控え室。
他の3人の先生は部活を見に行ってるらしく彼女ひとりしかいないそこで、俺は自分の成績個票を彼女の机の上に広げてみせた。
片手で口を覆い驚きに目を丸くする彼女の姿に俺の顔には自然と勝ち誇った笑みが浮かぶ。
「俺の勝ちだね」
彼女は俺の個票を手に取り「……まさか、本当に」ってそれを凝視する。
信じられないものを見るかのようなその顔を前に、彼女に投げつけてやりたい言葉は俺の中でとっくに決まっている。
「約束。忘れてないよね」
勝利の余韻に浸るのもほどほどに早速本題に入る。
彼女の肩がぴくりと反応するのを見逃さない。
「俺が勝ったときの条件。先生、俺と付き合ってくれるんだよね」
忘れたとは言わせない。
これ以上ないくらいの期待の眼差しを向け、彼女が潔くYESと答えてくれるのを待つ。
けれどいくら待てども彼女は口を真一文字に引き結んだまま何も答えようとしない。
先生?
訝しげに声をかけた次の瞬間、俺は彼女が発した呟きに耳を疑うことになる。
「……ごめんなさい」
彼女の口から出たのは唐突な謝罪。
次いで細々とした声が言い放ったのは「賭けは……なかったことにしてもらえませんか」という信じられない言葉。
「……なに、それ」
「……」
意味が分からない。
彼女は俺の成績表をそっと机の上に置くと両肩を丸めて体を縮こまらせ、まるで土下座をするかのように机に額がつきそうになるほど頭を下げた。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。
謝る彼女の姿を見下ろす俺はショックを隠せず引きつった笑顔を固まらせる。
なにそれ。
どういうこと。
賭けを承諾しておいて、いざ負けたら逃げるっていうわけ?
そんなの納得がいかない、いくわけがない。
じわじわと湧き出る不満と怒りに体の内側が轟々と燃えて熱を上げていく。
なんで。
どうして今更。
納得のいかない俺の問いに彼女が出した答えはやっぱりどうにも納得できないものだった。
「だって……だってやっぱり君は生徒で、私は教師ですから」
「……、……」
どうあっても正論を盾にしてくる、彼女が掲げる常識や正義に俺は思わずハッと息を吐いて馬鹿にしたような声をあげて笑ってしまった。
またそれ?
だからなに?
そんなのもう聞き飽きたよ。
俺が生徒であんたが教師だから、それがどうしたっていうの。
そんなの百も承知の上で賭けを受け入れたんじゃないの?
負けたら逃げるなんて卑怯だ。
俺は本気でこの勝負に挑んだのに。
今日までの俺の努力はどうなるの。
あんたに会える残り少ない時間を惜しんで勉強したんだ。
気力も体力も削って頑張って勝利を掴み取った俺の気持ちはどうなるの。
「なんだよそれ……」
「……」
「俺の気持ちが本気だって知ってるくせに。全部わかった上で俺のこともてあそんだの?」
なんだそれ。許せない。
俺の怒りを感じ取った彼女は伏せていた顔を起こすと俺を見上げて違うと言うように首を横に振る。
「もてあそんだだなんて……っ、そんなことは」
必死に否定し弁解しようとする彼女の言葉を、俺はもう素直に聞き入れることができなかった。
「でも実際そうでしょ?俺は先生が約束してくれたから頑張ったのに」
それを今更正論掲げて反故にするなんて勝手がすぎる。
この勝負に勝つために俺がどれだけの努力をしたのか知りもしないで。
ずっと本気だって言い続けているのに俺と向き合おうともしてくれない。
なんで、どうして。
ぶつりと、ずっと我慢し続けていた自分の中の糸が切れる音を確かに聞いた。
俺はこんなにもあんたのこと想っているのに。
昔も今も変わらず想い続けているのに。
どうして俺を選んでくれないの?
