ドリーム小説
「すすはき」、という行事がある。
その名の通り、一年の厄払いとして家中の煤や埃を払う大掃除である。
正月を迎えるにあたり、蛍屋もまた従業員総出で煤掃きを行っていた。
女将ユキノの声が飛ぶ中、働き者のの廊下を走り回る姿もある。
「ちゃん。納戸から新しい箒取ってきてもらえる?」
「はい、ただいま!」
元気に返事をしてはぱたぱたと廊下を駆けて納戸に向かった。
長い廊下を曲がったところに納戸はある。
さて箒を、と角を曲がったところで。
「あれ・・?」
は頓狂な声を上げた。
目の前の現象に目を点にする。
「お納戸って・・・二つもあったかな」
の前には古びた滑り戸が二つ並んでいた。
の記憶が確かなら、ここには納戸は一つしかなかったはず。
いつの間に改築したのだろうとは不思議に思いながら、何気なく右の戸に手をかけた。
がたついた扉を、少し力を入れて横に滑らせる。
がらり、と戸が開いた瞬間。
常闇がを襲った。
まるで亡霊の霊気に包まれたように、体がすくみあがった。
視覚も聴覚も嗅覚も触覚も、全ての感覚を奪われて意識を体から引っぺがされる。
気を失う寸前、声にならない声で助けを求めてあの人の名を呼んだ。
藍色夜曲
「ちゃん?」
いつまで経っても戻ってこないを心配したユキノは、廊下の角からひょっこりと顔を出した。
見れば、納戸の戸が開け放たれたままになっている。
の姿はない。
「どこに行ったのかしら・・?」と、ユキノは不思議に思いながら納戸の箒を手に取った。
が仕事をさぼるはずがない。
お手洗いにでもいったのだろうか。
「まぁ、すぐに戻ってくるでしょ」
あの子が何も言わずに消えるわけがない。
を信用し、ユキノは納戸の戸をがらがらと閉じた。
一つしかない、納戸の戸を。
*
「・・・ん・・」
目を開ければ、そこは常闇。
何も見えない、何も聞こえない。
だが、土のにおいはする。
自分が地面に寝転んでいることに気付き、は半覚醒の気だるい上半身を起こした。
「うっ・・・何、このにおい・・」
感覚の戻ってきた鼻を、強烈な鉄のにおいが刺す。
それだけではない。
何を焼いたらこんなにおいが出るのかと疑いたくなる悪臭がそこには蔓延していた。
次第に回復する視界に、その異様な光景が映し出される。
そこは、夜だった。
そして、焼け野原だった。
雲が月を隠していて、決して明るいとは言えない夜だった。
星だけが輝く夜空の下、あちこちから細い煙が立ち昇り、遠く彼方まで大小様々な鉄屑が散在している。
戦艦の備品、斬り捨てられた雷電、折れて地面に突き刺さった斬艦刀。
それを見たことのないにもわかる、ここは戦場跡だ。
どうしていきなりこんな場所に自分は放り出されたのか。
ただ、料亭蛍屋の納戸を開けただけの自分に何が起こったのか。
これは、夢の中のことなのか。
「・・・私、立ったまま夢見てるの・・?」
非現実的過ぎて不安も感じられない。
きっと夢の中のことなのだ、とは自分に言い聞かせる。
不意に、がらんっと巨大な音を立てて鉄屑が崩れ落ち、は思わず悲鳴を上げた。
騒音が消えて、はそっと後ろを振り返る。
暗闇の中で埃が舞い上がっていた。
からからん、と部品の落ちる音が哀しく響き、の鼻が埃のにおいを嗅ぎ取る。
これは、本当に夢なのか。
ゆっくりと押し寄せてくる恐怖と不安。
鼓動が徐々に速くなっていくのを感じながら、はゆっくりと首を元に戻した。
刹那。
視界いっぱいに黒いものが広がり、体が反転した。
「ひぁ・・・・っ!!!?!」
「声を出すな」
の体が再度地面に押し倒され、黒い何者かに腹の上に乗っかられて身動きがとれなくなる。
それの足音など全くしなかった。
いつの間に、と驚愕しながらもは自分を組み伏せる相手の顔を見ようとした。
だが、次の瞬間には乱暴な手つきで視界を片手で覆い隠されてしまった。
視覚を遮断され、恐怖が増大する。
「や・・っ」
「声を出すな。不要に発言すれば、喉を裂く」
ひやり、と。
喉に冷たいものが押し当てられた。
見なくともわかるそれは、恐らく刀の峰側だ。
ごくりと喉を鳴らせば、男は低い声で「質問にだけ答えよ」と言った。
「虚偽は命を縮めるだけだと思え」
「・・・・っ」
「問う。お前は・・北軍の者か?」
に答えさせるためか、刀が少しだけ浮いた。
喉から圧迫感が消えて、は細く息を吸って何とか答える。
「違い・・ますっ」
「そうか。証拠は?」
「・・そ、んな・・っ」
これ以上、なんと答えればいいかわからない。
言い訳すればするほど怪しまれる気がする。
第一、 気付いたらここにいたなどと言って誰が信じてくれよう。
「答えぬのならば、斬る」
「・・・・っ」
情け容赦のない男の声が聞こえ、次いで「ちゃきり」と刀の刃が返される金属音が耳に入った。
体中から冷たい汗が吹き出る。
絶望。
恐怖。
どうにもならない状況で、の口から零れた小さな言葉は、愛しい者の名だった。
「・・・カンベエ、様・・っ」、とが悲鳴のように囁いた瞬間。
「・・・女・・・」
男は息を潜め、の喉から刀を外した。
刃の恐怖から解放され、は荒く息を吸う。
圧力をかけて目を覆い隠していた男の大きな手が、ゆっくりと浮いていった。
は何度も目を瞬き、暗さに目を慣れさせる。
男は完全に手をどかし、驚いたような声でに問いかけた。
「お前・・・何ゆえ俺の名を知る?」
「え・・・?」
その言葉の意味がわからず、は自分を見下ろす男の顔を見上げた。
まるで時を狙ったように、雲が流れて隠れていた月が姿を現す。
月明かりの下に、男の顔がはっきりと見えた。
「・・ぇ・・・っ」
の口から、恐怖とは違う種類の悲鳴が漏れ出る。
低い声から大人の男性だと思っていたが、自分を組み敷く彼は年の頃十七、八程度の少年だった。
広めの肩から少しだけ零れる、緩く波打つ髪。
両耳で揺れる銀細工の耳飾り。
骨の浮いた、無骨な男らしい顔に鋭い眼。
暗くてわからないが、その目がきっと焦琥珀色をしていることがにはわかった。
その顔には、深い皺や顎鬚もない。
が知る声より、もう少しだけ高い。
だがそれは見まごうことなく。
「確かに俺の名はカンベエ・・・島田カンベエだ」
少年は鋭い眼でを見下ろし、威風堂々と言い放った。
は目を見開いたまま、何も言えずにその目を見つめ返す。
人は本当に驚いたとき、その悲鳴は声にならぬことを。
今宵、はその身をもって知るのだった。
*
何がどうなってこうなってしまったのか、さっぱりわからない。
