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a l t z
黒板の上の、学校らしい丸時計が午後の4時15分を指している。
夕方の日差しが教室をオレンジ色に染めていた。
黒板には、『卒業おめでとう!!』や『3年7組サイコー!』といったはじけた言葉が色取り取りのチョークで所狭しと書かれている。
教室の床のあちらこちらには花びらが落ちている、そこは卒業式を終えて3年生を見送った7組の教室。
つい先程まで皆で高校生活最後の記念写真を撮った教室は、今は2人の生徒が静かに空気を共有していた。
ヘイハチは卒業証書の入った筒を小脇に抱えて教卓に寄りかかり、彼女は教卓前の机の上に腰掛けて両足をぶらつかせていた。
膝の上に卒業アルバムを乗せ、硬いページをゆっくりと捲っていくのをヘイハチは静かに見ろしていた。
2人とも今日で神無学園高等部ともお別れ。
この一年間をともに過ごした教室で、感慨深い想いに浸っていた。
「卒業かぁ。3年なんて早いもんだねぇ・・・」
「そうですねぇ。ついこの間入学したと思っていましたが」
「林田、爺くさい。それ、近所のおばちゃんが言う常套句だよ」
「え〜?でも言われますでしょう、委員長だって」
彼女はアルバムから視線をヘイハチに向け、「今朝、隣の家のおばちゃんに言われた」と笑ってみせた。
笑うと唇が三日月形に上がる彼女の、その笑い方がヘイハチは好きだ。
ヘイハチは彼女を『委員長』と呼ぶ。
それは彼女が3年7組の学級委員長を務めていたからだが、彼のみならず学校中の者が彼女を『委員長』と呼んでいた。
キュウゾウが学園のヒーローなら、彼女はまさしく学園のヒロインだ。
しっかり者でさばさばとしていて、容姿も良い彼女に想いを寄せる男子は学年を超えて星の数ほどいる。
それでも3年間、彼女は数多くされた男子からの告白をどれも受けはしなかった。
それもそのはず。
学園の誰も知らないだけで、彼女の心の中にはずっとただ一人の者しかいなかったのだから。
それが今目の前にいるクラスメートの林田ヘイハチであり、もうずっと前から2人がそういう関係であることを知っているのは、おそらくはキュウゾウくらいか。
静かな7組に、ぱたんとアルバムの重いページが閉じられる音が木霊する。
彼女は膝の上のアルバムから視線を上げ、目の前で教卓に寄りかかるヘイハチを見上げてふっと笑み、それから視線を彼の後ろの黒板に向けた。
ヘイハチも彼女の視線に気付き、ゆっくりと振り返る。
白、ピンク、青、黄、緑、色取り取りのチョークで書き殴られた祝いの文字たちが目に飛び込んでくる。
『卒業おめでとう!!』
『3年7組サイコー!』
『みんな元気で』
『また会おうぜ!!』
大小さまざまに書かれた、クラスメート35人分のメッセージ。
その一つひとつを見ていた彼女の目がある一点で留まり、彼女はふっと穏やかな笑みを顔に浮かべた。
「どうかしました?」
「さらば、か」
「はい?」
「ほら、そこ。『卒』の左下」
彼女は机の上に座ったまま片腕を上げて指で黒板を指す。
でかでかと書かれた『卒業おめでとう!!』の「卒」の左下。
寄りかかっていた教卓越しにそこを見れば、ヘイハチの目に小さな小さな文字が映った。
『さらば』
「キュウゾウでしょ、その字」
「どうして」
「こすった跡があるから」
小さな字で書かれた『さらば』のチョークの文字は、僅かに手でこすってしまったような跡が見て取れた。
それは左利きの生徒が横書きで文字を書いたときに時たま見られること。
3年7組で左利きの生徒といったら、キュウゾウぐらいだ。
彼女の相変わらずの鋭い観察眼にヘイハチは感心してしまう。
「さらば、って。戦国武将か、あいつは」
「どちらかというと侍のようですね」
「あぁ、合ってるかも」
ヘイハチと彼女は、それを書いたであろう彼のことを思い出して肩を揺らして笑い合う。
剣道部主将で武士道精神の熱いキュウゾウは、去り際まで潔かった。
彼女は膝の上のアルバムをどけて、ひょいっと床に両足で立ち、うーんと一つ大きく伸びをして溜め息をつきながら肩の力を抜いた。
ヘイハチは黒板から彼女へと身体を向け直す。
彼女は眼を細めて懐かしむように黒板を見つめて、緩く微笑んでいた。