俺を選んだこと、後悔してないって言ったくせに。
「嘘つき。やっぱり山姥切の方がよかったんだ」
「……?何のことで、」
過去の記憶と今が混線して頭の中がぐちゃぐちゃになる。
ずきずきと痛み始める頭に眉をひそめ、睨むような視線を彼女に注いだ。
目の前にいるのはあの頃と変わらない姿の彼女。
けどこの人は主とは違う。
初期刀の俺を可愛がって愛してはくれない。
俺には見せてくれない笑顔を一期には向ける。
約束したことも守ってくれない。
目の前にいるのはあの頃と変わらない姿の彼女、けれど。
「あんたは俺が知っている彼女じゃない。あんたはやっぱり……主じゃないんだね」
「清光、くん……?何を言って、」
「もういいよ」
彼女の声を遮り投げやりな言葉を放つ。
俺の気持ちをわかってくれる彼女はここにはいない。
いないなら、もういい。
あんたが俺をわかってくれないっていうのなら。
「わからせてやる」
「……、なにを……」
彼女のそばを離れ、控え室にひとつしかない扉の前に立つ。
くるりと向き直ると後ろ手にドアの鍵をおろした。
カシャンと錠がかかる音が広くもない室内に響き渡る。
今目の前にある空間を俺と彼女2人だけのものにしてやった。
状況を察した彼女の顔に青みが差す。
自分に好意を寄せる強情な男子生徒と2人きりの密室状態。
彼女の中では確実にまずいと赤信号が点滅しているんだろうね。
でももう遅いよ。
俺のことただの人懐こい生徒だと思って甘く見ていたのが運の尽きだ。
思い知らせてあげるよ。
ガシャンッガシャンッとパイプ椅子が数脚倒れる音が室内に響き渡る。
彼女を机の上に押し倒し、顔の両側に両手首を縫い付けて押さえつけてやった。
見下ろす先の彼女の顔が焦りと不安と恐怖が混ざったものに変わる。
「清光くん……っ。何するんですか、やめてください!」
「……」
彼女は必死に俺の手から逃れようとする。
甘いよ、俺だって男なんだからね。
力で敵うと思わないでほしいな。
あがいてもあがいても振りほどけないことに観念した彼女はせめて毅然とした態度だけは崩すまいと精一杯の睨みを俺に向けてくる。
「そんな顔しても全然怖くないから」
「……、……大声。出しますよ」
助けを呼ばれたら君が困るでしょう。
だから放しなさい、って。
脅しをかけて俺をとめさせようとしているつもりなんだろうけど、悪いけど今の俺にはだからなにって感じ。
「出せば?」
それで気が済むならそうしたらいいよ。
「あんたが大声出して誰かが助けにやって来て。状況からして俺は100%加害者として糾弾されて。それで俺は停学か、あるいは退学になるのかな」
わかってるよ。
こんな馬鹿なことをしたんだ、自分の未来がどうなるかなんて想像するに容易い。
どこまでも優しい彼女はなんとかして俺をとめて可愛い生徒が処罰を受けないようにさせたいんだろうね。
でも悪いけど俺はもうそんなこと望んでいないんだ。
フッと気の抜けた、諦めにも近い笑みが自分の顔に浮かぶ。
「どっちでもいいよ。俺は停学になろうと退学になろうと全然構わない。むしろそれで加州清光っていう存在があんたの記憶に残るんなら本望だよね」
「そんな……」
何を馬鹿なことをって彼女の顔が言っている。
異常な考えだっていうのはわかってる。
けどこんなことをしてでもあんたの中に残りたいっていう俺の気持ちも少しぐらいわかってほしいんだよ。
「好きだよ」
「……」
「あんたのことが。もうずっと前から。こんな……頭がおかしくなるくらい、好きなんだよっ」
想うがまま、吐き出した言葉と同じぐらい強く、痣が残るほどの強さで彼女の手首を握りしめる。
痛みに彼女の顔が歪んでもお構いなしに圧をかけてギリリと柔肌に自分の指を食いこませる。
もう自分を止められなかった。
力ずくで止めてくれる奴もここにはいない。
枷も箍も外れて、本能のままに体を動かした。
不安と恐怖で今にも泣きそうな彼女の顔を見おろし震える唇に自分のそれを重ねに行く。
怯えた彼女の声が「きよみつくん……っ」って震えながら俺の名を呼ぶ。
やめてくださいと訴える涙声を無視して彼女の熱を奪いに行く。
あと少しで唇が重なるというところでそれは唐突に、俺が締めたはずの扉の鍵がガチャンと開く音がした。
蹴破るような勢いでドアが開かれる。
鶴丸を先頭に駆け込んできたのは部活に行っていたはずの3人の実習生たち。
まるでこの事態を予測していたかのような最高で最悪のタイミングで助けは訪れたわけだ。
室内の状況を見た彼らは一瞬で何があったかを判断した。
そこからの3人の動きは素早かった。
