ドリーム小説
『カンベエ様・・・・カンベエ・・さま』
そこにいない人の名を呼んで。
夜の外廊下で涙を落とす彼女の姿を幾度となく見つけては。
遠くのどこかにいるあの人に知らせてやりたいと思った。
走 る !
その突然の変化に、は僅かに戸惑っていた。
今日もいつも通りの朝餉の風景。
ヘイハチが何倍もおかわりし、次いでカツシロウやゴロベエもに椀を向ける。
カンベエは口を開くことなく静かに食事を進める。
カンベエに無理に話しかけてもかえって迷惑がられるだけと悟ったは、静かに彼を見つめることにした。
そう心に決めた矢先のことだった。
「。もう一杯もらえるか?」
意表をついて名を呼ばれ、の心がどくんと脈を打つ。
数日振りに呼ばれた名前。
声のした方を向けば、カンベエが薄い笑みを浮かべてを見ていた。
「は、はい。ただいま」
慌てて駆け寄り、はカンベエの手から椀を受け取る。
一粒残さず綺麗に空になった椀に、湯気の立つ白米をよそう。
「どうぞ。カンベエ様」
「あぁ。すまんな」
椀を渡したとき、僅かに触れ合った指先がとてつもなく熱く感じた。
それでも何事もなかったようには下がり、櫃の横へと腰を下ろす。
触れた指先をきつく握り締めながら。
愚かだ。
あれぐらいで心が舞い上がるなんて。
なんてもろくて脆弱な心。
もう、どうしようもないくらい。
私の心はあの人に捕らわれているのだろう。
朝食が済み、各々が自由に行動し始めた。
は片付けのため、お膳の食器を重ねる。
かちゃかちゃと陶器の擦れ合う音を聞きながら、先程触れて感じた指先の熱を思い出していた。
「。ちと、よいか」
かちゃんっ
今まさに頭の中にいたその人に呼ばれ、は手に持っていた小皿を落とした。
割れなかったことにほっとして顔を上げれば、いまだ席に胡坐をかいたままのカンベエと視線が合った。
が返事をするより早く、カンベエが口を開く。
「片付けが終わったら、少し散歩などせぬか」
「え」
聞き違いかと耳を疑った。
あれ程までに接触を拒まれていたのに、この変化はどういうことか。
は僅かに戸惑う。
それでも、一緒にいる時間を許されたことはどうしようもなく嬉しかった。
顔がほころび、反射的に「はい」と言いそうになる。
だが自分がしなければならないことを思い出し、は曇らせた顔を伏せた。
「・・・ごめんなさい。今日は、一日お客様の予約が詰まっていて」
女中が食事をする暇もない程忙しいという。
そんな中、頼られ役のを一人連れ出すわけにもいかない。
何より、仕事を重んじるがそれを望むはずがない。
「そうか。ならば仕方がないな。また、後日としよう」
そう言ってカンベエは一つ頷く。
はやりきれない気持ちで片付けを再開した。
本当ならばカンベエの側にいたかった。
だが自分の仕事を放る程は子供ではない。
かちゃかちゃと膳を重ね持ち、は部屋から一歩廊下へと出た。
「」
背に再び声をかけられ、ゆっくりと振り向く。
膳の横からカンベエの顔を見る。
その顔は、どこか不安げだった。
「カンベエ・・様?」
「無理は、するでないぞ。」
かけられた言葉に、一瞬で全身の気が緩んでしまいそうになる。
そんなことを言われるなんて思っていなかった。
いつも無理をして気を張り詰めていた。
どんなときも笑顔を浮かべられるようにしていた。
強い自分を見せなければと思っていた。
カンベエの前でもそうしていなければ、彼に釣り合わないと不安だった。
だから。
無理をするなと言われて。
弱い自分を肯定された気がして。
気が緩んでしまいそうだった。
緩んでいく顔を何とか抑え、は微笑を返す。
「はい。お心遣いありがとうございます、カンベエ様」
踵を返して、その場を後にした。
勘でしかないけれど、カンベエがまだ自分のことを見ている気がしてならない。
背中にカンベエの暖かな眼差しを感じる。
好いた人に見守られていることが嬉しくてたまらない。
目の奥が熱くなる。
涙が零れぬよう、はきつく唇を噛んだ。
それから大分時間も経ち、蛍屋に射していた夕日も落ちた頃。
蛍屋の賑わいは最高潮となっていた。
女中の動きがいつも以上に世話しない。
客が来ては帰って来ては帰っての繰り返し。
その中で一番動いているのは、やはりだった。
いつも以上に座敷に呼ばれ、客の相手をする。
「さん、今日は一段とお忙しそうですね」
「あぁ。先程からもう百回はあそこを往復しているのではないか?」
「カツの字も手伝ってくるといいです。いつもご飯おかわりするんでしから」
「な!それを言うなら、ヘイハチ殿など三杯はおかわりしているぞ」
「おっと、カツシロウ君。僕は昨日と今日で半年分の薪割りをお手伝いしましたよ」
部屋の中で夕餉を取りながら、廊下を走り回るの姿を見つけては彼女の噂をする。
賑わう皆を他所に、カンベエは食事も程ほどに、部屋の隅に胡坐をかき、回廊を見ていた。
キララが言うとおり、先程からが最も多く廊下を行き来している。
重ねた膳を落とさないようにと必死な様が、カンベエは可愛らしくて仕方がない。
廊下の端に消えてはまた戻ってきて、次の膳を取りに駆けていく。
忙しいながらも生き生きとするに、カンベエは口元に笑みを浮かべて視線をそらした。
そのときだった。
―――おやめください、若旦那様!
遠くから聞こえてきた声にカンベエは視線を戻す。
そこには、の腕を掴んで連れて行こうとする若い男の姿があった。
カンベエも見覚えのある、いつぞやの夜の男。
「君。どうして今日は僕の座敷に来ないのさ」
「若旦那様。手をお放しになってくださいっ」
片手に酒の入った椀と徳利を持ち、もう片方の手での腕を掴んだ男は、嫌がるを引っ張っていこうとしていた。
手を触れられただけでも思い出す。
あの夜の戯れ。
唇の感触。
そしてカンベエに見られた罪悪感。
は故意にこの男の座敷を避けるように仕事をしていたが、まさかそれが仇になるとは思いもしなかった。
酒の入って上機嫌の男は、の拒絶も単なる照れ隠しとしか思っていない。
「後程参りますゆえ、どうかお放しを」
「嫌だ。今すぐ来いよ」
「若旦那様っ」
掴まれた腕に痛みが走る。
助けて、と。
心のどこかで叫んでいた。
そんな願いが叶うはずはないのに。
こんなみっともない姿を二度もカンベエに見られたら。
嫌だ、嫌だと心が叫ぶ。
きっとまた口をきいてもらえなくなる。
無理矢理に引きずられる弱い自分が惨めで、はきつく目を瞑った。
それは突然だった。
掴まれていた腕が解放され、痛みが消え去った。
はゆっくりと目を開ける。
視界一杯に広がる白。
「大事無いか?」
男からを庇うように。
の目の前で白い装束と焦琥珀色の髪が揺れていた。
つ ぶ や き
ヒーローは遅れてやってくる。
次でこのお話は終わりです。
戻る!
SEO
掲示板
[PR]
爆速!無料ブログ
無料ホームページ開設
無料ライブ放送