「本当にさよならなんだねぇ、こことも」
そう言って静かに微笑む彼女の横顔にオレンジ色の夕陽が当たる。
今この瞬間こそが今日一番のシャッターチャンスであろう。
一枚の中世画のような美しい光景に、ヘイハチの目が釘付けになる。
穏やかな橙色の光に包まれて、彼女はゆっくりと眼を閉じていく。
彼女は綺麗だ。
自分には勿体無いほど、とヘイハチはいつも思う。
それでも自分は彼女が好きで、そして彼女もヘイハチを選んでくれた。
まだ十代だというのにこんなに幸せでいいのだろうかと、時々不安になる。
幸せと不安が交互に積み重なって、高校3年間が過ぎていった。
そしてこれからもきっとその積み重なりが続くのだろう。
それでもきっと、ヘイハチは彼女のことを好きでいるのだろう。
「寂しいですか」
「ん・・・まぁねぇ。なんだかんだいって楽しかったからね。明日からはもう制服着て、ここに来ることもないのかと思うと、何だか不思議な気分だよ」
「私もですよ。4月から自分が大学生だなんて、いまいち掴めませんねぇ」
「林田は神無大学かぁ。工学部の・・・えぇと」
「機械工学科ですよ」
「いいな。第一志望だろ?」
「運が良かったと申しますか。それはそうと委員長は」
「私も神無だよ。後期の結果待ちだけど」
「受かっていますよ、委員長なら」
「じゃないと困るさ」
行くとこなくなる、と彼女は苦笑してみせる。
彼女はこの歳で十分すぎるほど苦学生だ。
遠く地方の実家から家出してきた彼女は、働きながら高校に通って大学受験までした。
受験料がかかるからと滑り止めを一つも受けず、神無大学の前後期のみを受験した彼女は、前期のセンターを落としてしまっていた。
成績優秀な彼女が失敗した理由は簡単、風邪をこじらせていたのに医者嫌いで病院に行かなかったから。
ヘイハチが彼女のアパートに見舞いに行って病院に行くよう勧めたときも、『絶対行かない!』と一点張りで彼女は布団から出てこなかったものだ。
彼女の進学は後期試験の結果にかかっているのだが、ヘイハチは別段心配などしていなかった。
成績でトップクラスの彼女が受からないわけがない。
「さてなぁ。落ちてたらどうしよう」
「そう言う割には口調が深刻そうじゃないですね」
「そんなことないさ。あぁ、やだなぁ浪人は金がかかるし・・・」
「ほらほら、落ちたときのことを想定しないで」
「今のご時勢、就職も難しいしなぁ」
「そうですかね」
「そうだろ?お前こそなんか深刻そうじゃないね?」
彼女はゆっくりと足を進めてヘイハチの横を通りすぎた。
教卓を挟んで彼の反対側に立ち、彼に背を向けて黒板を間近で眺める。
35人分のメッセージに何となく眼を通していれば、不意にヘイハチが「いい考えがありますが」と彼女の背に声をかけた。
彼女は聞いているような聞いていないような生返事をして、黒板上で視線を動かす。
「永久就職、なんてどうです?」
教卓一つ分の距離で聞こえてきた言葉に、彼女はゆっくりと振り返る。
ヘイハチは教卓の上に両腕を載せて、その上に顎を置いて彼女を見上げていた。
猫みたいに細い目の片目だけが薄っすらと開き、悪戯っ子のように笑っている。
「どうです?」と彼の目が言っているのがわかり、彼女はわざとらしくヘイハチから顔を背けて窓の外を見やる。
ヘイハチに向けた疑い深い横顔、緩く結った長い髪の隙間から垣間見える耳は僅かに赤い。
「・・・どこに?」と、まるで答えをわかっているような声で彼女は問いかける。
「おや?言わずともわかっておられるでしょう?」
「・・・まぁ。なんとなく」
「なんとなく、ですか」
「・・・8割5分くらいは」
「なんか微妙ですね」
両目を細めて肩を揺らして笑うヘイハチをちらりと見やり、彼女は頬も赤くして唇を尖らせる。
素直じゃないなぁ、と可愛く思えてしまうのを口には出さず、ヘイハチはにっと笑ってみせる。
彼女はまだ微かに浮き足立つ気持ちをそのままに、教卓の上に両手を置いてヘイハチを見下ろした。
「でもねぇ。18で永久就職って、早くないかい?」
「一般的に考えればそうですね」
「早すぎな気もする・・・」
「まぁ、それはそれ。少々予定をずらせばいいだけのことですが」
「は?」