一期が静かな怒りを含んだ顔で駆け寄ってきて俺の手首をひねり上げ彼女から俺を引き剥がした。
まるで刑事ドラマの1シーン、取調室で暴れる犯人を抑え込むかのように俺を壁に押しつけて拘束する。
呆然としたまま涙を流し続ける彼女のもとへは山伏が駆け寄っていった。
だいぶサイズの大きい彼のジャージを彼女の肩に掛けて優しく背中を叩いて慰める。
2人が迅速で的確な対処をとる中、鶴丸だけはこんな状況でも相変わらず飄々とした態度を崩さずいつも通りの口調で俺に声をかけてきた。
「こりゃまた……。随分と派手にやったな、加州」
やれやれって感じで倒れたパイプ椅子を直し始める。
俺は一期に抑えつけられたまま鶴丸が作業する音を黙って聞くしかなかった。
後ろ手にがっちりと俺の手首をまとめあげる一期の手が緩まる気配はない。
厳しい表情と醸し出す空気から俺に対して相当お怒りなのが伝わってくる。
「これは一体どういうことですかな。加州清光くん」
フルネームで静かに俺の名を呼ぶ声に恐ろしさを感じずにはいられない。
普段物腰柔らかで穏やかなくせに、ひとたび怒ると誰も近寄れない空気を放つ。
一期のこういうところ、昔と全然変わってない。
返事をしない俺に構わず彼は説教を続ける。
「こんなこと許されることではないと君にならわかるはず。わかっていて何故このような愚かなことを」
「……」
「加州くん」
「……、なんでって。そんなの決まってる」
好きだから。
彼女が好きだから。
彼女を手に入れたいから。
それ以外に理由なんてない。
恥も外聞もなく開き直って自分の気持ちをぶちまける。
一期には呆れて物も言えないっていう顔でため息をつかれた。
「こんなこと、理性のない獣のすることです」
「……、……。わかってる」
一期の言うことが正しい。
そんなのよくわかっている。
落ち着いた冷静な声で諭され、自分の情けなさと惨めさが増長されて恥ずかしさで死にそうだった。
彼に抑え込まれた両手を拳にかえ強く握りこんで羞恥に耐える。
「一期。それぐらいにしてやれ」
「鶴丸殿」
「加州は頭の悪い奴じゃない。もう反省できているさ。たぶんな」
だからもう放してやってもいいんじゃないか、って助け船を出してくれる。
年上の鶴丸の言葉に一期は渋々という感じではあったけれど警戒しながらも俺から手を放した。
拘束されていた両の手首に一期の指の跡がくっきりと残っている。
自分がしでかした罪を見つめさせられているようで俺はたまらずその赤い指痕を制服の袖で隠した。
制服の上からその痕を緩く握りこむ。
骨は折れていないけど放されてなおズキズキと痛む。
かけられた力の強さに一期の怒りのほどを知る。
「加州くん」と名を呼ばれても顔などあげられず、伏せたままでいれば一期の厳しい一言が頭上に降り注がれた。
「此度の愚行、一度は目を瞑りましょう。けれど二度目はありませんよ」
か弱い女性を力でねじ伏せ泣かせた罪は重い。
お覚悟を、って。
記憶の中でしか聞いたことのない、倒すべき敵にしか向けることのなかった彼の言葉を浴びせられる。
今この場で俺は、彼らにとって、彼女にとって、外敵でしかないのだという事実を突き付けられた気がした。
でもしかたがない。悪いのは自分だ。
すべてただの自業自得。
「……すみませんでした」
傷つけてしまった彼女に、迷惑をかけた3人に、謝罪の言葉を告げる。
床に置いた自分の鞄を拾い上げると扉の前で小さく頭を下げて逃げるように部屋を後にした。
それからのことはよく覚えていない。
とにかく走って走って、急いで靴に履き替えて外に飛び出して、ゆっくりと沈み始める橙色の夕陽に背を向けて走り続けた。
行く宛てもなく走りながらずっと考えていたのは、こんな最悪な中でも、それでもやっぱり彼女のことだった。
◆
まもなく大門が閉じられる。
俺たちの本丸に終わりが訪れる。
審神者である彼女の手によって刀剣男士たちは順々に刀の姿へと戻されていっていた。
けれどそれも残すところあと一振り。
初期刀である俺の封印を主は最後に選んでくれた。
彼女曰く、はじまりの一振りに選んだ刀だからおわりの一振りも俺にしたいとのこと。
愛した主と最後の一瞬まで一緒にいられる。
これ以上ない嬉しい申し出だよね。
「今まで本当にありがとう。清光。ゆっくり休んでね」
「うん、主もね。今までお疲れ様」
「ありがとう。……本当に、ありがとうね」
「……」
「……」
「主」
「……うん。名残惜しいけど、始めるね。刀を頂戴。これより加州清光の魂を本霊へ還します」
「ねぇ、主。また会える?」
今こうして向き合う、この瞬間が最後になるから。
叶わない願いだとしても訊かずにはいられない。