ぐるぐると頭を巡らせ悩むに、島田カンベエ少年は声をかけた。
「そんなに不安になることはない。数日のうちに焼けずに残った村の集落が見つかるであろう。そこでそなたを降ろしてもらえるよう、上に頼んでおこう」
「は、い・・・・」
「それまでは、すまぬがこの部屋で寝泊りしてもらうことになる。少々散らかっているが、まぁ大体のものはそろっておる」
「何か不便があれば俺に言ってくれ」とカンベエは、先程の地上のときとは違う穏やかな声でに告げる。
は物珍しげにぐるりと部屋を見渡した。
視界いっぱいに、本、本、本。
部屋中を本が埋め尽くしており、本棚に入りきらない本が床の上に散在している。
机に椅子、ソファーに低めのテーブルという洋風の内装は、なかなかに居心地がいい。
はソファーと呼ばれる柔らかな椅子を勧められて腰掛けていた。
ふと彼の座る横に目を向ければ、見慣れた銀と黒造りの刀が立てかけられている。
顔もそっくりで、時折見せる仕草の一つひとつも同じ。
やっぱり彼は、姿は若いとはいえが知る島田カンベエのようだ。
「しかし、先程は誠に申し訳ないことをした。改めて謝罪したい」
「そんな・・お気になさらないで下さい。あのような場所をうろついていた私にも非があります」
向かいから浅く一礼するカンベエに、は慌てて手を振る。
あの焼け野原は、カンベエが身を置く軍が勝利した場所で、カンベエは調度残党狩りをしていてを見つけたそうだ。
慌てて怯えるの様子に、カンベエは彼女が焼けた村の生き残りだと思ったようだ。
カンベエによって戦艦へと保護され、は彼の執務室だというこの部屋に通された。
随分と若い、見慣れないカンベエを目の前に、は先程からちらちらと彼を見ていた。
「・・・・」
「俺の顔に何かついているか」
「い、いえ・・あの・・・ごめんなさい」
「いや。別に謝るほどのことではないが。まぁそう緊張せず・・・と言っても無理はないか」
そう言ってカンベエはふっと笑ってを見つめた。
その笑い方に、は「あっ」と思わず声を出しそうになる。
見慣れた笑みがの緊張を少しだけほぐしてくれた。
「つまらぬ部屋だろう」
「いえ。そんなことは」
「そなたのような年若い少女が興味を示せるものなどないが、何か必要であれば」
「あ、あの・・・私」
年若い少女・・・。
そう言われては思わず苦笑いしてしまう。
「私・・・・もう少女と呼べる年では」
「・・・・・なに?」
「あの・・二十を越えておりますので」
「・・・・・」
を見据えるカンベエの目が僅かに見開かれる。
驚いた眼でじっとを見ていたが、ふっと気まずげに横を向いてしまった。
「これは・・失礼した」と弁解しているところを見ると、どうやらが年下だと思っていたようだ。
顔をそらしたことでに向いた耳が、僅かに赤みを帯びている。
思わず「かわいい」などと思ってしまった自分に、ははっと我に返る。
不意に、戦艦内に突如として警報が鳴り響いた。
否が応でも人の不安を掻き立てるその音に、は無意識に顔を強張らせる。
だが目の前の少年は、まるで慣れたように機械的な動作で表情を引き締め、傍らに置いていた黒と銀造りの刀を手に立ち上がった。
「殿。すまぬが此処に居てくれ」
「あの・・っ」
「ただの召集ゆえ、数刻で戻れると思うが。奥が寝所になっている。好きに使ってくれて構わぬ」
そう言って立ち去ろうとする彼の背に、「カンベエ様!」と思わずはいつもの呼び名で声をかけてしまった。
振り向いたカンベエ少年は、苦笑いしている。
「よしてくれぬか、そんな厳かな呼び名。俺には似合わぬ」
「あっ・・ごめんなさい」
「そなたの方が年上なのだから、そんなにへりくだらずとも」
「でも・・あの・・・」
そんなことを言われても、とはまごつく。
年恰好が若く、且つの方が年上とはいえ、目の前にいる島田カンベエの方が何倍も落ち着いていて大人の雰囲気を放っているのだから仕方がない。
大人びた少年に対して、自分は何と呼んだらいいのか。
島田様、島田さん、カンベエさん、カンベエ殿・・と羅列してみるが、どれも合わない気がする。
そんなことを考えている間に、カンベエはドアを開けてしまっていた。
彼が行ってしまうと、は慌てて思いついた呼称を呼んだ。
「カ、カンベエ君!」
「!」
「どうかお気をつけてっ」
口に出して言ってみてから、何かもの凄く恥ずかしい呼び方のような気がしては頬を赤らめた。
ドアの外で扉を閉めながら、カンベエがこちらを向いて驚いたような目をして。
そして、あの焦琥珀色の目を細めて笑った。
「行って参る」
ぱたんと扉が閉まり、軍靴の立てる高い足音が遠ざかっていく。
次いでばたばたと慌しい兵士たちの足音を耳にして、はどさりとソファーに腰を下ろした。
そのまましばらく虚空を見つめたままぼぉっとする。
脳がうまく働いてくれない。
先程の「カンベエ君」呼ばわりもなかなかに恥ずかしかったが、今はそれ以上に考えなければならないことがたくさんある。
果たして自分は元の世界に戻れるのか。
もう一生カンベエには会えないのか。
いや、カンベエには会っている。
だが彼は若い頃のカンベエであって、が慕い知っているカンベエでは。
「わけが・・・わからない・・」
長めのソファーにころんと転がり、は目を閉じた。
信じられないことの連続に、思った以上に疲れていたようだ。
目を閉じて十秒で眠りの世界に入ることができた。
次に目を開けたとき、元の世界に戻っていることを願って。
*
「だんな、お前さん。ちゃん、見かけませんでした?」
ユキノに後ろから声をかけられ、カンベエとシチロージは運んでいた荷物を置いて振り向いた。
その横をはたきを持ったヘイハチとコマチが駆け抜けていく。
「これ。ヘイハチ」と注意し、カンベエは改めてユキノを見据えた。
「わしらは見ておらんが」
「そう・・ですよねぇ」
手伝いとして朝からずっと蔵の整理をしていたカンベエとシチロージが知るはずがない。
頬に手を添えてユキノは溜め息を吐く。
「おらぬのか」
「えぇ。先程からずっと」
「ふむ。あれが仕事を放るとは思えぬが・・・・・・おぉ。キュウゾウ」
調度よく姿を現したキュウゾウにもカンベエは声をかけた。
ユキノ同様の所在を聞けば、「知らぬ」と一言返ってきた。
「そうか。・・・ところでお主、どこで何をしておったのだ」
「厨房で。ずっと包丁研ぎを」
「全ての包丁をか?」