ヘイハチの言葉の意図がつかめず、彼女はいつも彼が出すような間の抜けた声を出した。
自分を見下ろす彼女にヘイハチは得意気な笑みを向け、まるで子どもが悪戯の計画を話すように楽しそうに自分の未来を語った。
問題なく行けば大学を卒業するのが22歳ですから、23歳で希望の理系企業に就職して。
まぁとりあえず最初はそれなりに働いて金を貯めます。
幸い私は煙草もギャンブルも好みませんから、貯金もすぐに貯まるでしょうし。
で、希望は25歳で結婚して、マンション住まいでも構いませんが、できれば米の旨い田舎に一軒家をかまえたいものです。
ヘイハチは教卓の上で顎を載せて組んでいた腕を片方解き、人差し指をぴんっと立てた。
「それから子どもは一人。できれば」
「女の子がいい?」
「はい、その通りです」
「細かい計画」
「綿密と言って下さいよ」
立てた指を引っ込めて、ヘイハチは彼女を見上げてにっと笑う。
彼女もそんなヘイハチを見て、肩を揺らしておかしそうに笑う。
くすくすと笑う唇には、綺麗な三日月形が浮かんでいた。
彼女は教卓の上に両腕を置いて顎を載せ、ヘイハチと同じ格好を取って視線を合わせた。
数秒の間、互いに何も言わず視線を交わし、それから彼女の方が彼の名を呼んだ。
「林田」
「はい」
「あのさ」
ヘイハチを見つめて、彼女は微笑む。
両耳の小さなピアスがささやかに光を放つのを、ヘイハチは眩しそうに見つめた。
「女の子産めるかどうか、ちょっと自信ないんだけど」
彼女の静かな声が夕暮れの教室内を、ヘイハチに向かって真っ直ぐに届けられる。
「立候補してもいい?」、と。
あなたが語るその小さな箱庭のような未来設計の中の。
あなたの横に立つ人になりたい。
ヘイハチは唇の両端を上げて幸せそうに笑い、「勿論ですよ」と答えた。
彼の答えに、彼女は手の甲に額を載せて顔を伏せ、緩んだ口元の笑いを腕の中に隠す。
それでも露わになった両耳が真っ赤に染まっているのがヘイハチにはよく見えて、彼は声を殺して肩で笑うのだった。
はなっから、あなた以外にこんな話をするつもりはなかったんですよ、と。
一緒の帰り道ででも言ってしまおうか。
照れ屋の彼女はきっと顔を背けて、また耳を赤くするだろう。
そんなあなたと手を繋いで、夕暮れの中を一緒に帰りましょう。
「委員長」
「・・・うん?」
「卒業しても、どうぞよろしくお願いしますね」
「・・・うん」
ヘイハチの声がもう一度、委員長と彼女を呼ぶ。
手の甲に額を載せていた彼女はゆっくりと顔を起こし、笑うヘイハチをじっと見つめる。
ヘイハチが身を乗り出して彼女の額に手を当て、「赤くなってますよ」と告げれば、彼女は唇を尖らせて「ほっとけ」とぶっきら棒に答える。
それでも彼の手を振り払うことなく、不機嫌そうな顔でじっとヘイハチを見据えていたが。
彼女はふっと口元を緩めて、唇を上げて笑うのだ。
そのあまりの可愛らしさに、ヘイハチは思わず額に置いていた手をどけて、思い切り身を乗り出して彼女の額に口付ける。
自分から仕掛けておいて、ヘイハチは照れたように頬を赤くしてそっぽを向いてしまう。
照れくさそうに指で頬をかいていれば、彼の耳に彼女の呼び声が届く。
「ヘイハチ」
彼女が彼をそう呼ぶ時は決まっている。
予想通り、そっぽを向いて彼女の方に向けていた頬に柔らかなキスが落とされた。
ヘイハチは細い眼を少しだけ開いて彼女に顔を向け直す。
不意打ちに驚く彼を、彼女はしたり顔で見つめて笑っていた。
目には目を、それは彼女の流儀。
これでおあいこ。
笑い合って、見詰め合って、それから教卓を挟んで互いに身を乗り出して、ゆっくりと唇を重ねた。
口付けたまま、卓上に置かれた彼女の両手に指を絡めて繋ぎ合わせる。
教室を包むオレンジ色の夕陽が鮮やかな緋色に変わるまでの、短くて甘酸っぱい、高校生活最後の思い出。
私たちは、橙に永遠を誓うのです。
その3日後。
彼女のもとに一通の郵便が届く。
神無大学、後期の合格通知。
それも成績最優秀者に贈られる、学費免除の特典つき。
もうすぐ桜咲く、春の陽、うららか。
すいません × 100万。
曹長さんとハッチの学生バージョンも見たくて・・・
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