また会えるかな。
どこか別の世界で。
そのとき俺は、主は、どんな姿をしているのかな。
会えたとしても主は俺に気付いてくれるかな。
俺は絶対主のこと忘れない自信あるけど。
もしまた出会えたとき主が俺に気付いてくれるよう、俺はずっと今の姿のままでいようかな。
ひとつ括りの長い黒髪も、赤い爪紅も、耳飾りもそのままに、常に可愛く身なりを整えて。
主が一目で俺のこと加州清光だってわかってくれるようにしておくよ。
だから、ねぇお願いだ。
「また会えたら、そのときも主のそばにおいてほしいな」
また俺を可愛がって。
大事にして。
そしてできることなら今度会えたときは、こんなふうに終わりのある世界じゃなくて永遠にずっと貴女とともにいられる世界に生まれ変わりたいな。
意地悪な神様が果たしてどこまで俺の願いを聞き届けてくれるかわかりはしないけどね。
あんまり期待せず、それでも希望は捨てずに俺は眠りにつくとするよ。
◆
テスト結果が返却された翌日のこと。
第2学年の教室が並ぶフロアが朝から異様にざわついていた。
喧騒の8割を成すのは女子の黄色い悲鳴。
彼女たちがキャーキャーと騒ぎ立てるその原因を作っているのは、まぁ十中八九俺だと思う。
「清光、なにそれ!?」
「おー。おはよ、安定」
「おはようじゃないよ!どうしたのさ、いきなり……何かあったのっ?」
「べぇつにぃ。何もなーいよ」
「何もって……嘘だ、理由もなくずっと伸ばしてきた髪切る?」
「いーじゃん別に。ちょっと気分転換したかっただけだよ」
絶対しつこく訊かれると思って今日に限って安定より早く家を出てきたんだけど。
結局教室で顔を合わせるや早速質問責めにされたからあんまり意味なかったな。
安定だけじゃない。
他のクラスメイトにもどうしたどうしたって訊かれまくるし、2つ隣のクラスの陸奥守まで見物に来て「加州がこざっぱりしちゅう!」ってパンダでも見るような好奇の目を向けられた。
教室の前後にある出入り口は代わる代わる覗きに来る他クラスの女子たちで塞がれている。
フロアをざわつかせている要因たる俺は頬杖ついてため息なんかついて窓の外を眺めていた。
朝の換気のために開けられた窓から少し肌寒い風が入り込み俺の自慢の黒髪を揺らす。
けどいつもなら背中で揺れる猫の尻尾のような長い髪が今はもうない。
切ってしまった。
昨日、逃げるように学校を飛び出したその足で行きつけの美容院に行き、何のためらいもなくバッサリと切り捨てた。
それだけじゃない。
制服も正し、外すことを頑なに拒んでいた赤いピアスもとり、両手の指先を彩っていた赤いマニキュアもすべて落とした。
どこからどう見ても模範的な優等生の加州清光のできあがりだ。
朝昇降口で長谷部とばったり出くわしたんだけど、「おはよーございまーす」って声かけたら「ああ、おはよう」って一度目はスルーされて、そのあと「……。加州!?」ってわざわざ俺のところまで戻って来て信じられないものを見るような顔をされた。
1年のときからずっと説教し続けてきた生徒が突然身なりを正してきたんだ、驚くのも無理はないよね。
不良生徒が更生して泣いて喜ばれるかと思いきや長谷部にまで「何かあったのか……」って心配されて思わず苦笑いしちゃったよ。
そのあと会った燭台切にも「清光くん、どういう心境の変化?」って驚かれたし、廊下で遭遇した山姥切には「賭けはあんたの勝ちじゃなかったのか?」って首を傾げられた。
どうやら俺が思う以上に加州清光のイメチェンは驚きの一大事だったみたいだ。
結局その日一日中俺はいろんな人に声をかけられまくったんだけど、外面上はすべてただの気分転換って言いとおした。
俺が容姿を激変させた真の意味を理解できるのは俺自身と、それからおそらく実習生の4人だけ。
化学の授業で顔を合わせた鶴丸は俺の姿に目を丸くし、でもすぐに何かを察してやれやれって感じの笑みを浮かべた。
一期と山伏の2人とは会っていないけど、おそらく会ったら神妙な顔をされるんだろうなって想像がつく。
彼女とは午後の英語の授業でその日初めて顔を合わせた。
鶴丸から様子を聞いてはいたんだろうけど、実際に姿を変えた俺を見つけるや彼女の顔はひどく複雑なものになった。
その日の英語の授業はいつになく長く感じ、ようやくチャイムが鳴って終わったところで後ろの生徒がプリントを回収してくるよう指示された。
窓際の最後尾に座る俺は自分の列の生徒のプリントを集めて彼女のもとへ届けに行く。
そこでその日初めて彼女と言葉を交わした。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。……、清光くん」