キュウゾウが静かに頷けば、廊下の向こうから板長らしき男が「すげぇ、なんだこの包丁?!まな板が切れたぞ!」と驚きの声を上げているのが聞こえた。
「・・・・」
「居ないのか」
問題は初めに戻る。
が見当たらない。
蛍屋のどこにも居ない。
外に買い物に行ったようでもない。
が、蛍屋から姿を消した。
「神隠し・・・なぁんてね」
「そんな、まさか・・・お前さんったら」
シチロージの軽口にユキノは笑って答える。
だが、二人の笑みはだんだんと固まっていく。
ありえない、などとは言えない。
年の暮れ、何が起きても不思議ではない。
四人の間に、何とも言えぬ不穏な空気が流れ始める。
再び走り戻ってきたヘイハチとコマチを、今度は誰も咎めなかった。
*
一度目は、闇夜の焼け野原で目を覚ました。
この世界へ来て、二度目の目覚め。
柔らかなソファーに顔を沈めてゆっくりと目を開ければ、ぼやける視界に初めに入ってきたのは、机で黙々と書類処理をする年若いカンベエの姿だった。
「う・・ん・・」
「あぁ。起きられたのか」
「はぃ・・・・・えっ?はい!」
半ぼけの体をばねのように弾かせては起き上がった。
その反動で、体に掛けられていた毛布がふわりと落ちる。
上質な毛布、自分で掛けた覚えはない。
「あの、これ・・・・カンベエ様が掛けて下さったのですか?」
「ん?あぁ。寒そうにしておられたのでな。・・・ところで、呼称が元に戻っているようだが」
筆を止めてふっと苦笑いするカンベエに、は「あ・・」と思わず声を漏らした。
やはり呼びなれない名は、すぐに忘れてしまう。
「ありがとうございます。カ・・・カンベエ君」
「今度は何やらぎこちないようだが・・・」
「あっ、その・・ごめんなさい。何だかおかしな感じがしてしまって・・・」
「まぁ、仕方なかろう。伴侶殿と同じ名では」
「・・・っ」
思わずは耳を赤くする。
あの焼け野原で思わずカンベエの名を呼んでしまったことを、は自分のよく知る人の名が出たのだと説明した。
だがカンベエは思った以上に勘が鋭く、の揺れる瞳を見つめて「それは、そなたの想い人では?」と言い当ててしまったのだ。
これには参り、も顔を赤くして頷くしかなかった。
「まぁ無理に慣れようとすることもない。数日の縁だ。そのうち、近くの村に辿り着く」
「・・・そうですね」
の曖昧な返事には気にした様子もなく、カンベエ少年は再び仕事に戻ってしまった。
山積みの書類を淡々とこなし、段を低くしていく。
はその姿を黙って見つめていた。
の視線に気付き、「殿は先に休まれよ」と声をかけてくれたが、はそれを丁重に断った。
自分より年下のカンベエが仕事をしているのに自分は何もせず寝るとは、という申し訳なさもある。
だがそれ以上に、見たことのないカンベエの様子を見ていたいという欲求の方が強かった。
「(カンベエ様のこんなお若い姿、シチロージ様だって見たことないんだろうなぁ)」
そう思えば、小さな優越感に浸れては小さく笑んだ。
それから日ばかりが過ぎていった。
がこの世界に来て三日経ったが、行けども行けども村の姿はない。
まるで何かの力が働いているかのように、村や町は見つからなかった。
の戦艦での生活が長引いていく。
「カンベエ君。お茶が入りましたよ」
「あぁ。かたじけない」
戦艦での生活が始まって数時間後には、働いていないと落ち着かないの性質が出ていた。
好きなようにしていいと言われたので、は甲斐甲斐しくカンベエの世話を焼く。
机に向かうカンベエに茶を出したり、本の散らばった部屋を片付けたり、軍服のほつれを直したり。
一度だけカンベエの上官にの姿を見られ、「まるで若夫婦のようだな、島田」とからかわれた。
そのときは二人そろって耳を赤くし、余計に上官の笑いを誘ったのだった。
だが勿論、楽しいことばかりではなかった。
戦艦内に警報が鳴れば、カンベエは厳しい顔つきで部屋を出て行き、敵と一戦交えて怪我をして帰ってくることもあった。
「カンベエ君・・・っ」
執務室に戻ってくるなり、閉めた扉に背をもたれさせてずるずると床に座り込むカンベエを見ては、は悲鳴を押し殺した。
「す、すぐに手当てを!」
「よい。・・ただのかすり傷だ」
「駄目ですっ。ちょっと待っていてください、薬箱を」
「よいと言っておるのだ!」
いつにない荒げた声でを止め、カンベエはきつそうに眉根を寄せながら自分の足でソファーに重く腰掛けた。
そのままぐったりと横になってしまい、発せられる鬼気には近づけなくなる。
どうしてか、カンベエはいつもに手当てさせようとしなかった。
だが、その行動が悪いとは思っているらしく、ソファーの上で額に手を置いて、申し訳なさそうな声で告げるのだ。
「すまぬ・・・」
「あ、の・・私」
「そなたの厚意はありがたい。だが、すまぬ・・・・しばらく独りにしてくれぬか」
そう言われてしまっては、はどうすることもできない。
は静かに奥の部屋へと引っ込むのだった。
去り際にちらりと後ろを振り向いても、カンベエはあのままの体勢でを見ることはない。
戦いが終わった後のカンベエは、いつも怖かった。
普段はあんなにも穏やかで、十代とは思えぬ寛容さを醸し出して優しく笑うのに。
戦に触れると途端に全身に鬼気を張り巡らせ、誰をも寄せ付けない孤独の気をまとわりつかせる。
あんなカンベエを、は知らない。
少なくともが知っている大人のカンベエは、その鬼気にすら優しさが感じられた。
若さ故、か。
だが、それだけではない気がする。
そして戦艦での日々を過ごすうちには、あのカンベエから時折感じる刺々しさの意味を徐々に知っていくことになるのだった。
それは何気ない一日の、ありふれた夕方過ぎのことだった。
カンベエは軍議で部屋を留守にしていた。
滅多に執務室から出ることのなかったが、興味深げに視線をあちこちに向けながら廊下を歩いていると。
「おや。さんじゃないか」
「あ。中将さん」
以前、とカンベエをからかった上官に出くわした。
中将と呼ばれた背の高い精悍な中年軍師の背後には、カンベエとさして年の変わらぬ少年が三人いる。
彼らのを見る眼は、好奇と嘲笑が入り混じっていた。
が邪気のない笑顔で「こんにちは」と挨拶をすれば、二人の少年は頬を染めて目を彷徨わせた。
もう一人、短い黒髪の少年だけが、鋭い眼でを見据えている。
が挨拶しているうちに、中将は遠くから名を呼ばれて行ってしまった。
上官が消えて好機となったからか、黒髪の少年は何とも嫌な笑みをに向けた。
「あんたか。噂の島田の女は」
「え・・?」
言われた言葉の意味がわからず目を丸くすれば、少年は余計に嘲笑を深めた。
「いい御身分だよな。出世街道まっしぐらで、加えて女までいれば、何の不自由もないんだろうな」
「あの・・」
「頭も腕も、主席で卒業した奴だ。夜の方もさぞかし優秀なんだろう?」
「な・・っ」
少年が何を言いたいのかさっぱりわからなかったが、最後のその言葉だけはわかった。
下劣な内容でカンベエと自分が馬鹿にされたとわかり、は怒りと羞恥で顔を赤くする。
「な、何をおっしゃいますっ。おやめ下さい」
「照れることないだろう。あいつについていれば、将来は安泰だ」
「止めてくださいっ」
「せいぜい捨てられないように、しっかり御奉仕でもするんだ・・な」
勢いづいてをなぶっていた少年の口調が不意に言いよどむ。
不意に、黒髪の少年の後ろから聞きなれた声が聞こえてきた。
「それ以上の言は、俺が許さぬ」
「・・・っ」
黒髪の少年の首の後ろに抜刀していない鞘の先を突きたてながら、カンベエは冷えた口調で言い放った。
少年の体が竦みあがり、饒舌が止まる。
そばで見ていた二人の少年も顔を青くしていた。
「誹謗中傷なら俺に直接言ったらどうだ」
「・・るさいっ」
「人の女に嫉妬の矛先を向けようなど、武士として情けないとは思わぬのか」
「うるさい、黙れっ!!・・・が、はっ!」
首の後ろに突きたてられていた刀で思い切り小突かれ、少年は無様にもの前に跪いた。
ぎらつく眼で上を向いて睨まれ、は思わず数歩後ずさる。
カンベエは、背を丸めて跪く少年の横を通り過ぎ、呆然とするの手を引いた。
去ろうとする二人に、黒髪の少年が苦々しげに吐きかける。
「この・・・下衆、がっ。大量殺戮せねば一勝も上げられぬくせにっ!!」
「・・・・・っ」
「あぁ。お主の言うとおりだ。だが・・・斯様なことは、一勝上げてから言うてみよ」
床に這いつくばる黒髪の少年を見据えるカンベエの眼は、まるで猛禽類の眼のようだった。
まるで温度のない焦琥珀色の目をも偶然見てしまい、背筋を悪寒が走っていく。
あれは、が知っているカンベエの目ではない。
無言でカンベエに手を引かれ、二人は執務室に戻った。
部屋の扉が閉まった瞬間、カンベエは振り向き、を扉に押し付けるように顔の横に両手をついた。
間近で真剣な顔で見つめられ、の鼓動が俄かに跳ね上がる。
「あの・・ご、ごめんなさい、私、勝手に外に出」
「何もされなかったか?」
の言葉をさえぎり、カンベエは低い声で問う。
じっと見つめられながら、は小さく首を横に振った。
途端にカンベエから力が抜けたのがわかった。
どうかしたのだろうかと思えば、不意にカンベエは額をの肩に押し付けてきた。
頬をくすぐる癖のある髪に、の胸がとくんと揺れる。
「カ、・・カンベエ君?」
「よかった・・・。ここに戻ればそなたの姿がなく、心配していたのだ」
「あ・・ご、ごめんなさい」
心配して探しに来てくれた。
そう思うと、はぎゅっと胸が締め付けられた。
肩口で話されて首にかかる熱い息すら、今は愛しい。
彼は、自分の愛しい人の過去でしかないけれど、それでも同じ想いを抱いてしまいそうになるのは何の因果だろう。
「カ、カンベエ君・・っ」
「なんだ・・」
「あの、灯り・・灯りをつけましょうっ。もう部屋の中も暗くなってきましたし・・っ」
が出て行った頃は夕方過ぎで窓から赤い夕日が射していたが、今はもう夜の帳が落ちている。
戦艦の外観を覆う見回りの灯火が、時折窓から入ってくる程度。
暗い部屋で男と抱き合うような体勢でいて、もしも誰かに見られたらとは焦った。
だがカンベエは一向に動こうとしない。
の肩に頭を預けたままだ。
「夜は・・・好かぬ」
「で、でしたら尚更灯りをっ」
「よい・・・」
「え・・」
「・・・そなたがいるなら、構わぬ」
「カ・・・・・・っ?」
するりとカンベエの手が、の腰と背中に回ってきて、扉に預けていた体を引き寄せ抱きしめられた。
両腕だけを自由にされ、かえってはどうすればいいかわからず宙をさまよわせる。
「・・・・すまぬ。そなたには、心に決めた者がおるというのに」
「あ・・の・・」
それは、貴方です。
私が愛しているのは、未来の貴方です、と。
言えないことが歯がゆい。
カンベエのそのすがるような抱きしめ方に、は戸惑った。
が知る白装束のカンベエは、大きな体でを覆うように抱きしめる。
自分の肩に顔をうずめ、腰にすがる幼いカンベエに、庇護欲を感じてしまう。
「カンベエ君・・・」
「・・・・・」
「何か、あったのですか・・?」
優しげに問えば、カンベエはくぐもった声で「別に・・」と答えた。
「闇が・・・怖いだけだ」
「そんな。嘘、でしょう?」
「嘘ではない。俺は・・・夜の闇が好かぬ」
そう言ってカンベエはあらん限りの重心をにかけてきた。
カンベエの体を支えきれず、二人はずるずるとそのまま床の上に座り込んだ。
それでもカンベエはから離れようとせず、きつそうな体勢には思わずカンベエの背中を優しく叩いた。
「カンベエ君・・あの、つらくないですか?その格好では」
「・・・平気だ」
「その・・・膝を」
「・・・・」
「膝を、お貸ししますから・・横になられたらいかがですか」
そんな提案、大人のカンベエ様にも滅多にしないのに、と僅かに罪悪感を覚えながらは告げた。
静かな部屋にの声が霧散し、次いでカンベエが動いて発せられる服の音がした。
顔は上げず、ずるずると地へと沈むようにの膝に横向きに頭を預ける。
後ろで結んでいる髪がどことなく窮屈そうで、「髪・・ほどきますよ?」と告げて細い麻紐を引いた。
着物の上に焦琥珀色の癖毛が広がる。
しばらく、部屋に静寂が流れた。
窓の外をちかちかと光の線が飛んでいる。
「殿は」
「え?」
「夜の空は、闇色だと思われるか」
何の前触れもなくそう問われ、は何と答えていいかわからず押し黙った。
夜の空は、闇色か。
カンベエはその問いで何を伝えたいのだろう。
考えあぐね、「カンベエ君はどうお思いなのですか?」と問い返せば、低い声が「闇だ・・」と呟いた。
「夜の空には、闇が棲んでいる。その闇の中に、更に亡霊が棲んでいる。彼奴らは、陽が出ている間に俺が斬った者たちで・・・夜になると闇から姿を現し、俺の中に入ってこようとする」
カンベエは一つ息をし、「故に俺は、夜は人を斬らない。夜に人を斬れば、容易く闇が俺の中に入ってくる」と呟いた。
は、カンベエと初めて会ったときのことを思い出した。