「ん?」
「その、髪……」
「あー、うん。どう?短いのも結構似合ってるでしょ?」
「可愛い?」だなんて、昨日のことなどまるでなかったかのようにこの3週間慣れ親しんだ態度で彼女に接する。
もちろん自分の愚行を忘れたわけじゃない。
昨日俺がしでかしてしまったことについては俺なりに反省しているつもり。
本当なら自分の過ちを悔いておとなしく過ごすべきなんだろうけど、そうするには俺の彼女に対する想いはちょっと強すぎた。
彼女とともに過ごせる時間は残り4日。
以前のように足繁く控え室に通ったり用もなく声をかけたりすることは控えても、挨拶を交わしたりこうして授業中に少しの会話を持つぐらいの接触は許してほしい。
なんて俺なりに殊勝な気持ちで過ごすつもりでいたら、その日の放課後あろうことか彼女の方から声をかけられた。
控え室通いを自粛して早々に帰ろうと昇降口で靴に履き替えていたら「少し話をしませんか」って。
2人で並んで校門の方へ歩きながら話をした。
「先生から声かけてくれるなんて珍しーじゃん。髪切った甲斐あったかな」
罪滅ぼしにした行為をネタにへらへらと笑ってみせれば彼女に複雑そうな顔で微笑まれた。
半分は呆れで、もう半分は申し訳ないっていうような伏せ気味の笑顔だったけど、もう2度と笑顔なんて向けてもらえないと思っていたから俺は少なからずホッとした。
「随分とバッサリいきましたね……。よかったんですか。せっかく伸ばしていたのに」
「んー、まぁいーよ。……昨日はちょっとやりすぎたかなって反省してるし」
「…………」
彼女の口が何かを言おうと控えめに開く。
けれどためらいののち何も言わずに静かに閉じていった。
何を言おうとしたのかはわからない。
そのあと再び口を開いた彼女は「今日は随分とお帰りが早いんですね」ってなんてことのない世間話を話題にした。
少し前までは放課後欠かさず控え室に顔を出していたけど、でも昨日あんなことをしでかした手前俺はもうあそこへ行く資格はないって思っている。
それに今日は今からちょっと遠出しないといけない用事があるからね。
「俺が契約している出版社の編集部に行くんだ」
「撮影ですか?」
「んー、そーね。最後の仕事になるかな。俺、モデル辞めるから」
「え?」
「昨日の夜、編集長さんに電話して急遽お願いしたんだ」
「辞めるんですか……」
「そ。一応俺なりのけじめってやつ」
髪を切って、爪も落として、ピアスも外して、服も正して。
あと何ができるかって考えたとき、捨てられるのはこれかなって思い至ったのがモデルの仕事だった。
俺に光を当て自信を持たせてくれたこの仕事を自らの意思で退く。
何を言われても貫き通してきたプライドとアイデンティティ、それらをすべて捨てることが今の俺にできるせめてもの贖罪かなって昨日回らない頭で考えたんだ。
決意を伝えると彼女は予想通り「何もそこまでしなくても……」って俺のことを考えて眉を落とし顔を伏せてしまった。
「俺が好きでしたことだよ。あと、覚悟を見せたかったの。先生に」
この気持ちが冗談なんかじゃなく本気だっていうことを。
やっぱり俺はあんたのことが好きなんだっていうことを。
どうしてもわかってほしかったから。
「俺、まだまだガキだからさ。好きな人に気持ちを伝えるのにこんな捨て身の特攻みたいな方法しか思いつかないんだよね」
「……」
「どう。呆れた?」
「いいえ。……ずるいなって、思いました」
「ずるい?」
「はい。だってそんなことをされたら……かっこいいって思ってしまうじゃないですか」
「……、……」
「……?清光くん?」
「あー……うん。いや、その……」
そんな言葉をもらえるとは思っていなかった。
照れくささにじわりじわりと笑みが浮かぶ。
昨日の今日でこんな穏やかに彼女と話ができること自体感謝せずにはいられないのに、更にそんなことを言われてしまったら。
あぁ、だめだ。
嬉しい。
幸せだ。
でもそれと同じぐらい、寂しさも感じる。
こうして彼女と過ごせる日々も残りわずか。
結局俺が気持ちを押しつける一方で、彼女の心を俺に向けさせることはできなかった。
長いこと抱え続けてきた俺の恋心は極められることなくここで終わる。
これが俺に与えられた運命っていうやつなんだろう。
神様はやっぱり意地悪だった、とはもう思わない。
俺にだけ都合のいいストーリーなんてそうそうないんだって現実を知ることができてちょっと大人になれた気がする。
「じゃーね、俺もう行くから。……っと、そーだ」
校門の前での別れ際、俺はスクールバッグの内ポケットに入れていた包みを取り出し彼女に手渡した。