あのとき、隙だらけのを斬ろうと思えば幾らでも斬れたはず。
なのに、カンベエは刀の峰を返して、そうしなかった。
しなかったのではなくて、できなかった。
「先程のあやつらが言っていた事は、誠だ」
「え・・?」
「俺は、戦に勝利した。だがそれは敵も味方も・・・市民すら巻き添えにして勝ち得た勝利だ」
とカンベエが出会った焼け野原は、カンベエの罪過の爪痕。
カンベエは言う、あの戦は己が初めて指揮を執ったのだと。
「大勢の者たちを斬り捨てて、その屍を踏みつけて・・・・そうして手にした一勝に、果たして意味などあるのか。俺が生き残り、皆が死んで・・・これが・・これが勝利か・・っ」
僅か十七、八の少年が戦地に立って指揮を執らされ勝利し、その罪過を全て背負う気でいる。
この子は、どれほどの士魂を内に秘めているのか。
できることなら、今すぐにでも抱きしめてあげたい想いを押し殺し、は静かに問いかけた。
「カンベエ君。一つ、聞いてもいいですか」
「・・・・」
「何故私に、あなたの手当てをさせて・・・あなたに触れさせてくれないのですか?」
問いかけるの声は、何となく答えがわかっている音がした。
それでもカンベエが答えてくれるのを待った。
「そなたに・・・俺の闇と穢れが移る」
あぁ、やっぱり。
が待っていた通りの答えに、暗い中では小さく苦笑いした。
思わず、はカンベエの頭を撫でてしまった。
の行動にカンベエは僅かに顔を上に向けてくる。
闇夜の焦琥珀の眼に、は自愛に満ちた笑みを浮かべて目を閉じた。
「カンベエ君。私の、心に決めた方も・・・闇と穢れと、罪過を背負って生きています」
語るように言って、はカンベエの頭を撫でる。
カンベエが見上げているのだろう、閉じた瞼が何だか暖かい。
「それでもその方は・・・・・刀を持ったら絶対に迷わず、守るべきものを守るために、刀を振るうのです」
閉じた瞼の向こうで、愛しい彼の人が優しく笑んでいるのが見えた。
それはを想って笑っているようにも見えるし、若い己が世話をかけると照れているようにも見えた。
ふと、頭を撫でていた手が掴まれたのを感じて目を開けた。
カンベエはの細い手をとると、手の平をそっと己の頬に寄せる。
「カンベエ君・・?」
「嫉妬する」
「え?」
「そなたの想い人に」
そしての手の平に、軽く唇を押し当てた。
小さな音を立てられ、は俄かに赤くなる。
と思えば、いきなりカンベエがその身を起こしてに顔を近づけてきた。
「あああの・・カンベエ君!?」
「礼を言うぞ・・・殿」
「え・・っ?」
焦り慌てるの手を引いて、カンベエはを抱きしめた。
その抱擁は愛しい者を抱きしめているようでもあり、姉に甘えているようでもあり、幼子のように母に守られたいとしているようでもあり。
だがその全てが、島田カンベエだった。
ぎこちない抱擁。
まだ若い、守る者をもたず、己が道のみを突き進む少年の強さが滲み出ている。
ぎゅぅっと抱きついてくるカンベエの背を、は優しく撫でてやった。
「カンベエ君。先程の、質問の答えなのですが」
*
夕日が差し込む蛍屋の廊下を、カンベエやユキノ、シチロージ、ヘイハチ、カツシロウたちが世話しなく駆け回っていた。
煤掃きも終わり、明日はめでたい正月を迎えるというのに、蛍屋には一つの問題が残っている。
「ちゃーん!」
「さん、どこにおられますかー?」
昼過ぎ頃から侍たちが総出でを探し回っているが、いまだに彼女は見つからない。
押し入れ、納戸に蔵の中まで探したのに、鼠や猫はいてもはいない。
「外に出た可能性はないのか」
「それはありませんね。ちゃんの履き物がありましたから」
シチロージの言葉にカンベエはますます頭をひねる。
一体はどこへ行ってしまったのか。
本気で、神隠し説が有力になってくる。
「女将。聞くが、が最後に向かった場所は」
「お納戸です。私がちゃんに、箒を取ってきてと頼んだんです」
「納戸・・・納戸、か」
カンベエは思案げに顎を撫でさする。
だが不意に、何かを考え付いたように足を納戸の方へと向けた。
「カンベエ様?何かお考えでも」
「いや、な。納戸には、神が宿ると聞いたことがある」
納戸神、と呼ばれるものがある。
主に正月の神、田の神とされる。
カンベエは半信半疑ではあったが、最早そんなものにすがってでもを取り戻したかった。
「わしとて、愚かな考えだとは思っておる。だが、もしもだ。その納戸が閉じて、が帰ってこれぬのだとしたら」
「納戸を全て開けておけば、ちゃんが見つかる可能性が」
「最後の最後に神頼みとは、ちと情けないがの」
カンベエは苦笑いしながら、廊下の角を曲がった。
納戸が一つ、亡羊とそこに存在している。
「まずは一つ。それから女将に頼んで、蛍屋の全ての納戸を開けてもらえぬか」
「心得ました」
シチロージはきびすを返してユキノへ報告しに行った。
カンベエは納戸の戸と向き合い、「ふむ」と一つ唸りを上げた。
こんなことをしてどうにかなるとは、一割ほどしか思っていない。
だが、何もやらぬよりはよい、とカンベエはすがる想いで納戸の戸を横に滑らせた。
*
どうしてかはわからない。
それでも、どうしてか。
には、カンベエとの別れの日が近付いているのがわかった。
この偽りの時代と年若いカンベエに別れを告げ、元の時代に、が想い慕うカンベエの元へ帰る。
それはが望むこと。
早く帰って、煤掃きの手伝いをして、正月の準備をして、カンベエと年を越したい。
それなのに、今ここにいるカンベエと―――今、ソファーの上で自分の膝の上に頭を乗せて仮眠をとっているカンベエとの別れを惜しんでいる自分がいた。
「よく寝てるなぁ・・」
「・・ん・・」
窮屈そうな軍服の前をくつろげて、寝返りを打ちながらの膝に頬を摺り寄せる姿は何とも可愛らしい。
あの夜以来、カンベエは暇さえあればに身を寄せるようになっていた。
いきなり悪戯っ子のように後ろから抱きしめてきたり、がソファーに座っていればこうして膝枕を要求してきたり。
可愛い我侭についつい応えてしまう自分もいけないのだが、とは苦笑する。
そして最近、カンベエが出撃する機会が格段に増えた。
そのたびに小さな怪我を無数に作って疲れた顔で帰ってくるものだから、邪険にできずこうして甘やかしてしまうのだ。
そして変化したことがもう一つ。
が、カンベエの傷の手当をすることを許されるようになった。
「怪我ばかりして・・・。もう・・・どうして無事に帰ってきてくれないのですか」
「それは、そなたが手当てしてくれると期待している故だな」
「えっ?カ・・カンベエ君、起きていらしたのですかっ?」
突然の返答に慌てれば、カンベエはにやりと笑いながら身を起こした。
テーブルに置いた麻紐に手を伸ばし、器用に後ろで髪を結いながら、「今起きたのだ」とを振り向く。
「十分お体は休まりました?」
「あぁ」
小さな欠伸を手で押さえながら、カンベエはにやりと笑ってを見据えた。
「そなたが、細い割には柔らかな体をしているおかげでな。以前よりも安眠できる」
「え・・なっ!カンベエ君!」
こうやってからかうところは、今も昔も変わっていないらしい。
は薄っすらと頬を染めてカンベエを睨む。
逆にカンベエは、何故か真剣な眼で全体を見ていた。
顔を見ていたかと思えば視線を動かして首や足、腰付近を見られ、カンベエは思案げに髭のない顎に手を置く。
異様に熱い視線に見つめられ、何だか気恥ずかしくなる。
「あの・・何か?」
「あぁ、いや・・・・」
「?」
「・・・・やはり、もう抱かれているのだろうな」
「はい?」
独り言のような囁きは、には聞こえなかったようだ。
「何でもない」と、カンベエは少しだけ落胆した声で返事する。
だが、自分を不思議そうに見つめるの眼に、今度は真っ直ぐな視線を向けた。
迷いのない、鋭いけれどどこかに穏やかさを感じる焦琥珀色の目。
射抜かれる、というのはこういうことを言うのかもしれないとは思った。
「どうかされました・・?」
「殿。そなたは、これからどうするつもりなのだ」
「・・これから、ですか?」
「あぁ。そなたが居たあの地区からはもうだいぶ離れてしまっている。どこかの集落で降りるというのならばそれでも構わぬが・・・・そこから、そなたは慕い人を探すおつもりか」
「あ・・・」
そんなこと、考えてもいなかったとは虚を突かれる。
あのとき咄嗟にそう言ってしまったが、今の状況を考えれば、どこかの集落で降ろされたら困るのはなのだ。
元の世界に帰れない、という状況を考えてもいなかった。
どう言えばいいのだろう、とは顔を歪めて考えていれば、を見つめたまま、「殿」とカンベエが名を呼んだ。
そらすことなく真っ直ぐに見つめられ、一瞬心を持っていかれそうになる。
「殿」
「・・はい・」
「そなたさえよければ・・・・ずっと此処にいないか」
思わぬカンベエの申し出に、は「え・・」と目を丸くする。
だがカンベエに真っ直ぐに目を見つめられ、次第にその言葉の意味がわかってきての頬が少しずつ朱に染まっていった。
の変化を見て、カンベエが片眉を下げてはにかみながら笑う。
「俺がそなたの想い人以上になれるかはわからぬが・・・俺は、そなたに居て欲しい。此処でずっと殿を守ると誓おう」
そう言って、カンベエは手を後ろに回して髪を結っていた麻紐を外した。
短めの一本の紐を手に何をするのかと伺えば、呆然とするの左手を取って、細い薬指の根元に緩めにそれを結びつけた。
器用にできた蝶結びの余りが、指の間から落ちてゆらゆらと揺れている。
「・・カンベエ、君・・」
「嫌ならば己で外してくれ」
苦笑いしながら告げるカンベエの顔を見上げれば、その顔が揺らいでいた。
そこではやっと自分が泣いていることに気付く。
カンベエが余計に困ったように笑うのが何となく見えた。
「女の涙に慣れておらぬのでな・・・その、泣き止んで欲しいのだが」
「ごめんなさ・・っ」
謝りながらも、は思わず小さく笑ってしまう。
きっといつか、嫌と言うほど女の涙に困らせられる日が来ますよ、と言ってしまおうか。
零れる涙を袖で拭って、は笑みを浮かべながらカンベエを見た。
安心したようにを見つめるカンベエに、誓いの印のお礼を言おうと口を開いたときだった。
どぉん、という戦艦全体を揺らすほどの衝撃音とともに。
まるで二人の間を裂くような大音量での警報が戦艦内に流れた。
次いで、雑音交じりの機械的な指令が下る。
『敵本艦襲来。全部隊持ち場に戻り戦闘配置につけ』
途切れ途切れの放送が終わるや、再び戦艦に衝撃が加わった。
執務室の窓に目を向ければ、蟻の大群とも思えるほどの敵の小型戦艦や鉄筒、雷電が飛び交っていた。
見たことのない恐怖にが体を竦めれば、それに追い討ちを掛けるように途切れていた放送が流れた。
『―――隊は上杉、第四部隊は武田、第五部隊は島田が指揮を執れ。尚、―――第七―隊―に―』
途切れる放送の中、確かに聞こえた。
自分の名が呼ばれるや、カンベエはソファーから飛び出し、愛刀を腰のベルトに挿した。
予備の麻紐で髪をくくり、両手に拳を作り、天井を仰いでひとつ大きく息をする。
戦を前に、全身の神経を研ぎ澄ませている。
に向き直ったとき、それは年下の若いカンベエではなく、一人の軍師島田カンベエの顔つきをしていた。
以前からあった鋭さは増し、そして以前にはなかった穏やかさが僅かに入り混じっている。
兵士たちが安心してその命を預けられると思える、理想の指揮官の顔立ちだった。
「殿は此処に居てくれ。絶対に部屋から出てはならぬ」
「カンベエ君・・っ」
出立しようとするカンベエを、は悲痛な声で呼び止めた。
どんなにカンベエが強かろうと、ここは戦場。
絶対的な生還など望めはしない。
もうカンベエは帰ってこないかもしれない。
そんな不安と恐怖がの体を震えさせる。
「・・あ、の・・っ」
じっとを見据えるカンベエから目をそらし、は床を見つめた。
ここで彼を引き止めてどうなる。
彼は、己の責務を果たすべく、侍として戦の中に赴こうとしているのに。
自分だけが弱くてどうする。
は震えそうな両手を握り締めて、無理矢理笑顔を作って顔を上げた。
「行ってらっしゃい、お気をつけて」と気丈に送り出すために。
そして勇気を出して顔を上げれば。
深緑の軍服が目の前に飛び込んできて。
強く強く、カンベエに抱きしめられた。
懐かしく覚えのある、の全てを包む抱きしめ方で。
背が軋むほど強く。
「・・」
「カンベエ・・君・・っ」
「待っていてくれ。必ず、そなたをめとりに帰ってくる」
止まったはずの涙がじわりと滲んだ。
勢いよく抱擁を解かれ、押し付けるように唇を重ねられ、カンベエはすぐに離れていった。
「行って参る」
それだけを告げて、に何も言わせずカンベエは部屋を出て行った。
ばたん、と扉が閉められた瞬間、は全身から力が抜けてその場に座り込んだ。
床に、着物の膝に、ぽたぽたと雫が落ちる。
抱きしめられた体が痛い。