受け取った彼女はその場で包みを開けると中の物を確認して「これは」と俺の顔を窺う。
渡したのは昨日まで俺がつけていた赤いピアス。
初めてのバイト代で買ったそれはもうずっと身に着けていたもので、俺が持つ数少ない大切な品のひとつ。
「あげる。気持ち悪かったら捨てていいから」
きっともう身に着けることはないそれを、でも捨てるのは忍びなくて、だったらもうすぐ俺の前からいなくなってしまう彼女に処分してもらいたいと思って手渡した。
持っていてくれても構わないし、不要なら捨ててくれても構わない。
判断は彼女に任せる。
俺が彼女に残せるのはもうこれぐらいしかない。
「じゃーね、先生。さよーなら」
校舎の内と外を区切る校門のレールを一跨ぎし、彼女から離れていく。
ひらひらと手を振って背を向ける俺に彼女は「またあした」って声をかけてくれたけど、俺はそれには答えず前だけを見て歩き出す。
彼女の視線が背中に注がれているのを感じながら、俺は後ろを振り返りたい気持ちを必死に抑えて足を前に出し続けた。
じゃーね、先生。
さよーなら。
昔も今も大好きな人。
また会えて、本当に嬉しかったよ。
できることなら先生と生徒じゃなくて、もっと別の形で出会えていればもっともっと嬉しかったかな。
4日後。
教育実習は終わり、4人の実習生たちは大勢の生徒に見送られ笑顔で学校を去っていった。
彼女が好きだと言っていた秋も終わり、本格的に冬が訪れる。
冷たい風がぽっかりと空いた胸の穴を通り抜けていく。
教室の窓から見える桜並木はみな葉を落とし寂しい装いをしている。
春はまだまだ遠い。
◆
桜が舞っている。
目も眩むほどのまばゆい光の中で。
「あー、川の下の子です。加州清光。扱いづらいけど、性能はいい感じってね」
舞い散る桜の花びらが次第に晴れていき、ようやく自分を顕現させた者の姿が露わになった。
数歩先に立ち自分と向かい合うひとりの娘。
口を少し開けた呆け顔でこちらを見つめたまま動かない。
どうしたものかと思っていれば彼女はぽつりと一言、自然と口から零れ落ちたというように言葉を発した。
「……綺麗……」
音にして三つ。
けれどもそれは心を揺さぶるには十分すぎるほどの、あまりにも素直で純粋な響きだった。
「加州、清光。……清光……、どうか私に力を貸して」
あなたの力が必要なの。
私のそばで力になって。
「お願い」
審神者の言葉は刀を縛る。
その願いは絶対。
けれども彼女の言葉は、願いは、自ら縛られてもいいと思えるほど心地よい響きとなって人を模した己の体の中を反響して回っていた。
慣れてもいない人の体なのに自然と笑みが浮かぶ。
かけたい言葉も自然と胸の内から湧いて出てきた。
「喜んで。俺のこと思い切り可愛がって、そして愛してね。主」
俺の言葉に彼女は桜が花開くように微笑む。
その笑顔に目が眩む。
そんな出逢い。
そして俺の心はもうそのときからずっと彼女のものだったんだ。
◇
ひらひらと白い花びらが舞い落ちる。
桜が咲くには少し早い。
雪のようにも見えるそれは香しい白梅の花びら。
真昼の陽射しは暖かく、けれども時折吹く風にはまだ少し肌寒さが残る。
冬の終わり、春の始まり。
3月下旬。
都内の某大学にて卒業式がとり行われていた。
スーツ姿の男子学生と色とりどりの袴姿の女子学生で溢れる構内。
ワインレッドのベロア生地の卒業証書を掲げ記念写真を撮る皆の顔には一様に笑顔が浮かぶ。
そんな中、他と同じように袴姿で綺麗に髪も結いあげた彼女はひとり正門の前に立ち尽くしていた。
今朝方家を出る直前に突然スマホに1通のLINEメッセージが入ったのだ。
送り主は彼女からしたらとても懐かしい人物。
1年と半年ほど前に教育実習をともにした仲間の一人、鶴丸国永からだった。
『卒業おめでとう!』という祝いの言葉で始まったメッセージは、けれどもその後に続く要件の方が本題であるようだった。
『12時に大学の正門前にひとりで立っていてくれ。驚きの祝いの品を届けにあがるぜ』
サプライズが好きな人だと記憶はしているが、果たして何がやってくるのかは予想もつかない。
とりあえず言われた通り、彼女は卒業証書と花束を手に正門前に立って何かしらの訪れを待っていた。
鶴丸から連絡が入っていないかとスマホを取り出すも特にメッセージはない。
指定の12時まであと3分。
時間を確認していると液晶の画面の上にひらりと白梅の花びらが一枚落ちてきた。
思いがけず舞い降りた雅に彼女はくすりと微笑む。
「よかった。待っててくれなかったらどうしようかと思ったよ」
「え?」
不意に声はかけられた。
とても聞き覚えのある声。
なぜかそれは自分へ向けてかけられたものだと不思議な確信を得て彼女は正面に向けて顔を上げる。
彼女が思い浮かんだとおりの人が目の前に立っていた。
舞い落ちた花びらは彼の訪れを知らせるものだったようだ。
「袴よく似合ってるじゃん。すっごく可愛い」
「清光、くん……どうして?」
予期せず突然現れた彼に驚きを隠せないというように彼女は目を丸くする。
やってきたのはかつてひと月だけ教鞭をとった教育実習先の教え子。
彼女にとっては忘れることなどできるはずもない、強すぎる印象を彼女の心に残して別れを告げていった子。
加州清光。
髪は最後に見たときと同じく短いまま、爪もまた何色にも染まらず、耳にも飾りは何もなくただピアスホールが残っているのみ。
綺麗に包まれた小ぶりの花束を手にした彼は照れくさそうに笑って彼女に事情を説明する。
「今日のこと鶴丸先生が連絡くれてさ。『会いに行きたい』ってダメもとで言ってみたら、じゃあお膳立てしてやるって言ってくれて」
お言葉に甘えて内緒でセッティングしてもらったんだ、と彼は頬を掻きながら苦笑する。
そのサプライズもさることながら、鶴丸と清光が連絡を取り合う仲であったことも彼女にとっては初めて知る事実。
なんでも実習最終日に鶴丸の方から清光に声をかけ連絡先を交換していたとのこと。
実習が終わった後もちょくちょく『よ。元気にやってるか?』って連絡が来ていろいろと清光のことを心配してくれていたそうだ。
「ハチャメチャなように見えて結構面倒見いいんだよね、あの人」
「鶴丸先生が。そうでしたか」
「うん。大いに感謝しないとね。何はともあれ鶴丸先生のおかげでこうしてお祝いに来られたわけだから」
彼は手にしていた花束を彼女に差し出し「先生、大学卒業おめでとう」と祝いの言葉をかける。
彼女は嬉しさと照れくささの入り混じったはにかんだ笑顔で「ありがとうございます」とそれを受け取る。
「なんでしょう……とても不思議な感じがします。まさかこうしてまたお会いできるなんて思ってもいませんでした」
「そーね。俺も、もう会えないかもって半分以上諦めてたからさ」
清光の笑みが少し居心地悪げなものに変わる。
それはかつて自分がしでかした彼女に対する失態を思い出してのこと。
彼女もまたそれを察し2人の間に少しの静寂が流れる。
しばらくして会話が再開されたのは彼女があることに気付いたからだった。
「あの、もしかしなくても清光くんも今年3年生で卒業ですよね?」
「あー、うん。そうね」
「式は」
「もう終わったよ。先々週だったんだ。今は春休みを満喫中」
「そうでしたか。じゃあ私からも言わないといけませんね。清光くん、卒業おめでとうございます」
「へへ。ありがと」
もう卒業式で散々もらった祝いの言葉も改まって彼女から言われると特別な響きに聞こえて彼の胸を高揚させる。
清光には彼女におめでとうと言う他にもうひとつ伝えておきたいことがあった。
「俺さ、4月からここの学生になるんだ。入れ違いだけど、一応先生の後輩ってことになるのかな」
「え?」
「自慢しちゃうと、これでも俺推薦入学だからね」
「え……えぇっ!」
それはまさに彼女にとっては本日2度目のサプライズ。
驚きと喜びに表情をころころと変えながら「本当ですかっ。え、それは……すごいですっ。おめでとうございます!」と拍手する彼女に清光は照れ笑いを浮かべる。
彼は自分が無事大学に合格できたのは周りの人々のサポートあってのことだと彼女に話した。
「あれからさ、ちゃんと規律守って学校生活送ってきたんだ。勉強も頑張ったよ。自慢じゃないけど1位獲ったあのときから1年半ずっとトップは譲らなかったし」
彼を推薦するにあたって成績に関しては何の申し分もなかった。
ただ問題は入学から2年中期まで1年半にわたって校則違反をしてきたことで溜め込んだ負のポイント。
それが進路会議で引っかかりなかなか加州清光の推薦は通らなかった。
けれど、それでも諦めず清光を否定する教師陣を説得して彼を推してくれる人たちがいた。
「長谷部先生と燭台切先生。2人だけはずっと俺のこと信じて味方でいてくれたんだ。加州は変わりました、彼の頑張りを認めてやってくださいって職員会議で言ってたって他の先生が教えてくれた。2人のおかげで俺はなんとか推薦してもらえて、今ここにいる」
2人だけじゃない。
世話になった他の先生たち、あのテスト以降も英語を教えてくれた山姥切、落ち込んだときや上手くいかないとき荒々しい激励で背を叩いてくれた幼馴染の安定、かげで支えてくれたたくさんの友人たちや家族。
いろんな人の助けがあって今の加州清光がある。