重ねられた唇が熱い。
何も言わせてくれないカンベエがずるいと思った。
「・・・ぅ・・カ・ベエ君・・っ」
ひたすらに彼の帰還を願った。
絶対に生きて帰ってきて。
帰ってきたら真っ先に、この麻紐を彼の指に結び付けてあげたい、と。
涙でぼやける視界で、は自分の指に結び付けられた麻紐の端をそっと引いた。
しゅるり、と結び目が解けた瞬間。
覚えのある常闇が、を覆った。
ぞくりと体を走る悪寒。
感覚が徐々になくなっていく。
あんなに待ち望んでいた元の世界に戻る時がきたらしい。
意識を引き剥がされそうになりながら、だがは泣いて懇願した。
「待って・・お願い待ってっ!あと少し・・・あと少しだけでいいから・・っ!!」
亡霊のような常闇に包まれて、はぎゅっと手を握り締めた。
声にならぬ声で最後に叫んだのは、愛しいあの子の名前だった。
*
いつも皆が食事を取る座敷に、今はカンベエとシチロージ、キララとカツシロウの姿しかない。
静かに夕餉を取る音だけが部屋を満たしていた。
夕方を過ぎてもは見つからず、仕方なく二つの班にわけて探すことになった。
今はユキノにヘイハチ、キュウゾウとキクチヨ・コマチ組が蛍屋内を探している。
と、調度そこへ時間交代で五人が戻ってきた。
「やはり見つからぬか・・」
「えぇ・・・。これだけ探しても見つからないなんて」
「後、探していないところはどこですかねぇ」
ヘイハチはうーん、と唸りながら辺りをきょろきょろと見回す。
天井裏、床下・・・いやまさか、と思いながら、不意にヘイハチは外へと視線を向けた。
「井戸に落ちたなんてことは」
「・・・・・」
「・・・・・」
何気ない言葉に、カンベエとユキノは背に氷を入れられたような気がした。
カンベエは慌てて立ち上がり、井戸のある方へ向かおうとしたとき。
「きゃぁぁっ!!」
どすぅん、がらがらんという何かが崩れる音と、可愛らしい悲鳴が遠くから聞こえてきた。
聞き間違えはずなどない。
あの声はまさしく。
「!!」
「ちゃん・・っ!」
カンベエを筆頭に、ユキノとシチロージ、キュウゾウは慌てて声のした方へと向かった。
長い廊下を突き進み、角を曲がったところで。
横に開かれていた納戸と、雪崩の如く零れ落ちている用具等と。
床に跪いて、けほけほと咳き込むの姿があった。
「!」
「は、はい・・・・・え?あれ・・?」
カンベエはの前に片膝をつき、の肩に手を置いた。
がゆっくりと顔を上げれば、その眼には涙が浮かび、頬には涙を流した跡があった。
「、無事か。大事無いか?」
「あ・・カンベエく・・っ」
「・・・?」
中途で口を押さえて言葉を切るを、カンベエは不思議そうに見る。
は慌てて「カンベエ、様・・・」と言い直した。
そして。
「カンベエ様・・・」
「なんだ」
「ユキノ、さん・・」
「ちゃん。大丈夫?」
「シチロージ様・・・キュウゾウ様も・・」
「一体どこに隠れていたんですかい?ちゃん」
心配そうに苦笑するシチロージの後ろで、キュウゾウが穏やかに目を細めたのが見えた。
「帰って・・これた・・」
ほっと息を吐き、安堵するを四人は不思議そうに見つめた。
が何処に行っていたかはまた後で聞くことにするとして、まずは煤だらけのに風呂に入るようにユキノは命じた。
「ちゃんだけが煤掃きされていないじゃないの。もう数刻後には年明けよ。早く煤を落としていらっしゃい」
「はい。ありがとうございます、ユキノさん」
「いやぁ、見つかってよかったよかった」と笑うシチロージとともに、ユキノは廊下を引き返していく。
キュウゾウもまた、のそばにはカンベエがつくと認め、ちらりとに視線を送って去っていった。
残されたは、ほっとしつつもどこか放心状態でいた。
「」
「あ・・はい」
「怪我はないのか」
「はい、特には。あの・・・・カンベエ様」
「ん?」
自分を優しげに見つめるカンベエを、は不思議そうに見た。
「何もお聞きに、ならないのですか」
「んぅ・・・まぁ。が無事にここに居るということで良しとしよう」
そう言って笑って、ぽんぽんとの頭を撫で叩く。
煤を被った頭から埃が微かに舞い、「これは、早く湯を浴びた方がよさそうだな」とカンベエは苦笑する。
その優しい笑みに、は改めて帰ってこられたことを実感するのだった。
先に立ち上がり、数歩前を行くカンベエの背を、は床に座ったまま見つめ上げた。
「夢・・・だったのかな・・」
不思議な感覚に陥る。
これは、納戸の神が見せた年暮れの悪戯だったのだろうか。
あの時空の旅は、単なる夢だったのだろうか。
それはそれで、何だか哀しい。
「。急がぬと、また女将にどやされるぞ」
「は、はい。今参りますっ」
「早く風呂に入って、夕餉を取って」
「はい。除夜の鐘を聞いて皆さんに御挨拶を」
「いや・・・」
不意にカンベエはの言を切り、僅かに首を巡らせた。
何だか嫌な笑みが浮かんでいる。
「カンベエ様・・?」
「お主の部屋で年を越そうか」
「え・・はい。構いませんが」
「良い年が迎えられそうだな。除夜の鐘を聞きつつ、姫始めか」
「ひめ・・・?・・・っ!」
「趣があってよいな」
「カンベエ様っ!!」と真っ赤な顔でいさめれば、カンベエは笑いながら座敷へ戻っていってしまった。
は頬を膨らませながらその場を立ち上がり、だが散在する用具等を片付けようと今一度床に膝をついた。
箒を集めて納戸にしまい、藁で括られた草履の束を手に取ろうとして。
「・・・ぁ・・・」
の眼に、あるものが留まった。
見覚えのある、細い麻紐。
嘘だ、と思いながら、は震える手でそれを拾い上げた。
手の平に乗せてそっと包み込む。
まさか、こんな麻紐、納戸になら幾らでもあるはず。
そんなはずない、と思えば。
「・・・あ・・ど、して・・?」
ぽたり、と涙が零れた。
言葉を紡いだ唇が、唐突に熱を持ち出す。
押し付けられた唇の感触が、不意に戻ってきた。
夢ではない、と。
心が言っていた。
*
風呂に浸かって煤を落とし、軽い夕餉に蕎麦を食べて皆と談笑して。
日付が変わるまで後少しというところでお開きになり、各々が部屋に戻って床についた。
そして約束していた通り、の部屋をカンベエが訪れ、しばしカンベエの酌に付き合い、床を共にした。
酒を飲んだカンベエの体は吐く息とともに熱く、の体をも熱くさせた。
その日の夜は、不思議な想いに満ちていた。
いつもはカンベエに抱かれていることで頭がいっぱいで、他のことなど弾き出されてしまうのに。