「もちろん先生にもね。感謝してる」
形はどうあれ自分を変えるきっかけを作ってくれたのは目の前にいる彼女だ。
ともに過ごした時間は4週間と短いものだったけれど、彼女との思い出はなにひとつ忘れることなく彼の胸の中に残っている。
それ以前に、彼女は清光にとって目も眩むほどの長い時を変わらずに想い続けてきた人。
一度は諦め手放そうとした恋心だけれど、こうして1年半ぶりに再会した今、彼の胸に灯るのはやはり変わらぬ淡い想いだった。
表情を真剣なものに変えて真っ直ぐに彼女を見つめる。
目をそらさず、けれども以前とは違いどこか肩の力が抜けた優しい笑みを浮かべて彼は告げる。
「未練がましいって呆れられるだろうけど、最後にもう一回だけ言わせてよ」
何度でも伝えたい想いがある。
どんなに長い時間離れていようと褪せることのない想いが。
「好きだよ。もうずっと前から好きだった。叶うならあんたのそばにいたいし、俺のそばにいてほしい」
これを最後と決めて彼は想いを告げる。
かつて気持ちをぶつけたとき彼女は苦しげに眉を落とし、どうにもできない関係なのだと頑なに首を横に振った。
今はどうか。
清光が見つめる先にいる彼女は笑みでもなければ不安でもない、何かを悟ったような落ち着いた表情をしている。
何かを言い含むようにゆっくりと瞬きをした彼女は何も言わず腕に下げていた巾着の中に手を差し入れた。
その中から清光も見覚えのある包みを取り出すと彼女はそれを彼に手渡した。
まさかと思いながら彼が包みを開ければ、そこにあったのは見覚えのある赤いピアス。
清光の目が驚きに見開かれる。
「なんで持って……、捨ててなかったの?」
まさか持っていてもらえたなんて。
驚く清光に彼女は「捨てられるわけないじゃないですか」と呆れ顔で微笑む。
彼に手渡されたあのときから彼女はずっとそれを持ち続けていた。
どんなときも肌身離さず。
その真意を彼女は今ようやく彼に告げる。
「実は、あれから私もひとつの賭けをしていました」
聞かされたそれは誰との勝負というわけでもない、彼女の独りよがりの勝手な賭けだった。
「もしまた清光くんと再会できて、そのとき君がまだ私のことを想ってくれていたら私の勝ち。もし君に素敵な恋人ができていたら私の負け。諦めてすべて忘れて心から祝福しようと、そう決めていました」
負けたとき本当に心から祝福なんてできるのか、ちょっと自信はありませんでしたが、と彼女は苦笑する。
「でもよかった。賭けは私の勝ちです」
彼女は微笑む。
清光の動きが止まる。
見つめる先の彼女の頬が桜色に染まり、笑みをはにかんだものに変えて彼女は清光に告げる。
彼がずっとずっと待ち望んでいた言葉を。
「好きです。私も、君のことが」
一度は約束を破り君を傷つけてしまった、こんな酷い私ですがそれでも呆れずに想ってくれるのなら。
「そばに……君のそばに、いさせてください」
ひらひらと舞い落ちる白梅の花びらの中に混じって落ちる薄紅色の花びらを見つける。
それはまるで結ばれたばかりの2人を祝福するかのように早咲きの桜が咲きたての花びらを彼らの頭上に降り注いでいた。
積年の想いを成就させた清光の顔にはこれ以上ないくらいの笑顔が浮かぶ。
胸の内から湧き出る衝動を抑えられず、周囲にまだ人がたくさんいることも忘れ彼女に飛びつき胸の中におさめるようにして抱きしめてしまう。
顔も耳も真っ赤にした彼女に恥ずかしいから放してほしいと懇願されるも、今の彼がその願いを素直にきくわけなどなかった。
ずっとずっと想い続けてきた人。
ようやくつかまえた。
もうけっして離しはしないと、そう彼は心に刻み彼女を抱きしめる腕を強め笑顔のまま晴れた空を仰ぐ。
桜が舞っている。
目も眩むほどのまばゆい光の中で。
これは加州清光の物語。
彼が前世で残した未練を見事果たし愛する彼女へ想いを告げて恋心を極める、そんなお話。
ようやく手にした彼の幸せがこれからも末永く続くことを願い、ぼくは静かに舞台に幕を下ろす。
緞帳をおろすぼくの背に声がかかる。
ところでお前は誰なんだ、って。
ぼくが一体何者か。
そう言われると、ぼくには特別名乗るような名前がないから少し困るところだけれど。
そうだな、しいて言うならぼくは、加州清光に幾度となく意地悪だ意地悪だと言われ続けていた存在、といったところかな。
お話はこれでおしまい。
まぁぼくのことは置いておいて、今は幸せそうに笑い合う2人のことを静かに祝福するとしましょうか。
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