褥に寝かされて、カンベエの手に体をまさぐられるたびに、カンベエに口付けられるたびに、低く重みのある声で名前を呼ばれるたびに。
の中で熱が高まり、体が震えた。
いつもならとても恥ずかしくできないことにも応えられた。
初めて後ろから抱いてもらった。
褥に頬を押し付けて、腰を上げて、背を反らして。
カンベエの胸の鼓動が背中を通して伝って、耳元で名を呼ばれて快感が背を駆け抜けた。
ただ、カンベエの顔が見えないことが不安で寂しくて、中途で懇願して体の向きを替えてもらった。
普段はとても出せないあられもない声を漏らし、その声がカンベエを余計に喜ばせ熱を高めさせた。
一度果てても熱は収まらず、むしろカンベエの熱欲が引き抜かれるのを寂しいとすら思えた。
は声を上げて鳴く。
「何かあったのか知らぬが・・・今日はまた、随分と大胆だな」
「そん、な・・・何も、ありません・・っ」
カンベエの首に強くしがみつけば、細い二の腕を掴まれて引き離され、強く口付けられた。
カンベエの唇の感触。
の心が、とくんと揺れる。
心が、体が、覚えている。
二人のカンベエの口付けを。
無性に泣きたくなって、は一度唇を放し、自分からカンベエに口付けた。
意外なの行動に、カンベエは目を丸くする。
「。本当にどうした」
「カンベエ、様・・っ」
「・・・・?」
「・・カンベエ様・・お願い、です。・・・私を・・・放さないで下さい」
カンベエの首にすがりつくは、まるで何かに懺悔しているように見えた。
震える体で抱きついてくるの背を、カンベエは優しく撫で、そして手で細い体を支えて二人共に褥に横になった。
細い足が浮く。
繋がったままの部分が焼けるように熱い。
横たえられて見上げるカンベエは、見慣れた優しい目でを見下ろしていた。
戦場を駆け巡って研ぎ澄まされた鋭さと、人を想う穏やかさを織り交ぜた、が好きな眼。
「あぁ・・お主の、思うがままに」
「・ん・・カンベエ、様・・っ」
甘く痺れた痛みが体中に走る。
頭がおかしくなりそうで、顔を歪めて懇願すれば、カンベエが口付けてくれた。
優しい唇の愛撫には目を閉じる。
遠くで除夜の鐘が鳴っている。
あの鐘は、幾つ目なのだろう。
甘いまどろみの中、二人は寄り添って目を閉じた。
*
三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい
ぱちりと目を開ければ、いまだ夜で。
除夜の鐘の音はもう聞こえなかったが、朝だと告げる雀の鳴き声もしなかった。
気だるい体を上半身だけ起こせば、「まだ寝ていたらどうだ」と横から声をかけられた。
斜め後ろを振り向けば、カンベエが頬に手をついて肘立てていた。
「カンベエ様・・・起きていらしたんですか」
「偶々、な。夜は冷える。まだ布団に入っていたらどうだ」
そう言って自分の横を二度叩くカンベエに、は恥ずかしそうに笑んで再びそこに身を寄せた。
カンベエの腕に抱かれて、は僅かに身をよじって顔を天井に向ける。
灯りのない夜の部屋は、薄暗く、闇夜に慣れた目で何とか形が見える程度だ。
「まだ・・陽は昇りませんね」
「あぁ。夜明けまでまだだいぶある」
カンベエの胸に頬を寄せて、ゆっくりと目を閉じた。
目を閉じても、開けても暗闇が広がる。
は再び目を開け、「暗いですね・・」と呟いた。
「夜は真っ暗で・・・・闇色で。鴉の羽根のようです」
「お主は、そう思うか」
その言葉に、は不思議そうにカンベエを見上げた。
「カンベエ様は違うのですか?」と問いかければ、闇の中で焦琥珀色の瞳が穏やかに笑んだ。
淀みなく、低く耳に心地いい声が紡ぐ。
「夜は、決して闇ではない。月があり、星がある。雲がそれを覆ってしまえば、人が灯りをともす。故に夜は闇ではない。夜は・・藍色をしておる」
「そう思わぬか、」と、そう言うカンベエはどこか楽しげで。
そしてその言葉に、は心を激しく揺らしてカンベエを見上げた。
「カンベエ様・・・それは・・」
「うむ。誰に聞いたのかは忘れてしまったのだが」
さて、誰であったかとカンベエは思案する。
そんなカンベエを見つめながら、は目の奥が熱くなるのを感じた。
揺れる瞳を隠すため、カンベエの胸に顔をうずめた。
「?」と声をかけながら、カンベエが優しく頭を撫でてくれる。
顔を隠すが、これ以上ないほど幸せそうに笑っていたのを、カンベエは知らない。
*
『カンベエ君。先程の、質問の答えなのですが・・・・私は、夜は藍色をしていると思うのです』
『藍色・・?』
『えぇ。夜の空には月や星があって、それが闇を照らしてくれます。雲がそれを覆ってしまっても、私たち人が灯りをつけます。だから、闇は薄まり、藍色になるのです』
『女は皆綺麗事が好きだな・・』
『あれ?お気に召しませんでした?』
『・・いや』
に抱きつきながら、ぽつりと「そうかもしれぬな」と少年が呟いたのを、は優しく笑んで聞いていた。
その日を境に、少年が闇を恐れなくなったのは言うまでもないこと。
現世の貴方と過去の貴方に愛された私は、怖いくらい幸せです。
つ ぶ や き
使いまわしでごめんくさい
これは2006年 百花楼お年玉企画に書いたカンベエパラレル長編夢です。
正月のおめでたい時期に書いた、おめでたくもなんともない夢です。
閲覧希望者様に限り、メールでのお問い合わせの後送らせていただきました。
SAMURAI7をことごとく無視した物語です。
タイムスリップとか、若いカンベエさんとか、無駄にエロとか、姫始めとか。
ホント好き勝手やらせていただきました。
ちょっと解説なんぞをさせていただきますと。
今回のテーマは、「島田カンベエの侍としての成長」なる、ビッグなものに挑戦させて頂きました。
カンベエさんにも、何かを恐れて迷いのあった時代があったはずという勝手な妄想のもと、「ではそこに成長のターニングポイントとしてちゃんが何らかの影響を与えていたら面白いかも」というこれまた原作を綺麗に無視した発想。
ちなみにこの『藍色夜曲』ですが、希望者様に配布したものは18〜20禁のどうしようもないエロが途中に挿入されております。
今回はお蔵出しということで、エロの部分は削除・修正させていただきました。
ご了承くださいませ。
やたらとなが〜い無駄話(本編含む)にお付き合いくださり、誠にありがとうございました。ではまた!
戻る!
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